北朝鮮の金正恩氏にはやはり息子がいないのか

2024年5月、住宅建設の行事に出席した金正恩総書記(右)と、娘とされるジュエ氏(写真・EPA=時事)

韓国の文在寅・前大統領が、在任当時の外交安保政策についての「回顧録」を発表して話題になっている。一番注目されたのは、2018年4月27日に板門店における最初の南北首脳会談での金正恩・朝鮮労働党委員長(当時)の非核化についての発言だった。

「娘の世代まで核を頭に乗せて生活させられない」

文在寅「回顧録」の2つの注目点

文在寅・前大統領の「回顧録」では、金正恩氏は板門店で「娘の世代まで核を頭に乗せて生活させられない。アメリカにうまく伝えてほしい」という非核化への思いを語り、文在寅・前大統領がこうした非核化に向けた前向きな発言を聞き、金正恩氏への信頼を寄せていったとされている。

実は、金正恩氏のこうした発言は韓国に対してだけではなかった。

金正恩氏と文在寅前大統領の4月27日の初の首脳会談に先立って、アメリカのポンペオ国務長官が2018年3月末から4月初めにかけて訪朝した。この時、ポンペオ国務長官は金正恩党委員長に「非核化する意向はあるのか」と尋ねた。

これに対し、金正恩党委員長は「ご存じのように、私は父親であり、夫だ。私には子どもたちがいる。私の子どもたちが生涯、核を抱えて生きていくのを望まない」と答えたと紹介した。

このエピソードを明らかにしたのはアメリカのアンドリュー・キム前中央情報局(CIA)コリア・ミッションセンター長だ。

ポンペオ国務長官とともに訪朝し、この様子を見守っていたアンドリュー・キム・センター長は、ハノイでの首脳会談を目前にした2019年2月22日に、アメリカ・スタンフォード大学アジア太平洋研究所で講演し、金正恩党委員長のこの発言を紹介した。

金正恩党総書記を「魅力的だ」と語り、「よい交渉相手だ」と評価した。キム・センター長は「北朝鮮住民全体が核の放棄に同意していたわけではない」とし「そのようなリスクを甘受してまで、肯定的な方向に進む人と一緒に働きたい」と語った。

韓国で出版された文在寅・前大統領の外交安保を中心とした回顧録『辺境から中心へ』

金正恩党総書記は2018年春、同年6月のシンガポールでの史上初の米朝首脳会談を前に、韓国とアメリカに対して似たような言葉を発しながら、北朝鮮が非核化する意思があることをある程度、信じさせたわけだ。

アンドリュー・キム・センター長は、CIAで長年にわたり北朝鮮を担当してきたプロ中のプロだ。文在寅前大統領だけでなく、そういう人までもが金正恩党総書記の非核化への意思を信じたわけだ。

「ジュエ」が登場、「核が後の世代守る」と主張

しかしその4年半後、金正恩党総書記は2018年春の非核化への思いとは正反対の姿勢を示した。

金正恩党総書記は2022年11月18日、新型の大陸間弾道ミサイル(ICBM)「火星17」の発射実験を現地指導した。このICBMは意図的に角度を高くして飛距離を抑えるロフテッド軌道で発射され、最大高度6040.9キロまで上昇し、飛距離999.2キロ、4135秒(1時間8分55秒)飛行した。速度はマッハ22だった。

「火星17」は長さ23~24メートルにもなる世界最大規模のICBMで、韓国では「怪物ICBM」と呼ばれていた。通常角度で発射すれば飛距離は1万5000キロメートルを超えるとみられた。

金正恩党総書記はこの「怪物ICBM」を「愛するお子様や女史」とともに発射場に出向き「試射の全過程を直接指導された」のである。これが金正恩党総書記の娘「ジュエ」のデビューであった。

当時、なぜ金正恩党総書記がICBM発射に娘を同伴したのかが話題になった。これに回答したのが2日後の党機関紙『労働新聞』であった。同紙1面すべてを使い「朝鮮労働党の厳粛な宣言」と題した長文の「政論」を掲載した。この「政論」では繰り返し「子ども」が強調された。

「政論」は「火星17」の発射をわが子と共にテレビで見たという女性の、「われわれの子どもたちが永遠に戦争を知らず、晴れた青い空の下で生きるようになったのだから、どんなに感激的なことでしょうか」という発言を紹介し、発射実験成功は未来世代まで平和を守る意義がある、とした。

さらに「火星17」の発射は「愛する人民の尊厳と運命を踏みにじり、われわれの子どもたちの明るい笑顔を奪おうとする敵対勢力に対する憎悪」の発露であり「人民の限りない幸福、後代の明るい笑みのため」であったことを強調した。

つまり、北朝鮮の核・ミサイルは「後の世代を守る」ためのものであるとした。この「後の世代」の「アイコン」として「ジュエ」が登場したのであった。

4年で正反対の姿勢に

金正恩党総書記は2018年春には「後の世代まで核を持たせたくない」と言っていたが、4年後の2022年秋には「核が後の世代を守る」と180度反対になってしまった。

その原因は2019年2月のハノイでの2回目の米朝首脳会談が完全な決裂に終わったことであろう。

すべてを自分の思いのままにする唯一的領導体系という個人独裁を確立した金正恩党総書記は、ハノイの米朝首脳会談の失敗で人生最大の挫折を味わった。それは最高指導者の権威を失墜させかねないものであった。

