サハリンに廃墟として残る戦前の日本製紙工場

1925年に完成、同年11月から操業した恵須取(ウグレゴルスク)の製紙工場。最盛期には1800人超の従業員がいた(写真・那部亜弓)
1945年8月8日に旧ソ連が日本に宣戦布告。北方から破竹の勢いで日本領に攻め込んできた。その1つに樺太、サハリンがある。サハリンは1945年8月、太平洋戦争で最後の市街戦が行われたところでもある。
広大なサハリン島の北緯50度から以南は日本領で、約40万人の人口を擁し、日本企業も多く進出していた。中でも島内に存在する豊富な針葉樹に目を付けた製紙企業が進出。しかし、敗戦で施設はそのまま手つかずのまま現在もその姿をさらしている。フォトグラファーの那部亜弓氏は、そんな日本企業の工場だった廃墟を訪れ、シャッターを切った。(写真はすべて那部亜弓氏撮影)

天を仰ぐ煙突、摩耗した外壁。静謐な大地にどんと立ちはだかる巨大建築物。ここまでの広大な水平の土地に浮かぶ建物を初めて目にした。太平洋戦争前にサハリンの大地に日本が建設した夢の痕跡だ。

日本の領地拡大に興味を持ち、かつての樺太の地、サハリンにはいったいどんな遺構があるのか知りたくなった。

たった40年間の日本領

運よく州都のユジノサハリンスク直行便に搭乗できた。フライト時間は2時間10分程度。千歳からは1時間20分。日本から一番近いヨーロッパだ。2009年9月のことだった。

樺太はもともとアイヌをはじめ先住民族が住む土地で、その樺太の北緯50度より南、いわゆる南樺太が日本の領土になった時代があった。日露戦争終戦後の1905年から太平洋戦争が終わった1945年までの40年間だ。

樺太が日本の領土になると、多くの人が新天地を求めて次々と開拓の理想に燃えて活動していた。明治の終わりには約1万2000だった南樺太の人口は、1945年には40万人だったと言われている。

1945年8月9日に日ソ中立条約を一方的に無視してソ連軍が侵攻を開始し、わずか2週間あまりで樺太は占領された。樺太の地では、本当の戦争は8月以降に起きたのだ。

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ホルムスク(真岡)の旧真岡郵便電信局。現在も郵便局があるが、日本時代とは違う建物が立っていた。1945年8月20日、真岡にソ連軍が上陸するとここで勤務中だった女性電話交換手12人のうち10人が自決を図り、9人が死亡した。「北のひめゆり事件」とも呼ばれる

サハリンには製紙工場だけでなく、神社や建築物も数多く残っている。また韓国籍の方も多く存在している。樺太の開発において、多くの韓国人が、樺太に渡ったからだ。実際に今回の旅で、運転をしてくれた男性は在樺コリアンだった。

場所はロシアなのだが、日本の建築物があったり、韓国の方がキムチを販売していたりと、面白い土地だなぁと感じながら旅をしていた。

樺太の森林のほとんどは国有林で、森林資源確保のため1907年、森林調査を実施した。その結果、樺太の針葉樹林はパルプ生産に適していることがわかると内地の大企業の工場誘致を行い、1914年の大泊工場を皮切りに、各地に相次いでパルプ工場が建設された。

1933年には王子製紙、樺太工業、富士製紙の三大製紙工場が合併。南樺太には9つの製紙工場が誕生した。巨大化した王子製紙は「大王子」とよばれ、樺太のパルプは日本の供給量全体の80%を占めるようになった。

いずれは、シェアを樺太で100%にしようと目指していたようだ。巨大廃墟と日本の発展を突き詰めたら面白いのではないかと考えた。

資源よし、土地よし、人材よし

恵須取工場は大正14年(1925年)に完成、11月から操業している。従業員は1800人以上いたそうだ。西海岸では最北の工場だ。

9つの工場の中で、最もアクセスの悪い場所が恵須取町(現ウグレゴルスク)だった。旅費もとても上がる。時間も取られる。しかしそれでも外せなかったのには理由がある。

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恵須取工場跡地。ここまで下がるとフレームには必ず山や別の建物が入りがちなのだが、それがまったくない。こんな広大な水平の土地に浮かぶ建物は初めてだった

それは、①1940年では樺太最大の人口の産業都市だったこと、②古い資料によれば、樺太で最も生産能力が高い工場だったということ、③木釜(木を煮る機械)の数が他の工場より多いということで絶対規模が大きい工場だと確信したからだ。

ウグレゴルスクは西海岸なので、稼働している鉄道はない。砂利道と聞いていたので4WDの車をチャーターした。その結果、旅費が高騰した。

州都ユジノサハリンスク(旧豊原)からウグレゴルスクまで356キロメートル、だいたい東京から名古屋ぐらいの距離だ。

酔い止め薬を飲んで、移動する。道中に通った砂利道も日本が切り開いたとのことだ。そして、ソ連侵攻後に戦火から逃げる住民たちもここを通過したと感じ、胸が締め付けられた。

恵須取町は島内最大級の産出量を誇った大平炭鉱があった。製紙工場が建設されて以降、移住者が殺到するようになった工業都市だ。昭和16年(1941年)には人口3万9000を数え、樺太庁があった豊原を超えて樺太最大の町となった。

それだけ栄えていた町にもかかわらず、資料や情報が樺太内で最も残っていない謎あふれる町だ。樺太の中でも恵須取は、ソ連軍から早い段階で攻撃されているが、あまりに激しい戦火で消されたのではないだろうか。

