「レコード大賞歌手」の彼女が選んだ意外なその後

新宿ゴールデン街で活動する唯一の流しが、Be-Bさん。彼女が選び取った生き方とはーー(撮影:梅谷秀司)

「一曲いかがですか?」

ギターをかついで飲み屋街をさすらい、客のリクエストに応えて歌や演奏を披露する人がいる。「流し」と呼ばれる人々だ。

全盛期だった昭和には、新宿だけで数百人の流しがいたとされるが、カラオケの普及などさまざまな要因で激減。現在はなかなか見かけない存在になっている。

そんななか、新宿ゴールデン街で活動する唯一の流しが、Be-B(ビービー)/和泉容(いずみよう)さんだ(2つの名義で活動。本記事ではBe-Bに統一)。

メジャーデビューやレコード大賞新人賞受賞など、ミュージシャンとしてそうそうたる経歴を持つBe-Bさん。なぜ流しになったのか、流しとしてどのような日々を送っているのか、取材した。

現場で歌うことが歌手にとって原点

22時過ぎ。カウンターだけの狭い飲み屋に、ボン・ジョヴィの曲が響き渡る。Be-Bさんによる引き語りだ。

力強く、静かに、激しく曲が進み、終わると拍手や歓声が巻き起こる。「ヒュー!」「めちゃくちゃ格好いい!」「次はこの曲をお願いします!」と客たちがまくしたて、Be-Bさんは笑顔で「ありがとう! ちょっと待ってね、のど乾いちゃった」と、おごられたジンのロックをぐいっと流し込む。

「じゃあ、いきますね」とギターを構え直すと、空気が一変。ライブの本番前さながらの、つかの間の静寂と緊張感を破り、再び演奏が始まった。

流しが歌う曲は、かつては演歌が主流だったが、Be-Bさんのレパートリーは海外のロックやポップスが中心。日本の歌謡曲にも対応できるが、基本的には「ハードロック流し」と名乗っている。黒で統一された衣装や力強いまなざしからも、ロックシンガーの風格が漂う。

料金は1曲1000円。平均すると週3~5日、21時から朝方まで、1日10~30軒を回って客のリクエストに応える日々だ。

(撮影:梅谷秀司)

Be-Bさんは2016年から流しを始め、コロナによるブランクを経て、2021年から本格的に活動を再開。今やすっかりゴールデン街の名物として、ベテランの酔客から、流しを初めて見る若者や外国人まで、多くの人々を楽しませている。

1日に5万円近く稼げる日もあれば、数千円のときもある。収入的には不安定だが、それでもBe-Bさんは流しの活動に誇りを持っていると話す。

「流しって、昔は蔑称で呼ばれることもあった芸人なんですが、芸能界のいしずえをつくってきた人たちでもあるんです。戦後のラジオやレコードしかない時代に、譜面を手書きして、夜どおし飲み屋やキャバレーで生演奏をして歌う。そして人気の出た歌手が芸能界を築いていったんですね。歌手にとって原点である、現場で歌うこと。それができているのは本望ですし、胸を張れます」

デビュー1年目でレコード大賞新人賞を受賞

だが現在に至るまで、Be-Bさんの音楽人生は激しい浮き沈みがあり、栄光も挫折も味わってきた。

幼少のころから歌うことが好きだったBe-Bさんは、親戚の集まりではおもちゃのマイクを持って歌を披露、小学校2年生の文集では「歌手になりたい」と書いた。中学生のころ、兄が家でよく洋楽をかけており、ハードロックに夢中になる。コピーバンドを結成し、Be-Bさんはボーカルとして、中学・高校と打ち込んだ。高校卒業後は歌手になるために上京し、さまざまな仕事をしながら音楽活動を行った。

「最初は寮のあるレストランに入社したのですが、拘束時間が長くて、これじゃ音楽活動ができないなと。1年弱で辞めて、フリーターのロック姉ちゃんになりました。カラオケスナックでバイトもしたし、当時はキャバクラに箱バン(生演奏のバンド)が入っていたので、働きながら歌ったりもしました」

