長篠の戦いで信長を無視「家康の奇襲」成功の裏側

設楽原の馬防柵

設楽原決戦場跡にある馬防柵(写真:マッケンゴー/PIXTA)
NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。
家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第25回は、「長篠・設楽原の戦い」での家康と武田勝頼の攻防について解説する。
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孫子の兵法「戦わずして勝つ」を武田勝頼も実践

先達はどのようにやっていたのだろうか――。時代を問わず、新しいポジションに就いたときには、前任者の仕事ぶりが1つの基準となる。これまでのやり方を踏襲する場合はもちろん、大改革を断行するときもやはり、前任者の仕事ぶりを1つの判断基準としていることには変わりない。

武田信玄亡きあと、武田家を継いだ武田勝頼もまた、そうだった。徳川家康と織田信長の連合軍を相手どった大一番を迎えるにあたって、勝頼は父の信玄がモットーとした戦のセオリーを実践しようとした。

それは「戦わずして勝つこと」である。孫子の『兵法』で理想とされている戦い方を、信玄は目指していた。巧みな外交でのらりくらりとした態度をとったり、調略によって相手方を切り崩したりするなど、いざ合戦となる前に何らかの手を打つのが常だった。

勝頼もまた父の信玄のごとく調略によって、相手を切り崩そうとした。だが、1人の男の意外な行動によって、その作戦は失敗に終わる。

男の名は、鳥居強右衛門。足軽にすぎない奥平家の家臣が、勢いに乗る勝頼の出鼻をくじくこととなった。

そもそものきっかけは、奥三河で最大の国衆となる奥平氏の裏切りを受けて、勝頼が1万5000もの大軍を率いて、奥平信昌が立て籠る長篠城を包囲したことにある。

信玄の死後、奥三河を攻略するにあたって、家康が奥平氏を取り込んだことが、勝頼を挑発するかたちとなった。家康は奥平氏を味方につけるために、娘の亀姫を奥平信昌に嫁がせて、領地の面でも好条件を示している(前回記事『長篠を死守、奥平信昌を家康がやたら厚遇した真相』参照)。

そんな家康のはからいもあってか、武田軍の猛攻を受けても、長篠城は簡単には落とされなかった。城内には500ほどの兵数しかいなかったが、多数の鉄砲が備わっていたため、奥平勢はなんとか応戦して粘りを見せた。そんなとき、攻略に焦る武田勢が捕縛したのが、奥平氏の家臣、鳥居強右衛門である。

このときに家康のもとには、織田信長から派遣された軍勢が集結しつつあった。あとは、長篠城で奥平氏がどれだけ持ちこたえられるかが勝負となる。まさにそんな戦況を伝えるべく、連絡役を買って出た鳥居強右衛門は、岡崎城から長篠城へと帰ろうとしていた。そんな矢先に武田勢に捕縛されてしまったのである。

鳥居強右衛門を利用しようとした武田勝頼

このまま鳥居強右衛門を捕らえておけば、長篠城に援軍の到着が知らされることはない。あとは援軍が来ないうちに、武田勢が総力を挙げて長篠城を一気に攻め落とそうとするかに見えた。

だが、ここで勝頼は一計を案じる。「戦わずして勝つ」がごとく、この鳥居強右衛門を利用し、勝利をより確実なものにしようと考えて、こう伝えたという(『三河物語』)。

「私の言うとおりにするなら、お前の命を助け、国へつれて行き、十分な知行地をやろう」

勝頼の作戦は、長篠城の近くに鳥居強右衛門を磔(はりつけ)にし、近くに寄って来た奥平勢に「信長は出陣していないぞ、城を渡せ!」と伝えるというもの。この言いつけを守れば、磔から解放すると、勝頼は約束している。

「あともう少しで援軍が来るはず」と信じているからこそ、奥平勢は手ごわい。その希望を打ち砕くことで、戦わずして降伏させようと勝頼は考えたのである。

勝頼の申し出は、鳥居強右衛門にとって悪い話ではない。いや、よいことしかないといってもよいだろう。鳥居強右衛門はこんなふうに答えたと『三河物語』では記載されている。

