「大学無償化」への批判が的を射ていない真実

家族の食事風景

子どもの教育費に頭を悩ませる家庭は多いものです。今こそ社会のあり方を問い直す必要があるのかもしれません(写真:ふじよ / PIXTA)
「金と運次第の自己責任社会を変えたい」。そう語るのは、財政学者の井手英策氏です。
井手氏は教育費や医療費、介護費、障害者福祉といった「ベーシックサービス」を、無料で誰もが受けられる社会の実現を提言しています。
本記事では大学教育無償化を手がかりに、誰もが安心して暮らせる社会作りについて考えます(井手氏の著書『ベーシックサービス:「貯蓄ゼロでも不安ゼロ」の社会』から一部を抜粋、再編集しました)。

なぜ大学教育がベーシックサービスなのか。

以下に僕の考えを示しますが、これは答えなのではなく、ひとつの考え方だ、ということを忘れないでください。つまり、さまざまな考え方がぶつかりあい、議論すること自体にベーシックサービスの本質がある、ということです。

社会的に必要な大学教育の無償化

大学教育の無償化に関しては、大学をタダにしても勉強する気のない子どもたちをいたずらに進学させるだけではないか、大学がタダになっても、結局、お金持ちの子どもだけがいい学校に行くのではないか、という批判が出てきそうです。

ですが、これらの批判は的を射ていません。大学に行く/行かないは、各人の選択でかまいませんが、大学教育それ自体は、万人にひらかれるべき権利です。

なぜなら、大学教育は、人間の「精神の自律」の前提をなしているからです。

私たちには投票権があります。

ですが、投票の権利を与えられても、人々は自分で考え、判断し、選択できなければなりません。それができて初めて、私たちは社会の言いなりになるのではなく、自律して生きていくことができるはずです。

家庭の所得水準が進学できる大学のレベルを決めるという批判は、以上の視点を欠いています。

大学教育にとって大事なのは、「考える」「判断する」「選択する」ための知識や専門性を提供する場であるかどうかであって、偏差値が高いかどうか、ではありません。

大学教育は、政治への参加意欲、政治や権力に対する態度に影響を与えます。

OECDのデータによると、「政治に関心があると答えた成人の割合」は、高卒以下が42%、高卒が51%、大卒が65%となっています。

また、「政府のやることに発言したいことがあると感じる成人の割合」も、高卒以下が27%、高卒が33%、大卒が46%と、高学歴化によって賛成する人の割合が増えています。

権力からの精神的自律をなしとげる、すなわち、事実を見つけだし、権力と批判的に向きあうためにも、大学教育はベーシックサービスのひとつだと考えるべきです。

大学はそれぞれの理念にしたがって、精神的な自律を可能とする教育サービスを提供せねばなりません。国であれ、政府から独立した機関であれ、その目的を達成できるよう、教育の質をコントロールすべきです。それができていない大学は設置を取り消すことだってありえるべきです。

ですから、精神的自律をたもつ、という本来の目的が達せられているのならば、そのなかの偏差値の差は、本質的な差とは言えないのです。

なぜそんなに偏差値が大事なの?

偏差値なんて大した問題じゃない──僕はそう言いきりましたが、以上の理屈はイマイチみなさんに響かない気がします。「そんなのただのキレイごとでしょ」というつぶやきが聞こえてくるようです。

じゃあ、視点を変えてみましょう。そもそも、なぜ、偏差値の高さがそこまでみなさんの関心をひくのでしょうか。答えは単純です。それは、いい大学にいき、いい会社に入らなければ、おだやかな暮らしを手に入れられないからです。

多くの子どもたちが東京を中心とした大都市に移り住む理由は、都会への憧れもあるでしょうが、偏差値の高い大学が都市に集中していることが大きいですよね。

ベーシックサービスがめざすのは、こうした社会の価値観を変えることです。

いまの日本では、世帯収入300万円で生きるのは大変です。この年収で何人かの子どもを産み、育て、大学に行かせようと考えるのは、かなりハードルが高いでしょう。

でも、大学の学費がいらなくなり、老後も病院や介護の心配がない社会になったとしたらどうでしょう。

私の収入が150万円、パートナーの収入が150万円、それだけあれば、ぜいたくはできなくても安心して生きていけます。生まれ育った故郷で生きる自由を手にできます。少子化や東京一極集中などの問題もグッとやわらぐでしょう。

入学先別の高校入学から大学卒業までにかける費用

入学先別の高校入学から大学卒業までにかける費用/子ども1人あたりの費用:年間平均額の累計(出所:日本政策金融公庫「令和3年度『教育費負担の実態調査結果』」)

みなさんは自分の子どもを大富豪にしたくて勉強をさせていますか? そうではなくて、人並みか、できればちょっといい暮らしを楽しんでほしい、そんなささやかな願いから子どもたちを受験戦争にうながしているのではありませんか?

