横浜を走る「高島線」、港の発展支えた貨物ルート

高島線のコンテナ列車

高島水際線公園付近を走るコンテナ列車。桜木町駅から根岸線を経由し、神奈川臨海鉄道本牧線の横浜本牧駅までコンテナを運ぶ(筆者撮影)

2022年は、日本の「鉄道開業150年」ということで、さまざまなキャンペーンが行われるなど大いに盛り上がった。この「鉄道開業150年」というのは、新橋―横浜(現・桜木町)間で旅客列車の運行が開始されてから150年という意味である。

では、貨物列車の始まりはいつかといえば、旅客列車よりも約1年遅れて1873年9月15日に、新橋―横浜間で運行が開始された。2023年は「貨物鉄道輸送150年」の記念すべき年なのである。

本稿では、貨物鉄道輸送が開始されて以降、国際貿易港・横浜港の発展とともに東海道線の貨物輸送量が増加していく中で重要な役割を担った「高島線」とはどのような路線なのか見ていく。

今は石油輸送がメインの路線

高島線は東海道線の貨物支線の1つで、鶴見駅を起点に東海道線(旅客線)よりも海側のルートを通り、貨物専用の東高島駅(神奈川区星野町)を経由して桜木町駅までを結んでいる。鶴見駅で東海道貨物線および武蔵野南線(鶴見―府中本町間の貨物線の通称)と、桜木町駅で根岸線と接続しており、高島線経由の貨物列車が行き来している。

現在の輸送は根岸線・根岸駅発着の石油タンク車がメインで、ほかに神奈川臨海鉄道本牧線(根岸―横浜本牧―本牧埠頭)から乗り入れ直通運転を行っているコンテナ列車が、休日を除き1日1往復している。

高島線の石油タンク列車

高島線を行く、根岸線・根岸駅発着の石油タンク列車(筆者撮影)

この高島線は、東海道線の貨物支線の中で最も古い歴史を持つ。かつては高島線から分岐して港湾エリアを走る数多くの貨物支線(通称・横浜臨港線)が存在し、埠頭や工場をつないでいた。以下、その歴史を概説する。

明治の終わり頃、貿易の伸展にともない横浜港の拡張が必要とされ、現在も赤レンガ倉庫やハンマーヘッドクレーンなどの歴史的構造物が残る新港埠頭の増設が行われた。この新港埠頭に敷設された通称・税関線が、横浜臨港線のはじまりである。税関線は現在の桜木町駅に隣接して存在した貨物専用の東横浜駅と新港埠頭内の横浜港(よこはまみなと)駅間を結んだ。

また、これとほぼ同時期に、東神奈川駅と海神奈川駅(横浜市神奈川区千若町)を結ぶ貨物線が横浜鉄道(現・JR横浜線)によって敷設された。当時の我が国の主な輸出品であった生糸を八王子方面から輸送し、さらに港まで運ぶのが目的だった。

大正に入ると、横浜駅の移転と横浜市街地の鉄道路線・駅の再編が行われた。その経緯はとても複雑なので詳細は省くが、貨物線に関して簡単に整理すると、1917年までに鶴見駅から高島駅(貨物駅)を経由し、程ヶ谷駅(現・保土ケ谷駅)までを結ぶ貨物線(高島線の主要部)が完成。これにより、鶴見―程ヶ谷間では東海道線の貨客分離が実現し、高島線は東海道線の貨物バイパス線という役割を担うことになった。

毛細血管のような支線網

しかし、昭和に入り、品川―鶴見間の品鶴貨物線(現在の西大井、武蔵小杉、新川崎を経由する横須賀線ルート)や、鶴見―程ヶ谷間に旅客線と並行して新たな貨物線が建設されると、不要となった高島―程ヶ谷間が廃止され、鶴見―高島―東横浜―横浜港間の高島線は行き止まりの貨物線になった。

