和田アキ子の限界「アッコにおまかせ!」に終了説

和田アキ子

毒舌が過ぎて不適切発言が批判されるようになってきた近年の和田アキ子(写真:GettyImages)

「WEB女性自身」にて、TBSの長寿バラエティ番組『アッコにおまかせ!』の打ち切り説が報じられて話題を呼んでいる。記事によると、番組開始から40年目を迎える今年中に終了を発表して、来春に終わらせる方向で話が進んでいるという。

テレビ局から正式に発表されている情報ではないので、そのまま鵜呑みにするわけにはいかないが、最近この番組の根幹を揺るがすようなトラブルが相次いでいるのは事実である。

8月11日放送回では、パリ五輪女子やり投げ金メダリストの北口榛花選手が休憩中にうつぶせになっている映像を見て、司会の和田アキ子が「トドみたい」と発言したことが問題になった。失礼であると批判が殺到したことを受けて、翌週の放送では和田が自ら謝罪をした。

芸風と時代の風潮にズレ

長年にわたって「芸能界のご意見番」と言われ、さまざまなトピックに関して自分の意見を積極的に発信してきた和田も、最近ではピントがずれた意見や不適切な発言が目立つようになり、ネット上などで批判されることが増えている。

この傾向は今になって始まったことではなく、少なくともここ10年ほどの間、彼女に対する逆風は存在していた。バラエティ番組の中では、和田はあえて「男勝りのパワハラ的な芸風」を貫いているようなところがあり、かつてはそこが面白がられていた。

和田と親しい関係にある芸人やタレントは、彼女のそういう部分をさんざんネタにしてきたし、和田本人もそれを楽しんでいた。しかし、最近の世の中ではパワハラ的な言動に対して厳しい目が向けられるようになり、バラエティの中でもそういうキャラクターが成立しづらくなってきた。最近の彼女が何かにつけて批判されがちな理由の一つはそこにある。

しかし、歌手としてもバラエティタレントとしても何十年もトップに君臨してきた彼女を甘く見てはいけない。ここまで生き残ってきたのにはそれなりの理由がある。彼女の経歴を簡単に振り返りながらそれを考察していくことにする。

和田アキ子は1950年に大阪府で生まれた。父親は料亭を経営しながら柔道の指導をしていた昔気質の人物。母親は乾物屋を営んでいた。家庭では父が絶対的な権力者として君臨しており、子供たちは全員敬語で接していた。家族は全員、父に脅えながら暮らしていた。

家庭での抑圧が強かった和田は、その反動で非行に走った。小さい頃から体が大きかったため、街を歩いていてもからかいの対象となることが多かった。それを聞くと思わず手が出てしまう。ケンカ、酒、タバコに明け暮れ、「ミナミのアコ」として恐れられていた。

人生を決定づけた洋楽との出会い

そんな和田の人生を決定づけた出来事があった。それは、中学のときのこと。初めての英語の授業でショックを受けた。

「『ハウアーユー』って何やねん」

自分には全く理解できない新しい言語に触れて、新鮮な驚きを感じた。負けん気が強かった和田はそこで「ナメられてはいけない」と思った。さっそくレコード店に向かって適当に洋楽のレコードを買い、それを何度も聴いて英語の歌を覚えた。そして、友達の前で披露するようになったのだ。そのとき買ったレコードがレイ・チャールズの『愛さずにいられない』。のちに親交を深め、「レイちゃん」と呼んで慕うようになる世界的ソウルシンガーをこのとき初めて知った。

歌に目覚めた和田は、ジャズ喫茶やダンスホールに出入りするようになる。そこで他人が歌っているのを聴いた和田は「私のほうがうまいんちゃう?」と感じた。すぐに舞台に上がり、自ら歌うようになった。その様子を見ていたホリプロ社長(当時)の堀威夫が彼女をスカウトして、歌手としてデビューすることが決まった。

