「武田勝頼」親を追放し子を幽閉せし信玄の後継者
信玄を憎む諏訪家に生まれた勝頼
武田家最後の当主となる武田勝頼は、そもそも当主になる予定はありませんでした。信玄には、正室とのあいだに生まれた義信という正当な嫡男がいたからです。勝頼の母は「諏訪家」の姫でした。
信玄の父・信虎の時代には武田家と同盟関係にあった諏訪家ですが、信虎が信玄に追放されてからは関係が悪化。信玄は諏訪に侵攻し、その領地を奪い取ってしまいます。諏訪家にとって信玄は憎むべき敵でした。その諏訪家の姫を、信玄は側室にしたのです。
これには家中から反対の声が上がったようですが、信玄はこれを無視。さらに諏訪家の遺児に相続を認めず廃嫡するという、なかなかにむごい仕打ちを行いました。これを当の諏訪の姫は、どう思ったことでしょうか。
そうして生まれたのが勝頼でした。
勝頼が15歳になったころ、信玄は諏訪家を継がせます。勝頼の母はすでに亡くなっていましたが、ようやく諏訪家の復興がなされることとなりました。
この時点では、信玄にとっての勝頼は「自分が征服した諏訪家を武田の血筋にして一門化する道具」に過ぎませんでした。武田家の直系の証である「信」の字を勝頼の名乗りに与えられなかったのが、その証拠です。
信玄から高遠城を与えられた勝頼は、18歳のときに初陣を果たします。この初陣で見事に功を立てました。以降、勝頼は信玄のほとんどの軍事行動に帯同し、そのたびに武功を立てます。このころには信玄に、その有能さを認められていたのでしょう。
しかし、それはあくまでも家臣としてのこと。
武田家には有能な一門が多く、信玄自身にも弟の武田信繁、信廉といった武勇に優れた一門の補佐がありました。信玄は、長男・義信の良き補佐役として勝頼を見ていたのかもしれません。ところが勝頼に大きな転機が訪れました。それは長男・義信と父・信玄の激しい抗争に始まります。
信玄をしのぐほどの武勇を誇った嫡男・義信
信玄の長男・義信は、勝頼に劣らず武勇に優れた人物でした。
母は京の名門公家である三条氏の娘であり、信玄の正室です。後見人には武田家きっての猛将・飯富虎昌がついています。17歳の初陣では城をひとつ落とし、敵兵300名を討ち取るなど抜群の武功を立てました。
また、信玄・謙信の一騎打ちがあったとされる第4次川中島の戦いでは、武田勢を蹴散らした謙信が休んでいるところを襲撃し、一時は謙信が自ら槍を振るって防戦せねばならないところまで義信が追い詰めたとされています。武勇においては父・信玄を凌ぐほどの逸材だったと言っていいでしょう。
しかし義信は、今川義元が織田信長に討たれてからの今川家との政策で激しく信玄と対立します。
このとき信玄は、今川侵攻を考えていました。
一方の義信は今川家との友好政策を唱えます。義信の妻は今川義元の娘であり、当時の武田は今川・北条との三国同盟を結んでいたからです。
信玄は今川侵攻を進めるために、尾張の織田信長と接触します。そして信長の娘を勝頼に嫁がせることを決定。このことが義信と信玄の亀裂を決定的にします。義信の後見人には飯富虎昌をはじめ有力な家臣もいたため、信玄は一計を案じました。
親を追放し子を幽閉した信玄
そもそも信玄自身、父親である信虎と激しく対立したのち追放し、家督を奪い取ったという経緯があります。信玄は先手を打って飯富虎昌を謀叛の罪で誅殺し、義信も幽閉して廃嫡を決定。そして義信は、幽閉先で謎の死を遂げることになります。
こうして嫡男・義信の後継は勝頼に決定しました。勝頼は武田家に戻されることになったのです。義信にはもうひとり弟がいたのですが、生まれつき盲目だったため候補から外されています。
信玄は念願の今川侵攻を開始し、勝頼は嫡子として父を支えることとなります。今川侵攻は成功に終わるのですが、この過程で信玄は徳川家康との関係を悪化させることに。