到着し、初めて工場を目にしたときまさに「兵どもが夢の跡」だと感じた。

当時まだネットに情報が少なく、現物を現地で目にした。まずは身動きできず畏敬の念で震え立ち尽くした。

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マカロフ(知取)工場跡地。この工場で最も好きな場所。ローマ遺跡のようだ。樺太の広大な土地だからこそできた巨大工場だった

勇気を出して、近づこうと足を踏み出す。雨と雪、そして海も近いので海風、これが時間の経過で摩耗した傷跡が錆びて風格を増している。

これまで日本国内でも製紙工場の廃墟に足を踏み入れたことはあったものの、廃墟というよりも古いプラントという感じで、 遺跡に近いのは初めて見た。

探索中に番犬6匹に襲われる、などのアクシデントがあったが、多くの痕跡を感じ取ることができた。

訪れたのは9月末だったが、緯度が高いため、体感的に12月の気温に相当する。着ていたジャケットでは肌寒かった。この日の夜、食事をしようと入店したレストランでは結婚式が行われており、街の人たちが集まっていた。

残留日本人と話す

その中に、日本人の男性を見かけたので、話しかけた。恵須取で幼少期を過ごし、戦後も日本には戻らず、ここで暮らしていらっしゃるようだ。

こちらの言葉は理解できるのだが、60年以上日本語から離れていたため、アウトプットはやはりロシア語だった。この地がロシアであること、64年の歳月を彼を通じて感じた。

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マカロフ工場。到着時刻が遅かったものの、9月でまだ日が沈む時間が遅かった。そのため十分な撮影時間を確保できたが、それでも撮り足らなかった

東海岸の町マカロフ、日本名で知取町にも巨大工場が存在した。ユジノサハリンスクからは列車で向かうことはできるが、ウグレゴルスクの翌日だったため、引き続き車で向かった。

同じく北部にあるため、直線距離はそんなに遠くないのだが、道路の問題で行きに通った一本道をひたすら南下してぐるっと大回りしなければならなかった。

知取町は農林水産業の街だったが、1927年に富士製紙が後背地の森林資源と知取川を生かしてパルプ工場を建設すると、大きく発展した。

工場ができてから、人口が一気に急増する。豊富な森林資源を生かして製紙工場で発展して樺太の第3の街まで上り詰めた。

知取の製紙工場は樺太の製紙業界が全力を挙げて建設した工場で施設が本当に広大だった。大正13年(1924年)に建設が始まって昭和元年(1926年)に完成、翌昭和2年から操業を開始した。

工場構内に炭鉱の坑口があり、工場の大事な燃料である良質な石炭をその場で入手できた。 広大な施設に豊富な森林資源、鉄道もあり、知取川の支流から工場も近いので製紙づくりにはうってつけの地形だ。

内部を見渡すと、この工場の特徴はほかの工場より奥行きのある空間が多いと感じた。川から原材料である木材をいかだで運んでいた。

調木、パルプ生成、抄紙、仕上げという生産ラインが直線状に整理されていて、ほかの工場より圧倒的に効率的に進化していた。まさに、製紙工場ができるために誕生した町といっても過言ではない。

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ホルムスクの工場跡地。ほかの工場と比べて屋根がなく、マカオのカトリック大聖堂のように壁だけが残っている場所が多い

昭和2年から操業開始したということは、敗戦までの18年しか動いていなかったことになる。

とはいえ、この工場は戦後の製紙工場の発展において、重要なものだったと感じた。

残念ながら、こちらの工場は、煙突を残して取り壊されてしまった。

鉄道の便のよさと不凍港

最後にホルムスク、日本名で真岡という町だ。間宮海峡に面した、水産業が盛んな町だった。 ここもやはり製紙工場ができると急発展した町だ。

ホルムスクは港湾都市であり、市場も多く、今回訪問したサハリンの街の中では一番活気があった。1945年8月20日、終戦後にソ連軍の襲撃を受けて多くの日本人が犠牲になったところでもある。

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ホルムスクの港湾。州都のユジノサハリンスクがビジネス街なら、ホルムスクは商業の街。日本でいうところの大阪のようなイメージだ

そんな街に存在した真岡工場。1919年9月操業開始した。他の工場では、周りに何もなかったが、真岡は割とすぐのところに住宅地がある。

恵須取や知取工場のように水もきれいではないし、土地も広くなく、森林も多くない。資源には恵まれていない。

それでも工場ができたのは、鉄道の便と、なにより冬でも港が凍らない不凍港(ふとうこう)だからだという強みがあったようだ。工場の建設にあたって、配慮された点は、雪解けの水をダムに貯水して工場用に使ったという。

もともと真岡は木造の工場だったが、初代工場は大火災になって、のちにコンクリートに建て替えられたそうだ。

日本はこれだけの大きい夢を形に変えたのだが、敗戦したことで多くの人を巻き込み、インフラはすべて失うことになった。9つすべての工場は、敗戦後はソ連に接収された。

その後、ソ連が製紙工場を引き継いだが、製紙業界にはあまり投資されることもなく、発展には至らなかった。日本が残した技術も陳腐化し、廃墟になっていった。

那部亜弓『知られざる日本遺産 日本統治時代のサハリン廃墟巡礼』(八画出版部)

あまり本や新聞を読む習慣が、日本より少ないからか。実際に、ユジノサハリンスクでも、本屋は見かけなかった。

廃墟の歴史をひもといていくとこのように日本の壮大な夢が隠されていた。かつての日本が樺太に残した東洋の夢の証しだと思う。わずか40年だが、その間に日本が残した爪痕は、今もサハリンの大地に点在している

(那部 亜弓 : フォトグラファー)

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