徳川家康「姉川の戦い」前後で見せた驚異の対応力
「姉川の戦い」直前に浜松城へ移った徳川家康
どんなときでも「慎重に動く」。それこそが、人生で最も重要なことではないだろううか。徳川家康の生涯をたどっていると、そんな思いさえ抱いてしまう。何も「行動を急ぐべきではない」と言っているわけではない。むしろ、その逆である。「慎重に考えて、いち早く動く」ことを実践し続けたのが、家康であった。
「姉川の戦い」では、姉川の北に位置する浅井・朝倉軍に対して、信長軍に加勢した家康が率いる軍は姉川の南に布陣した。川を挟んで両軍が激突すると「家康の軍は敵の陣を討ち破り、追いかけつつ、ここかしこで敵を殺す」(『三河物語』)とあるように、存在感を十分に発揮した。
なにしろ、家康は信長を相手に「一番隊でなければ、戦に協力しない」とまで啖呵を切ってしまっている。活躍しないわけにはいかなかったのだろう(『「浅井長政」攻め前日、徳川家康「信長に抗議」の内幕』参照)。
一方で、家康は引馬城を拡張する形で浜松城を築城。「姉川の戦い」へと出発する前に、岡崎城から自分の居城を移している。警戒したのは、甲斐の武田信玄だ。
なにしろ信玄は、浅井・朝倉と同盟を組んでいる。家康が織田信長にしたがって、浅井・朝倉との対立を深めれば、信玄が敵に回ることは明白だ。ならば、信玄の来襲に備えて、居城を移しておく必要があると家康は考えたようだ。
目前に迫る戦はもとより、家康の眼は遠江をめぐる情勢へと向けられていた。だが、この居城の移転は、スムーズに行われたわけではなかった。
姉川の合戦が始まったのが元亀元(1570)年6月28日。同じ元亀元年6月、戦が行われる前のタイミングで、家康は居城を浜松城へと移している。だが、その前年の秋から居城を移そうと普請、つまり建築の工事をすでに行っていた。
当初は、現在の磐田市に位置する「見付」に移ろうとしていたらしい。というのも、見付は古代から遠州地方の中心地であり、今の県庁にあたる国府が置かれていた。遠江の守護となった今川範国が、守護所を置いたのも見付である。
『三河物語』にも、「見付之国府を御住所に成され……」とあるように、家康は中心地である見付を拠点にして、遠江を支配するというビジョンを持っていたのである。
それにもかかわらず、なぜ家康は見付ではなく、浜松へと移ったのだろうか。『三河物語』の続きには、こんなふうに書かれている。
「ここはその場所ではない、と浜松に引かれて、城をつくりそこに居住なさった」
いきなり「やっぱりこの場所ではない」と言い出すとは、ずいぶんと唐突である。すでに工事も始まっており、屋敷持ちの家臣たちも移住し始めていたというのに、いったいどうしたというのか。
ここでもやはり、信長からの知られざる「むちゃぶり」があった。
信長が城の工事を中止させたワケ
『当代記』には「見付普請相止也、是信長異見給如此」とある。どうも信長の意見が違ったために、家康が着手した見付での工事は中止されることになったらしい。信長の意見とは、次のようなものであった。
「もし、信玄と敵対した場合に、お主が見付にいたら、どうなるか。天竜川が邪魔になって救援に向かうことができないではないか。もし、渡ることができたとしても、川を背にすることになってしまう。居城は浜松にしたほうがよいだろう」
信玄の来襲に備えるべし、という考えは家康も信長も同じだが、その方法論が異なったらしい。家康がそれを聞いて納得したのか、それとも逆らえなかったのかは定かではない。ただ「それなら早く言ってくれ」とは思っただろう。
家康は信長の意見に従い、見付での築城を中止。改めて浜松の地で城の普請を始めて、都市づくりを始めることとなった。
『当代記』にはバタバタする家康の様子が記載されている。城の工事を急がせながら、石垣や長屋なども作り、三河遠江の武士たちを移らせている。それでも城作りに集中できればまだましだが、信長軍をサポートするために、4月には越前に、6月下旬には近江に出征しながらの工事である。前述したように6月には家康が浜松城に入城したものの、改修工事はその後も続いた。家康が本城へと無事に移れたのは9月12日とされている。
よくもまあ「金ヶ崎の退き口」のような脱出劇と並行して、こんな築城プロジェクトをやってのけたものである。「金ヶ崎の退き口」では浅井長政の裏切りによって、朝倉と挟み撃ちされそうになった信長がいち早く退却。放置された家康は、「殿(しんがり)」を命じられた羽柴秀吉とともに、命からがら退却に成功している。
暴走する信長についていくには「慎重に考えて早めに動く」しか方法はなかったのかもしれない。岡崎城からの居城変更については、信長から思わぬ横やりがはいったものの、それでも早めに手がけていたことで、信玄の来襲前に間に合わせられたともいえるだろう。
武田信玄の宿敵「上杉謙信」と同盟を締結
早めに手を打つ家康の姿勢は、外交面でも大いに発揮されている。当初こそ信玄と手を組んで、今川義元亡きあとの今川領を切り取っていたが、信玄の行動がどうも信用できないと家康は判断。すばやく次なる行動に移っている。
家康はあろうことか信玄の宿敵、上杉輝虎(のちの上杉謙信)にアプローチを開始する。元亀元(1570)年8月には使者として、僧の叶坊(かのうぼう)光幡を派遣し、交渉の下地を整えている。その後、重臣たちのやりとりが盛んに行われた。そうした手順を踏みながら、10月には同盟の締結に成功している。
10月8日付で家康は起請文を送り、2つのことを上杉に約束した。まずは信玄との関係についてである。
「信玄と断交したことについては、熟考を重ねてのことであり、盟約にそむくことは絶対にない」(信玄手切れ、家康深く存じ詰め候間、少しも表裏打ち抜け、相違の儀ある間敷候こと)
一時をしのぐために同盟を申し出たわけでは決してない、と家康は強調している。
相手の不安を先回りして解消
さらに、信長との仲も取り持つと伝えたうえで、織田家と武田家の縁談にも触れている。当時、織田信長の長男にあたる信忠と、
「信長と謙信が入魂の仲となるように、信長に意見する。また武田家と織田家の縁談が破談になるようにそれとなく諫言する」(信長、輝虎御入魂候ように、涯分意見さるべく候。甲、尾縁談の儀も、事切れ候ように諷諫さるべく候こと)
相手が不安に思いそうなことは先回りして解消しているのが、何とも家康らしい。謙信もここまで考えてくれたならば、と家康との同盟を決意している。
つねに「慎重に考えて早めに行動する」を実践してきた家康。後世において「腹黒い」というイメージで語られがちなのは、そんな用意周到さも理由の1つではないだろうか。
【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河?松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
柴裕之『青年家康 松平元康の実像』(角川選書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
大石泰史『今川氏滅亡』(角川選書)
佐藤正英『甲陽軍鑑』(ちくま学芸文庫)
平山優『武田氏滅亡』(角川選書)
笹本正治『武田信玄?伝説的英雄像からの脱却』(中公新書)
太田牛一、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
(真山 知幸 : 著述家)
04/23 10:30
東洋経済オンライン