1994年に転機が訪れる。バンドメンバーの後輩経由で知り合った音楽プロデューサーから声がかかり、デビューが決まったのだ。決め手はBe-Bさんの声質。歌唱力は練習でうまくなるが、声質は生まれ持ったもので変えられない。そこを評価され、「真夏の愛YAIYAI!」でデビューしたのだった。

メジャーデビューしていた頃。ファンクラブ会報に当時掲載したカット(写真:Be-Bさん提供)

念願かなったわけなのだが、事務所が売り出した方向性はアイドル系。大好きなハードロックのようにシャウトして歌うことは許されず、明るく澄んだ声でレコーディングに臨んだ。楽曲も、自身が作詞作曲したものは「こんな地味な曲は売れない」とボツにされ、ふてくされそうになる気持ちを抑えて、用意された曲を歌った。すると、セカンドシングル「憧夢〜風に向かって〜」で、第36回レコード大賞新人賞と日本ゴールドディスク大賞新人賞に輝いた。デビュー1年目にしての快挙である。

芸能人じゃなくて歌手になりたかった

人生が変わったのかと問うと、謙虚な笑みを浮かべながら「少しだけ」とBe-Bさんは頷く。

「当時、空手道場に通っていたんです。教えてくれていた内弟子の人たちは、地方から出てきた大学生ばかりで、お金がないからいつもカップラーメンを食べているわけですよ。私は印税をどう使えばいいかわからないから、みんなによくご飯をおごっていましたね。親に100万円を仕送りしてみたりもしました」

空手道場に通っていた頃(写真:Be-Bさん提供)

デビュー1年目に出したCDは、累計100万枚以上の売り上げを記録。知名度も一気に上がったが、当時の年収は1000万円以下。作詞作曲は行っていなかったため、歌手としての印税1%が入るにとどまったのだ。

さらに翌年以降、ほかのミュージシャンを打ち出す事務所の方針もあり、Be-Bさんのスケジュールには白紙が増えるように。本来やりたかったハードロックとの乖離もあって、現状に違和感を覚えるようになった。

「がむしゃらに頑張っていたけど、なんか違うなーみたいな。だって人前で歌う仕事はほとんどなくて、ラジオ番組で喋ったり、雑誌のインタビューで何回も同じこと言ったり。私は芸能人じゃなくて歌手になりたかったけど、そのときにいた環境では難しいんだって気づきました」

また、当時はCD全盛の時代。100万枚や200万枚が売れることも珍しくなかったが、Be-Bさんいわく「誰が歌っても変わらない曲」「売れそうな曲」がシステマチックに次々とリリースされていた。楽曲も歌詞もミュージシャンも、いわば使い捨て。そんな環境で活動をするうちに、ストレスで体調を壊し、事務所からの退所と活動休止を余儀なくされた。1999年のことである。

音楽から離れて平穏な暮らしを送るなか、知り合った男性と結婚。出産もして幸せに暮らしていたが、音楽をしたい気持ちが再燃し始める。夫に相談すると、「趣味だったらいいよ」と言われたが、もう一回本気で取り組みたかったBe-Bさんは譲らなかった。

2006年、音楽活動を再開した後のBe-Bさん(写真:Be-Bさん提供)

「じゃあ別れて、みたいな。それでバツイチになるわけです。親権も取られちゃって……あ、大丈夫ですよ、今となっては笑い話ですから」

横浜の飲み屋街で初めての流し

約3年間のブランクを経て、Be-Bさんが活動再開の場に選んだのは路上だった。バンドではなく弾き語りで、いわゆるストリートミュージシャンである。

事務所の後ろ盾もなく、一人で道を切り拓くしかなかったため、アマチュアがするような活動にあえて身を投じたのだった。過去の栄光をひけらかすことはせず、とにかく自分の歌を聞いてほしいという思いで、大好きなハードロックをひたすら歌い続けた。まさに初心に戻っての再出発だった。

新橋駅の駅前で弾き語りをしていると、喜んでくれる人や、多めにチップをくれる人もいた。一方で「うるせえ!」と怒鳴られたり、「ギターの弾き方がなってない」と絡まれたりもした。良い日も悪い日もあったが、本当にしたい音楽をしたいやり方で表現できることに、これまでにない楽しさを感じていた。

