25年で姿消した不遇の路面電車「川崎市電」の軌跡
栃木県の芳賀・宇都宮LRT(次世代型路面電車システム)が、2023年8月26日に開業することが発表された。2度の開業スケジュール延期、試運転中に発生した事故を乗り越えての開業であり、関係者は胸をなで下ろしているのではないか。
この芳賀・宇都宮LRT開業に関連して面白いデータがある。同LRTは、それまで鉄軌道事業を運営したことのない新規の事業体が運営する路面電車としては、実に79年ぶりの開業となるというのである。
では、79年前に路面電車を開業したのはどこの事業体かといえば、川崎市電を開業させた川崎市交通局であった。
開業は戦争末期の1944年
川崎市電が開業したのは、太平洋戦争末期の1944年10月。これは日本初の路面電車である京都市電(開業時は京都電気鉄道)が1895年に開業してから半世紀後のことである。神奈川県下を見渡しても、1900年開業の小田原電気鉄道(後の箱根登山鉄道小田原市内線)、1904年開業の横浜市電(開業時は横浜電気鉄道)と比べてもだいぶ遅い開業である。
横浜に次ぐ、神奈川県第2の都市である川崎の市電開業が、なぜこんなにも遅い時期になったのだろうか。実は、川崎市には海岸電気軌道(以下、海岸電軌)という路面電車が、早い時期に存在していた。
海岸電軌は京浜電鉄(現・京急電鉄)の子会社として設立され、大正末期の1925年に大師線の当時の終点である大師駅(現・川崎大師駅)を起点に、現在の産業道路の経路上を通り、横浜市鶴見区の総持寺停車場(現在の本山前桜公園敷地)までを開業させた。主な目的は臨海工業地帯の工員輸送であった。
ところが、折り悪く昭和初期の世界恐慌の影響を受けて業績は上がらず、後発の鶴見臨港鉄道(現・JR鶴見線)に買収されてしまう。しかも、鶴見臨港鉄道と海岸電軌の路線は、ほぼ並行しており、同一資本で維持する意味が希薄であるとの経営判断から、1937年、産業道路の建設を機に海岸電軌は廃止された。
その後の川崎臨海部の交通は、鶴見川崎臨港バス(現・川崎鶴見臨港バス)が担うことになる。産業道路の建設のために海岸電軌を県が接収した見返りとして、鶴見臨港鉄道に対して同区間のバス免許が与えられ、これにより規模が大きくなった同社のバス部門が独立したのが鶴見川崎臨港バスなのである。
しかし、戦時下に入るとガソリンを含む石油製品の消費が統制され、木炭バスなどの代用燃料車(代燃車)が用いられるようになった。さらに戦局が悪化すると、木炭・薪・石炭などの代用燃料さえも手に入りづらくなり、バス運行に支障をきたすようになる。
こうした状況下、大師方面の軍需工場では、「通勤する従業員が川崎駅からバスで1時間、大師線利用で大師駅から徒歩で40分を要し、生産増強に大きな支障」(『市営交通四十年のあゆみ』川崎市交通局)が生じる状況となった。このような通勤難を解決するために建設が検討されることになったのが、市電だったのである。
どんなルートを走っていた?
川崎市電は、海岸電軌の復活ということではなく、かなり異なる路線を走ることになった。産業道路上など一部で海岸電軌の経路と重なる部分はあったものの、川崎市内に路線が限定された縮小バージョンであった。川崎「市電」なのだから当然といえば当然である。
川崎市電の路線を現在の風景に照らしながらなぞってみよう。起点は国鉄(現・JR)川崎駅前にあった。起点停留所の位置は何度も変わっているが、最終的には新川通りのすぐ西側、かつての「さいか屋 川崎店」(現・「川崎ゼロゲート」)前に置かれた。
ここから西進し、現在の市電通りに入り、南東へと進む。第一京浜国道(国道15号)を渡ってしばらく進んだ先の、現在、マクドナルド川崎渡田店がある場所一帯に、市電の渡田車庫があった。開業時には川崎駅前にあった車庫を、市の区画整理事業の都合で、後にこの場所に移転したのである。
市電通りは、やがて産業道路に突き当たり、正面にはJFEスチール(当時の社名は日本鋼管)の広大な敷地が広がっている。市電はここで左折し、産業道路の進行方向右側を進んでいた。
廃線跡は、現在は緑道として整備されており、この緑道を歩いていくと、やがて市電の当初の終点であった桜本にたどり着く。付近の桜川公園には市電車両が1両(702号車)保存されている(車内は原則非公開)。
市電が開業した当時は、桜本から先へ行くには京急大師線(当時は戦時統制下で京浜電鉄を含む私鉄各社を統合した「大東急」時代のため、東急大師線)に乗り換える必要があった。大師線がこんなところまで来ていた時代があったといえば驚くかもしれないが、これには、市電計画時における次のようないきさつがある。