家康と信玄は、ともに信長と同盟していたこともあり、しばらくは緊張関係のままなにごともありませんでした。
しかし信長の勢力が大きくなるにつれ、信玄としてもこれを看過できなくなります。また、家康との関係もさらに悪化し、ついに信玄は徳川攻めを開始します。
当時の信長は、徳川と同盟を結んでいたものの四面楚歌でした。浅井・朝倉、六角氏、三好勢、石山本願寺と西に戦線が伸びきっており、家康を援護する余裕はありません。
それを見切って信玄は家康を攻めるわけですが、ここで武田家にとって最大の悲劇が起こります。
それは信玄の死です。
信玄は自分の死を3年間は秘匿し国力を固めることを遺言しましたが、三方ヶ原で家康を粉砕し圧倒的優位だった武田の撤退はあまりに不自然ゆえ、信玄の死は早い時点で織田・徳川に掴まれていたと思われます。
戦国最強を継ぐ武田勝頼の誕生
勝頼はここで正式に家督を継ぎ、姓を武田に戻して「武田勝頼」を名乗ります。信玄の死は織田・徳川の絶体絶命の危機を救いました。武田による東の圧迫を逃れた信長は、家康とともに浅井・朝倉を攻め滅ぼします。これによって西の包囲網の一角を崩すことに成功しました。
信長は次いで将軍・足利義昭を河内国に追放し、義昭の外交戦略にくさびを打ち込みます。一方の家康は武田への反攻作戦を開始。まず三河と甲斐の繋ぎ目ともいえる山間部の、奥平親子を寝返らせることに成功します。
このころには信長にも家康に対する支援体制が整っており、家康には武田に反撃しやすい条件が揃っていました。
自国の領土を家康に侵された勝頼は、信玄の遺言を無視し攻勢に出ることを決意します。というより、そうせざるを得なくなったとも言えます。信玄は他国を攻めるうえでの外交手腕に優れていましたが、勝頼は若く、そうした綿密な根回しをせずに直接的な攻撃に出てしまいました。このあたりは家康のほうが一枚上手だったようです。
その家康も、相手が信玄でなくなったことを少し甘く見ていた節があります。勝頼の実力は未知ではありましたが、山県昌景、馬場信春ら信玄側近の重臣たちは健在。軍事的な強さは信玄時代のままでした。
まず勝頼は、信長に圧をかけます。
信長の領地である東美濃に進出し、東美濃の要衝である明知城を攻め落としました。信長は明知城の救援に自らと嫡子・信忠に明智光秀を加え3万の軍勢で向かいましたが、武田勢は信長が到着する前に明知城を攻め落としました。やむなく信長は岐阜城に撤退します。
明知城の陥落は信長に大きな衝撃を与えたと思われます。これまで直接対決はなかった武田軍に領土を侵攻されたことで、その拡大を防ぐべく甲斐との国境に一定の戦力を残さねばなりません。これは中央での戦線にも影響を及ぼします。
信長は、再び徳川への援軍が出しにくい状態になりました。
勝頼はこのチャンスを逃しません。
父・信玄が果たせなかった徳川侵攻を改めて開始します。そして1574年に遠江に侵攻し、高天神城を攻めました。これは父・信玄ですら落とせなかった城でしたが、勝頼は見事に落とします。家康は織田の援軍が見込めず兵力に劣るため、出兵できないでいました。高天神城は結局、城兵の命と引き換えに開城します。
家康の評価は地に落ち勝頼の評価は爆上がり
ここで勝頼は寛大な処置をします。
城主・小笠原信興をはじめ誰一人処罰せず、武田に降伏する者は受け入れ、そうでない者はそのまま放逐しました。このため勝頼の名声はおおいに上がり、逆に救援の兵すら出さなかった家康の評価は著しく下がりました。
もともと遠江は家康の領地ではなく今川のもの。この機に家康を見かぎる者も少なくありません。ここまでは勝頼の圧倒的優位でことが進みました。勝頼は浜松城下まで攻め入るなど、家康への示威行動を起こします。
そして、このときに得た勝頼の絶対的自信が、長篠の戦いでの大きな判断ミスにつながるのです。
(眞邊 明人 : 脚本家、演出家)
05/28 13:00
東洋経済オンライン