「ありがとうございます。命をお助けいただけるなら何でもいたしますが、そのうえ、知行地をくださるとのお言葉ありがたきこと、これ以上のものがありましょうか。長篠の城近くに早くはりつけにしてください」

見事に策略がはまって、勝頼もさぞ満足したに違いない。さっそく、作戦は実行に移されている。磔にされた鳥居強右衛門は、城に向かってこう呼びかけた。

「城から出てきて聞いてください。鳥居強右衛門尉はひそかに戻ろうとして捕まり、このざまだ」

ここまでは作戦どおりで、武田勢も陰で「いいぞ、いいぞ」とほくそ笑んだことだろう。だが、その後、鳥居強右衛門は大声でこう言ったという。

「徳川軍の救援は間近で、城を持ちこたえよ!」

まさかの言葉に鳥居強右衛門はすぐさま処刑されるが、この決死の行動に長篠城が奮い立ったことは言うまでもない。奥平勢は死力を持って籠城戦を継続。やがて待望の援軍が到着することとなった。

策におぼれた武田勝頼、臨機応変に対応した徳川家康

策に溺れた感のある勝頼だが、孫子の『兵法』には、こんな心得もある。

「勢とは、利に因りて権を制するなり」

勢いは、その時々の有利な状況を見抜き、臨機応変に対応すること――。その点では、家康のほうが上回ったといえそうだ。長篠城が包囲されるやいなや、信長に援軍を要請して、岐阜から引っ張り出している。

高天神城を攻められたときには、援軍が間に合わず、勝頼に負けているだけに、家康も信長も、その二の舞は避けたかったのだろう。信長は5月13日に岐阜から出馬し、18日には長篠城近くの設楽原(したらがはら)に到着した。

先に到着した家康は8000あまりの兵で弾正山に本陣を置き、あとから来た信長の本隊は、極楽寺山に陣を敷いた。そのほか、嫡男の織田信忠は天神山に、次男の織田信雄は御堂山にそれぞれ陣を敷くなどし、織田軍の総勢は実に3万人あまりに上った。

この準備がなければ、鳥居強右衛門が奔走した努力も無駄に終わったことだろう。家康らしい「不安だからこそ動く」対応が功を奏したといえそうだ。

援軍の到着までに決着をつけられなかった武田勢は、長篠城に兵を残しつつ、相手を迎え撃つべく設楽原へと進軍。徳川軍・織田軍と対峙することになる。

後世で「長篠の戦い」と伝わる合戦が繰り広げられることになったが、説明してきたように、実際に両者が激突したのは、長篠城から離れた設楽原である。「長篠・設楽原の合戦」と呼ぶのが正確だろう。

徳川家康が行った「鳶ヶ巣山砦」への奇襲

「長篠・設楽原の合戦」といえば、信長の鉄砲戦術が武田軍を追い詰めたことで知られている。

だが、それだけではない。家康の重臣である酒井忠次は、武田軍が築いた「鳶ヶ巣山砦(とびがすやまとりで)」こそ長篠城の急所だと考えて、わずかな軍を率いて奇襲攻撃を行って占拠。これによって武田軍の退路は断たれることになった。

この鳶ヶ巣山砦の占拠については、酒井忠次が軍議で発案したものの、信長に一喝されて却下されてしまう。しかし、家康が「面白い作戦だ、実行せよ」と忠次に伝えたといわれている(諸説あり。一説には、信長が却下したのは策が漏れないためで、のちに信長自身が忠次に実行を命じたという説もある)。

家臣の働きを信じることが、何よりも大切――。鳥居強右衛門の奮闘を聞き、家康はそんな思いをさらに強くして、さっそく実践したのかもしれない。信長の意向を無視して、優秀な家臣の意見をすぐさま取り入れたとすれば、家康の臨機応変な対応力は、なお評価されてしかるべきだろう。

【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉~〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
佐藤正英『甲陽軍鑑』(ちくま学芸文庫)
平山優『武田氏滅亡』(角川選書)
笹本正治『武田信玄 伝説的英雄像からの脱却』(中公新書)
太田牛一、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
黒田基樹『家康の正妻 築山殿』 (平凡社新書)

(真山 知幸 : 著述家)

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