川崎市は、川崎駅前から臨海工業地域を経由して川崎大師駅に至る市電建設計画を立案した(当初はさらに大師線を買収し、市電のみで完全な環状線にする計画だった)が、東急も独自の大師線延伸計画を持っていたため、一部区間が競願となった。
そこで運輸通信省で審理した結果、川崎駅側から西回りで桜本までを川崎市、川崎大師駅から東回りで桜本までを東急が建設するよう調整がなされた。
その後、両社で各々工事が進められ、東急は1945年1月に桜本までの大師線延伸を完了させた。川崎市電は1944年10月の東渡田五丁目(現・川崎区鋼管通3丁目付近)までの部分開業後、川崎大空襲などによる被害の復旧に努めながら延伸工事を進め、1945年12月に桜本まで竣工させた。こうして両線は桜本で顔を合わせ、ほぼ環状線ができあがった。「ほぼ」というのは、結局、川崎駅前でも桜本でも両線のレールはつながることはなく、乗り換えが必要だったからだ。
工業地帯の貨物輸送を担った市電
こうして桜本までの計画線の全通を果たした川崎市電であったが、すでに戦後となっており、軍需工場への工員輸送という建設の主目的は失われた。
代わって担うことになったのが、臨海工業地帯の貨物輸送という使命であった。国鉄の貨物列車が浜川崎駅から連絡線(浜川崎駅構内―日本鋼管前停留所付近間 0.5km)で市電に入り、さらに桜本から大師線に乗り入れ、各工場などの専用線と接続するという輸送ルートの一端を担ったのである。その際、市電と大師線は線路幅1435mmの標準軌、国鉄線は線路幅1067mmの狭軌なので、市電と大師線の一部区間を3線軌条にして対応した。
その後、臨海工業地帯のさらなる発展にともない、港湾貨物の陸上輸送力強化の観点から、大師線の塩浜―池上新田―桜本間を川崎市が買収し、市電に組み込んだ。この時点で市電は路線長での最盛期(6.95km)を迎えた。終点の塩浜停留所は、現在の「夜光」交差点付近にあった。
だが、やがて転機が訪れる。臨海部では戦前から埋め立て・造成が開始された水江町・千鳥町に続き、昭和30年代には浮島町の埋め立て・造成が進められていたが、1961年に浮島町の造成が完了し、進出企業の操業が開始されれば、3線軌条による変則的な貨物輸送では限界を超えるのが目に見えていた。また、浜川崎駅の貨物取扱量も急増していたが、同駅は周辺を大工場に囲まれ、拡張の余地がなかった。そのため、新たな操車場の建設が急がれた。
こうした背景から、1964年3月に塩浜操駅(現・川崎貨物駅)が開業し、浜川崎駅と塩浜操駅間を結ぶ国鉄貨物支線(この線を敷くために、市電を一部単線化して用地提供した)が開業すると、池上新田付近で、当時は地上を走っていた貨物支線(現在は高架化)と市電の平面クロスの問題が発生した。
しかし、不採算の市電に新たに立体工事を行うなど投資を行う余裕はなく、路線の先端部分(池上新田―塩浜間)を廃止せざるを得なかった。同時に市電の3線軌条による貨物輸送も廃止され、以後の川崎臨海部の貨物輸送は、新たに第三セクターによって設立され、塩浜操駅と水江・千鳥・浮島の3地区を結ぶ貨物線3路線を保有・運行する神奈川臨海鉄道に委ねられた(2023年2月26日付記事「川崎・横浜の港を走る、知られざる『貨物線』の実力」)。
そして1969年3月、モータリゼーションの波に抗えず、川崎市電は全廃となった。結局、川崎市電が存続したのは、わずか25年間という短い期間であった。
不遇の路面電車に学ぶべきことは
こうして見てみると、川崎の路面電車は時代の波に翻弄され、不遇の歴史を歩んだことがわかる。最初の海岸電軌は、経済恐慌と鶴見臨港鉄道という競合鉄道線の登場により、開業からわずか12年で姿を消した。
川崎市電も、開業当時、鉄道を管轄する運輸通信大臣に就任していた東急の総帥・五島慶太の意向には抗えず、環状線の実現はおろか、大師方面への乗り入れすら果たすことができなかった。また、桜本までの路線主要部が完成したときには、すでに「軍需工場への工員輸送」という建設の主目的を失っていた。
その後も、旅客輸送面では、専用軌道化が進み、軌道線から地方鉄道線に変更(1943年)されていた大師線との直通運転の実現は難しく、乗り換えなしでの環状線の実現という夢はついに果たせなかった。また、貨物輸送面は、貧弱な軌道では大量輸送時代に適応することができなかった。
川崎市電は路線網の拡充含め、すべてが中途半端に終わってしまった感がある。しかし、公園の保存車両や「市電通り」という名に、今もなおその記憶がとどめられ、少なからぬ市民に愛され続けている。また、その歴史を見ると時代に即した公共交通の整備の難しさという観点で、学ぶべきことが多いように思われる。
(森川 天喜 : 旅行・鉄道ジャーナリスト)
06/08 04:30
東洋経済オンライン