しかし、生活は苦しかった。ほとんど休みもないのに給料は月3万円のみ。寮の代わりに社長の自宅に居候していた。社長に気を使っていた和田は、ご飯のおかわりを申し出ることもできず、いつも空腹に苦しんでいた。近所の寿司屋で「ちらし寿司3人前を食べきったら無料」という企画をやっていたので、トイレで吐きながら無理矢理全部食べたこともあった。

1968年に出したデビュー曲『星空の孤独』は期待していたほど売れず、和田はますます苦悩を深めていた。だが、2曲目にリリースした『どしゃぶりの雨の中で』がヒット。その後、『笑って許して』『あの鐘を鳴らすのはあなた』などのヒット曲が次々に飛び出して、和田は一気にスターダムに躍り出た。

ヒット曲が出た後もイジメに遭う

しかし、ぽっと出の新人歌手に対して芸能界の先輩たちは厳しかった。当時の楽屋は、一部の大御所以外は男女別の大部屋が当たり前。男性のように図体の大きい和田は先輩たちから「男がいるから着替えができないわ」と嫌みを言われたり、わざとお茶をこぼされたり、靴にマジックで「バカ」と書かれたり、といったイジメに遭った。収録中にも、ある男性歌手に「お前がいると俺の背が低く見えるから、俺の横に並ぶな」と言われ、蹴飛ばされたりしたこともあった。

壮絶なイジメにも負けず、和田は歌手として確実にステップアップしていった。そして1973年、彼女のキャリアを決定づける1つの番組が始まった。一時代を築いた伝説的なバラエティ番組『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(日本テレビ系)である。

ここで和田は、ゴッドファーザーをもじった「ゴッド姉ちゃん」に扮して、子分役のタレントを鍛えるためにさまざまな企画を仕掛けていく役割だった。ハリセン片手にせんだみつおら共演者を追いかけ回し、高圧的に振る舞うのだが、時に反撃されてひどい目に遭う、というアドリブ要素の多いコントだった。

和田アキ子

「ゴッド姉ちゃん」が当たり、トップへの階段を上り始めた(時事/1975年撮影)

この番組は、のちにバラエティでは当たり前になったドッキリ企画やリアクション芸の元祖とも言えるものだった。リアクション芸には、リアクション芸人と権力者の存在が欠かせない。のちに芸人たちもこの手の企画を多数手がけるようになったが、そのルーツはこの番組の和田アキ子にあると言っても過言ではない。

『うわさのチャンネル』は視聴率30%を超えるオバケ番組となったが、この番組で「和田アキ子=乱暴者」というイメージがすっかり定着してしまった。さらに、和田と親しい芸人たちが彼女の恐ろしさについてあることないことしゃべりまくったために、噂に尾ひれが付いて広まっていき、和田はますます恐れられるようになった。

「笑って許して」くれる優しさ

芸人たちが和田のことをさんざんネタにするのは、彼女が文字通り「笑って許して」くれる器の大きい人物だからだ。父に厳しく育てられ、若い頃にイジメにも遭った和田は、後輩やスタッフにはとても優しい。

また、好奇心が旺盛で、何でも一度はやってみる、というのがモットー。「ガングロ」がブームになったときには、わざわざ渋谷に出向いて生でヤマンバギャルを見たこともあった。

ここ最近でも「ポケモンGO」をやってハマったり、若手ミュージシャンのフレデリックから楽曲提供を受けたりしている。若者文化も頭ごなしに否定したりはしない懐の深さがある。

和田は体が大きいだけでなく、人としての器が桁違いに大きい。バラエティの世界で権力者のキャラクターを演じ続けてきた彼女が、本物の権力者として批判を浴びている現状は何とも皮肉である。

『アッコにおまかせ!』が終了を迎える前に、彼女のバラエティタレントとしての功績が再評価されることを願っている。

(ラリー遠田 : 作家・ライター、お笑い評論家)

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