初めて流しをしたのは2016年。横浜の飲み屋街でバーを経営する知人に誘われたのがきっかけだった。その知人は洋楽好きで、Be-Bさんが歌うハードロックに大喜びだったが、近隣の店にも寄ってみたところ、反応はさまざまだった。

「歓迎してくれるお客さんもたくさんいたけれど、嫌な顔をする人とか、全然こっちを向いてくれない人もいました。当時は投げ銭にしていたのですが、1円も出してくれない人もいたり。すごく勉強になりましたが、やっぱりガチの流しは難しいなと思いましたね」

飲み屋のつながりで新宿ゴールデン街の店主たちを紹介され、「こっちでもぜひ」と誘われた。やってみたものの、知り合いの店以外ではなかなか要領がつかめない。流しは入った店の空気を瞬時に読み取り、客たちの懐にすっと入り込む技術や、潔く引く判断も重要になるため、歌や演奏だけできても務まらない難しさがあるのだ。結局、数カ月で休止することに。

今に感謝して、「幸せ」って言えたら勝ち

それでも音楽の練習は欠かさず、ライブバーなどで月10本前後のライブをしながら、清掃の仕事をして生計を立てる日々。実はこのころ、Be-Bさんは偶然「家、ついて行ってイイですか?」というドキュメンタリー番組に出演し、当時の暮らしについて「超幸せ」と語っている。自分の望む音楽活動を、十分に実現できていたわけではなかったが、その裏にあった思いをこう明かす。

演奏の合間に筆者と談笑するBe-Bさん(撮影:梅谷秀司)

「今が幸せじゃないと思ったら、人生ヤバいでしょ。ケンカでボロボロにやられても、『今日はこのくらいにしといてやろう』って言うみたいに、どんな状況でも今生きてること、今あるものに感謝して、『幸せ』って言えたら勝ちなんじゃないかな」

そして2022年、久しぶりに新宿ゴールデン街の馴染みの店に立ち寄ったところ、居合わせた客が「前にハードロックを歌う女性の流しがいたらしいけど、どうしているんだろう?」と口にした。「ちょっと待って、それ私のことじゃん!」と驚いたBe-Bさん。聞くと、当時のゴールデン街には流しがいなくなっていたという。

文化であり伝統であり名物でもあった存在が消え、「何とか力になりたい」と思ったBe-Bさんは、この街でもう一度流しをすることを決めたのだった。ゴールデン街は独特の雰囲気があるが、今ではすっかり馴染んでいるという。

(撮影:梅谷秀司)

「ゴールデン街のお店の多くは、お客さんに対して『気に入ったら遊びにおいで。気に入らなければ来なくていいよ』という感じなんです。だから私も流しとして、自分を必要としてくれればいつでも行くし、そうでなければ仕方ないよね、という考えになりました。この街はすごくやりやすいですね」

流しという職業への誇り

芸能界への未練はまったくない。「何で流しなんかしてるの?」「レコ大歌手なのにもったいない」と言われることもあったが、「言わせておけばいいじゃん」と笑い飛ばせるほど、流しという職業を誇りに思い、毎日を楽しんでいる。幼少期から追い続けてきたミュージシャンとしての夢は、ここにあったのだ。
 
「こんばんはー! こないだはありがとうございました!」

深夜1時。馴染みの店のドアをBe-Bさんが開ける。居合わせたのは流しを見たことがない酔客ばかりで、「すげー、本物だ!」と歓迎ムードだ。店主が「せっかくだから歌ってもらおうよ」と振ると、客たちは熱心に曲を選び始める。

「あ、ドリンクも歓迎だからね!」とBe-Bさんがいたずらっぽく言うと、「何でも飲んで!」とすかさず返答が。ジンをあおり、リクエストされた曲に合わせてギターをチューニング。小さな酒場はコンサート会場になり、にわかに熱を帯びる。通行人たちも足を止め、物珍しそうにのぞき込んでいる。

ゴールデン街の夜は長い。Be-Bさんの今宵のステージも、まだまだ始まったばかりだ。

(肥沼 和之 : フリーライター・ジャーナリスト)

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