「侮れない」家康が長篠で痛感、武田勝頼の驚く軍才

武田勝頼

山梨県甲州市にある武田勝頼像(写真:ジョー/PIXTA)
NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。
家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第23回は、武田信玄亡き後の家康と武田勝頼の戦いについて解説する。
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武田信玄にあこがれていた徳川家康

武田信玄の怒濤の侵攻によって、遠江や三河の地域の多くを失うことになった徳川家康。信玄が病死したと知って、どれだけ安堵したことだろうか。その死に際して、家康が信玄のことを振り返って、こう評したと『徳川実記』には書かれている。

「今の世で、信玄のように弓矢を取り回すものは2人といない。私も信玄のように弓矢を取りたいものだと思ってきた」

信玄への知られざるあこがれを口にして「信玄の死は喜ぶものではない」と家臣たちに呼びかけている。それを聞いた者たちは思いやりあふれた発言に感心して、身分の低い御家人たちまでもが「信玄の死は残念なことだ」と家康の口まねをしたという。

家康が信玄にこれほど追い詰められたことを思えば、みなの口まねは「本心では喜んでいるのでは?」というからかいも含まれているのではないかと邪推してしまうが、状況を考えれば、家康が信玄の死に少なからずほっとしたことは確かだろう。信玄の死をきっかけに戦国大名たちのパワーバランスが変化していく。

信玄の死によって勢いづいたのが、織田信長である。天正元(1573)年7月、信長は将軍の足利義昭を京から追放。室町幕府を事実上、滅亡させると、すぐさま朝倉・浅井攻めへと転じた。

越前へと侵攻を開始した信長軍の前に、朝倉方の諸城はあえなく陥落。朝倉義景に見切りをつけた家臣たちが敗走した。『信長公記』で朝倉方の混乱ぶりが描写されている。

「信長の予測どおり、朝倉義景の軍勢は敗走し始めていた。それを追撃して討ち取った首を、我も我もと持って来た」

朝倉義景は自刃して朝倉氏が滅亡すると、信長は同年8月に近江小谷城の浅井長政のところへと攻め込んで、やはり自刃へと追い込んでいる。朝倉・浅井を一気に滅ぼした信長。その躍動ぶりが、信玄の存在がいかに大きかったかを物語っている。

武田軍はおそるるに足らず?

家康もまた、信玄の死後に巻き返しを図っている。天正元(1573)年5月に駿府を攻撃し、さらに遠江の井伊谷へと攻め込んでいる。このときに武田勢がなすすべもなかったことから、家康は信玄の死を確認したという。7月には長篠城攻めを開始。信玄亡き武田軍のもろさが『三河物語』の記述からも伝わってくる。

「家康は浜松から岡崎へ向かう途中、長篠の城に武力偵察にやってきた。火矢を射させてみたところ、案外なことに本城、端城、蔵屋などがひとつのこらず焼けた。そのまま押しよせ攻めた」

迫りくる家康軍に勝頼は長篠城を取られまいと、山県昌景や穴山信君ら援軍を送るが、9月には落城させられている。信玄亡きあとの武田軍、おそるるに足らず――。常勝軍団が見る影もなくなり、そんなムードが漂っていたことだろう。

だが、経験の浅い者ほど、実戦のなかで急成長することがある。ここから亡き信玄のあとを継いだ勝頼が、攻勢に出始めることになる。

生まれながらの天才はいても、生まれながらにして名リーダーはいない。人々を率いて結束させるには、経験が必要となる。とりわけ手痛い失敗は名リーダーとなる必須条件といってもよいだろう。

ましてや勝頼は、とりわけ名将とされた信玄の病死によって重責を背負うことになった。迷いと葛藤、そして恐怖の連続だったに違いない。

だが、家康に長篠城を取られたことで、開き直ったようだ。天正2(1574)年の幕開けから、勝頼は積極的に打って出ることになる。正月に美濃へと侵攻すると、明智城を攻略。5月には、勝頼自身が遠江へと出馬した。狙いは高天神城である。

血気盛んな武田勝頼、高天神城を急襲

『徳川実紀』では、勝頼の好戦ぶりをこうつづっている。

「信玄の子で四郎勝頼は、血気盛んな勇者であったので、父親にも勝って万事において堂々と振舞ったが、去年長篠城を攻め取られたのに憤慨して、高天神城を急に攻撃した」

遠江支配の要となる高天神城は、もともと今川氏の支城だったが、今川義元が「桶狭間の戦い」で敗れたのを契機にして、城主の小笠原氏興は今川氏から徳川氏へと寝返っている。その後、家康によってほぼ遠江が平定されるが、家康と信玄は対立を深めていく。

元亀3(1572)年から、信玄は三河や遠江に出兵し始めた(西上作戦)。このときに、信玄は嫡男の勝頼とともに、二俣城を攻め落としている。

浜松城と高天神城を結ぶ二俣城が落とされたことで、高天神城は孤立させられてしまう。信玄亡き今、勝頼がターゲットにしたのが、このときに落とし切れなかった高天神城であった。

勝頼は天正2(1574)年5月、2万5000の兵を率いて出兵すると、高天神城を包囲。城主の小笠原氏助は、家康に援軍を頼むために、ただちに使者を送っている。だが、武田軍が2万を超えるのに対して、徳川軍はわずかに8000人である。家康は信長にさらに援軍を要請するという事態になった。

援軍が来るまで、降伏することなく抵抗した小笠原氏助だったが、勝頼は攻勢をかけながら、開城を促す交渉も行っていた。交渉役を担ったのは、信玄の治世においても、軍事と外交を担った穴山信君である。

氏助もギリギリまで粘ったものの、落城寸前になっても、援軍が得られず、開城にいたっている。

織田信長「武田勝頼は油断ならぬ敵」

『信長公記』では、戦況の報告を受けて、信長が吉田城に引き返す様子が記述されている。

「6月19日、信長父子が今切の渡しを渡ろうとしていたとき、小笠原長忠が逆心を起こし、総領の小笠原某を追放して、武田勝頼を城内に引き入れた、との報告が到着した。打つ手もなく、信長父子は途中から吉田の城へ引き返した」

家康は、浜松城にとって脅威となる場所に築かれた高天神城を奪われてしまった。信長も信玄が没した直後は「信玄の後は続くまい」と述べていたが、その評価を一転させ、上杉謙信にこう書状を送っている。

「四郎は若輩ながら信玄の掟を守り表裏を心得た油断ならぬ敵である」

武田勝頼、侮りがたし――。家康もまたそう気を引き締めたことだろう。勝頼によって高天神城が落とされた約1年後の天正3(1575)年、長篠城の周囲は勝頼軍に包囲されることとなった。

【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝<1>~<5>現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
佐藤正英『甲陽軍鑑』(ちくま学芸文庫)
平山優『武田氏滅亡』(角川選書)
笹本正治『武田信玄 伝説的英雄像からの脱却』(中公新書)
太田牛一、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)

(真山 知幸 : 著述家)

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