もしそうなら、子どもたちに《生きかたの選択肢》を与えるべきです。

もちろん、偏差値の高い学校をめざし、大都会に出て、先端的な学びの機会にふれることはすばらしいことです。それを妨げる理由などどこにもありません。

ですが、精神の自律を手にするという本来の目的に立ちかえり、多くの人たちが受験に必死になるよりも、青春時代を楽しみ、地域にある大学に行き、生まれ育った街で愛する人と出会い、働き、生きていくという選択肢もあってよいのではないでしょうか。

この選択の自由のための経済的な土台こそが、ベーシックサービスなのです。

ライフセキュリティの社会へ

ベーシックサービスと品位ある最低保障を両輪とした社会を、僕は《ライフセキュリティの社会》と呼びます。

命と生活、すなわち「ふたつの生(=life)」を保障しあう社会という意味です。

ライフセキュリティの社会は、お金とは違う「豊かさ」をもたらしてくれます。

子どもは費用ではなく、慈しみの対象に変わります。

勉強ができない、たったそれだけの理由で子どもをしかりつけ、傷つける必要はなくなります。子どもも、大人も、ともに将来の不安から解きはなたれた社会なのですから。

私たちは、本当にやりたい仕事にチャレンジできるようになります。会社の求める長時間労働やサービス残業にたいして反対できるようにもなります。

仮に一時的に失業しても、転職して給与水準がさがっても、みなが安心して生きていける社会なのですから。

取り戻したい「当たり前の自由」

働く人たちが力を持てるようになれば、定時に帰り、家族とともに食事をするという当たり前の自由もまた、戻ってくるはずです。

想像してみてください。仕事を終えて、家族と買い物に出かける、いっしょに夕食を作り食べることができる、そんな普通の社会のことを。

24時間やっているお店なんていらなくなります。人間を深夜まで働かせることのない社会は、ムダな電力やプラスチックの容器を必要としない社会でもあります。

毎晩、家族と過ごし、子どもやパートナーのその日のできごとを聞き、語りあえるようになれば、週末は自分の時間を持てるようになるでしょう。

平日の穴うめのように子どもに付きあう必要はありません。地域の活動や政治的なイベント、さまざまな実践と対話の場に参加することだってできるようになるはずです。

僕は、そんなに難しいことを言っているでしょうか?

家族との食事の時間は、ローマ時代の奴隷にさえ認められた自由です。その当たり前の権利を、当たり前に受け取れる社会を作ろう、そう言いたいだけです。

みなさん、そろそろ本気で発想を変えませんか?

ずっと昔、日本人のことをあざけり、エコノミックアニマルと呼んだ人たちがいました。

こういう品性に欠ける言いかたは論外ですが、ただ、私たちほど経済に縛られて生きている社会はない、という指摘は一片の真理をふくんでいます。

「経済に依存した社会」から抜けだそう

「国際社会調査プログラム」のなかに、「医療制度・教育・治安・環境・移民問題・経済・テロ対策・貧困」について「今の日本で最も重要な問題は何だと思いますか」という質問があります。

日本では58.1%、全体のほぼ6割が「経済」と答えています。調査した34の国・地域のなかでダントツの1位です。

ベーシックサービス: 「貯蓄ゼロでも不安ゼロ」の社会 (小学館新書 470)

確かにお金があれば生きる・暮らすために必要なサービスを市場から買うことができるようになります。ですが、経済はすっかり弱ってしまい、生きること、暮らすことの不安は以前と比較にならないほど強まってしまいました。

もう、いい加減に、《経済に依存した社会》から抜けだすべきなのです。

ではそのときの対抗軸はなんでしょう。それは《共にある》という視点です。

共にある、と言われると、なんとなく人間を縛りつけるような、自分らしさを押し殺して、まわりにあわせなければいけないような印象を受けるかもしれません。

でも、そうではありません。むしろ人間の「自由の条件」を整えたいからこそ、この共にあるという言葉の意味について私たちは考えなければならないと思うのです。

(井手 英策 : 慶應義塾大学経済学部教授)

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