長篠を死守、奥平信昌を家康がやたら厚遇した真相

奥平信昌が城主だった長篠城跡(写真:nanaco.com/PIXTA)
NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。
家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第24回は、家康と長篠城を守った奥平信昌の関係について解説する。
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武田信玄の死後、三河の奪還に取りかかった徳川家康

武田信玄の死後、徳川家康がまずやったことは、一度は平定したものの、信玄によってガタガタにされた三河の地を取り戻すことである。

天正元(1573)年4月に信玄が没すると、その死は隠されたが、軍の動きに不自然さがあったからだろう。5月の初めには、家康は駿河への出兵に踏み切っている。さしたる抵抗もなかったことから、家康は信玄の死を確信。7月からは、奥三河の奪還へと動く。

「信玄の死は喜ぶものではない」(『徳川実紀』)

家臣たちにそう呼びかけたのは、自分自身の興奮を抑えるためだったのかもしれない。その動きは実に素早かった。

家康が奥三河を奪還するにあたって、キーマンとなったのが、奥平定能と奥平信昌の親子である。奥平氏とは、家康が生まれた松平氏のころからの付き合いだ。両者の歴史を紐解けば、家康が奥平氏を重視した背景も見えてくるだろう。

かつて三河の山間部には、3つの拠点がもうけられていた。長篠の菅沼氏、田峰の菅沼氏、そして、作手の奥平氏である。これを「山家三方衆」(やまがさんぽうしゅう)と呼ぶ。山家三方衆のなかでも、奥平氏が最も大きな勢力を誇っていた。

家康が生まれた岡崎城は、家康の祖父にあたる松平清康が享禄3(1530)年に築いたもの。岡崎城の築城と並行して、三河一国はほぼ清康の支配下に置かれた。そのときに山間部の菅沼氏や奥平氏らも帰服している。

松平清康の亡き後、奥平氏も今川氏の影響下に

だが、家康の祖父、清康が25歳の若さで死去すると、松平氏は急速に勢いを失う。清康のあとを継いだのは嫡男の広忠で、わずか10歳だ。家康の父にあたる広忠が、今川氏の庇護に入ったことで、家康は今川氏のもとで幼少期を送ることとなった。

おのずと奥平氏も今川氏の影響下に置かれた。奥平貞勝の頃に、今川氏との関係を強化することとなる。

だが、桶狭間の戦いで今川義元が討たれて、独立した家康が三河の平定へと動くと、奥平氏の状況も変わってくる。奥平氏では、奥平貞勝が隠居して、息子の定能への代替わりが行われたのち、永禄3(1560)年ごろに今川氏から離反。奥平定能は、まだ幼い息子の信昌とともに、家康に属することになった。

家康は奥平氏を評価していたようだ。永禄7(1564)年2月27日付で、奥平定能に対して、三河各地での知行をあてがっている。時期的には、ちょうど家臣団が2分した一向一揆を乗り越えることに成功し、東三河への侵攻を再開した頃である。

その後、今川氏真が逃げ込んだ掛川城を攻める際にも、奥平氏は徳川勢として従軍。元亀元(1570)年6月の近江姉川の合戦でも、戦功を挙げた。

ところが、元亀3(1572)年に信玄が侵攻してくると、奥平氏は調略に応じて、武田側についてしまう。『三河物語』には、次のようにある。

「信玄が城をつくると、東三河の奥平道文、 菅沼伊豆守、同新三郎、この人びとは、長篠、 作手、段嶺の山家三方をもっていたが、裏切って信玄側についた」

奥三河で最大の国衆となる奥平氏は、家名存続のために、松平氏、今川氏、徳川氏、武田氏などを渡り歩いたことになる。

奥平氏をしっかりと自分のもとに引き寄せておかねばならない。信玄の死を契機に、奥三河の奪還に動いた家康は、そう考えたのだろう。

ちょうど、このとき奥平氏の当主である定能が、菅沼氏と領土問題でもめていた。それにもかかわらず、武田氏が間に入って裁定しないことに、定能は不信感を抱きつつあったようだ。

家康がこのチャンスを見逃すはずがなかった。奥平定能と息子の信昌を従属させるために、家康は自分の娘である亀姫を、奥平氏に送り込むことを決意している。

家康と奥平氏が交わした7カ条の起請文

信玄の死から数カ月が経った天正元(1573)年8月20日、家康は奥平父子との間に、7カ条の起請文を交わす。そのなかで、奥平定能の嫡男にあたる奥平信昌と亀姫を結婚させると約束した。

1カ条目では、「今度申し合せ候縁辺の儀、来たる九月中に祝言あるべく候」とし、取り決めた婚姻について9月中に婚儀を行うとし、さらにこう約束している。

「今後はその進退を決して見放さない」(御進退善悪共に見放し申すまじき事)

政略結婚とともに、奥平氏と運命共同体になることを示した家康。2カ条目では「本地。同日近、ならびに遠州知行、いずれも相違あるべからぎる事」として、本領の作手領はもちろん、 一族である日近奥平家の所領、さらに遠江での所領についても、すべて保証するとしている。

こうして従来の所領を保証しながら、3カ条目から5カ条目まででは、新たな領国と所領を与えることも提示。次の6カ条目もまた、奥平氏にとって願ってもない話だった。

「三浦跡職之義、氏真へ御断り申し届け、申し含むべき事」

家康が庇護していた今川氏真の了承を得たうえで、今川氏の筆頭家老である三浦家の名跡を与えるというのだ。結局、その後も奥平氏は「三浦氏」を名乗っていないので、実現にあたって困難が生じたのかもしれない。いずれにしても、家康が誠意を示すには十分な内容だったといえるだろう。

そして、最後の7カ条目「信長御起請文取り、これを進ずべく候。信州伊奈郡之義、信長えも申届くべき事、付、質物替の事、相心得候事。己上」も興味深い。これは、信長からも起請文を取って、必要な事項については確認することを約束している。

信長と家康の清洲同盟が、最初こそ対等なものだったが、このころには、関係性が変化していたらしい。家康が信長にお伺いを立てながら、政略を進めていたことがわかる。

「長篠の戦い」でも長篠城を任せられた奥平信昌

奥平氏を取り込んで奥三河を奪還すべく、用意周到な動きを見せた家康。その後、天正2年になると、武田勝頼の動きが活発化し、家康は武田勢と10年にわたって、抗争を繰り返すことなる(『「侮れない」家康が長篠で痛感、武田勝頼の驚く軍才」』参照)。

そのクライマックスとなる「長篠の戦い」において、長篠城を任せられたのが、家康の娘婿となった奥平信昌だった。信昌は亀姫との間に、4男1女をもうけるが、それはまだ先の話である。

【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝<1>~<5>現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』(ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
佐藤正英『甲陽軍鑑』(ちくま学芸文庫)
平山優『武田氏滅亡』(角川選書)
笹本正治『武田信玄 伝説的英雄像からの脱却』(中公新書)
太田牛一、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
黒田基樹『家康の正妻 築山殿』(平凡社)

(真山 知幸 : 著述家)

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