北朝鮮は寧辺の核施設を廃棄する代わりに、2017年に決議された国連の経済制裁の解除を要求した。アメリカは大量破壊兵器の全面的な廃棄が実現すれば制裁解除ができるとリビア方式のビッグディールを要求した。

米朝双方が予備交渉を十分にせず、両権力者が自身の交渉能力を過信していた結果、会談は「ノーディール」に終わった。もし、ハノイ会談で部分的な合意でもできており、米朝交渉が続いていれば、北朝鮮の非核化への姿勢がここまで正反対にはならなかっただろう。

北朝鮮はハノイの「ノーディール」以降、外交や核政策だけでなく、経済政策でも「自力更生」を掲げ、2019年12月の党中央委第7期第5回総会で「正面突破戦」を掲げた。これ以降、北朝鮮は社会主義路線への復帰を強めていった。

北朝鮮の核・ミサイル政策について、まずは北朝鮮自身の誤りを指摘しなければならないが、国際社会もまた、なぜ北朝鮮が、とりわけ、最高指導者の金正恩党総書記が「後の世代まで核を持たせたくない」という考えから、「核が後の世代を守る」へと正反対の考えになったのかは考えてみる必要があるように思う。

金正恩党総書記のアメリカや韓国に対する非核化への発言を「北朝鮮の常套的なうそ」「非核化などする気もないのに差し出した戦術的な工作」などと批判することはたやすい。

だが、そうした発想は、北朝鮮とのいかなる合意も無意味だという結論になるしかなく、外交は意味を失う。

北朝鮮をそうした見方でだけで対応した結果が、今日の北朝鮮の核・ミサイルの全面的高度化だ。

北朝鮮の核・ミサイル開発は、過去に何度か解決の機会があった。しかし、北朝鮮も国際社会も、合意を生かし、北朝鮮の核・ミサイル開発を抑制する方向に向かわせるのではなく、合意を反故にし、北朝鮮を核・ミサイル開発の方向に向かわせてしまった。

われわれは金正恩党総書記の非核化への発言を逆手に取って、非核化の方向に一歩でも向かわせなくてはならなかった。アメリカのボルトン元大統領補佐官が主張したような、リビア方式による全面的な非核化こそが荒唐無稽なものなのだ。

やはり、息子はいなかったのか?

もう1つ関心を抱いたのは金正恩党総書記に息子がいるのかどうかという問題だ。

文在寅前大統領は「回顧録」で、金正恩党委員長(当時)が板門店会談で「娘の世代まで核を頭に乗せて生活させられない」と語ったとしている。

4月27日の板門店での首脳会談では、南北首脳は午後4時42分から同5時12分までベンチに座り、2人きりで話し込んだ。

筆者は当時、テレビで生出演していたが、このベンチ会談がいつ終わるかわからず、アナウンサーから「何を話しているのですかねえ」などと話を振られ、何と話して時間を持たせればよいのか困った記憶がある。金正恩党総書記の「娘の世代まで核を頭に乗せて生活させられない」という発言はこの時にあったのだろう。

儒教精神が強い北朝鮮で、金正恩党総書記に息子がいれば、「私には息子がいるが」とか「息子の世代まで」とか語っただろう。しかし、金正恩党総書記は「娘の世代まで核を頭に乗せて生活させられない」と語った。

これは注目すべきだ。同じ民族なのだから、文在寅前大統領が聞き間違えをしたとは思えず、「娘の世代まで」と言ったのであれば、金正恩党総書記には息子はいない可能性が高い。

当初、金正恩党総書記には息子がおり、その下に妹がおり、さらにその下に性別不明の子どもがいるとされていた。

しかし、その後、ジュエ氏の上の息子はいないという見方が強まっているが、この文在寅前大統領の「回顧録」は、この見方を裏付けるものだ。

ジュエ氏の下に子どもがいる?

一方、金正恩氏は文在寅前大統領との会談前に会ったポンペオ国務長官については「ご存じのように、私は父親であり、夫だ。私には子どもたちがいる。私の子どもたちが生涯、核を抱えて生きていくのを望まない」と語ったという。

筆者は、これを2019年2月24日付の韓国の全国紙『ハンギョレ』で知った。ワシントン発のファン・ジョンボム特派員の記事であった。

英語も韓国語も単数と複数の区別はするが、ファン記者は、アンドリュー・キム・センター長が「아이들」(子どもたち)と語ったとしている。この発言を見れば、金正恩党総書記には複数の子どもがいるとみられる。

「ジュエ」の下にさらに子どもがいる可能性が高い。文在寅前大統領への発言を信じれば、下の子も娘なのかと思える。今回の「回顧録」を見る限り、金正恩総書記に男の子がいる可能性は下がったように思える。

(平井 久志 : 共同通信客員論説委員)

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