横浜港地形図

1954年発行の横浜港エリア地形図。左上が高島貨物駅、右下が新港埠頭。この時期、臨港線は新港埠頭からさらに延伸され、大桟橋手前まで延びている(出典:国土地理院発行地形図)

一方で、昭和の戦前期には横浜港の埠頭整備がさらに進む中、横浜市場駅(神奈川区山内町)、新興駅(鶴見区大黒町)、表高島駅(西区高島)、瑞穂駅(神奈川区瑞穂町)への支線が相次いで建設され、そこからさらに数多くの専用線が枝分かれし、毛細血管のような貨物線網が形成された。

生麦エリア地形図

1954年発行の生麦エリアの地形図。中央上で東海道線から高島線が分岐し、中央左の入江駅で新興線が分岐。新興線からさらに多くの専用線が分岐している(出典:国土地理院発行地形図)

戦後も路線の拡張は続く。1964年に根岸線が開業すると高島駅から桜木町駅までを開業し、根岸線に接続(複線だった高島―東横浜間の上り線を廃止して単線化し、廃止したレールを利用)。根岸湾埋め立てにより造成された臨海工業地帯の貨物輸送を担うことになった。また、山下埠頭の開業後には、通称・山下臨港線(または山下埠頭線)が、横浜港駅―山下埠頭駅まで延伸された。

山下臨港線プロムナード

山下臨港線の廃線跡を活用した「山下臨港線プロムナード」。建設時、線路が山下公園内を突っ切ることに関しては、景観を損ねるとしてかなりの物議を醸したという(筆者撮影)

だが、その後のモータリゼーションの伸展などにより鉄道貨物の衰退が進むと支線は次々と廃止され、鶴見―桜木町の本線のみが残ったのである。

次は、高島線の沿線を歩きながら、かつて存在した支線群がどのようなものだったのかを見ていきたい。

高島線は鶴見駅が起点だが、東海道本線と分岐するのは京浜急行電鉄の生麦駅のやや横浜寄りなので、生麦駅から歩き始める。国道15号を横浜方面に少し歩くと、キリンビールの工場付近で、頭上を高島線の高架が、さらにその上を首都高速の高架が通過する面白い景色が見られる。高島線の高架橋の桁を支える擁壁はレンガ造りで、支柱も年季が入ったレトロ調であり、かなり古い構造物であるのは一目瞭然だ。

国道15号上を通る高島線と首都高高架

国道上を高島線と首都高速の高架が通る(筆者撮影)

その先の新子安駅付近で頭上を通過する産業道路(子安―守屋町線)を南へと歩を進め、恵比須運河に架かる恵比須橋から西に目を向けると、運河を渡る新興線(2010年に廃止)の線路が見て取れる。新興線は入江駅(廃駅・現在は京急バス新子安営業所)で高島線の本線と分岐した後、大きなU字を描きながら新興駅に至っていた。

新興線の廃線跡 恵比寿運河の橋梁

恵比須運河を渡る旧新興線の線路(筆者撮影)

現在、新興線の廃線跡の一部は緑道になっており、レール・鉄道橋など、鉄道が走っていた痕跡がわずかながら残っている場所もある。また、新興駅跡地は公園(高原基金の森)として整備されており、駅の廃止後、だいぶ時間が経っているにもかかわらず、駅跡付近の交差点名は「新興駅」、バス停名は「新興駅前」と名残をとどめている。

新興駅の名が残る交差点

交差点名は今も「新興駅」のまま、かつての名残をとどめている(筆者撮影)

下水処理施設はかつての駅跡

次の目的地は旅客列車の駅でいうと東神奈川駅(京急線は京急東神奈川駅)が最寄りだ。東神奈川までは電車で移動してもいいが、歩いてみるのも面白い。路地を行くと、家々の間から小さな運河を渡りながら走り行く高島線の列車の姿を垣間見られるなど、いかにも臨海エリアらしい景色が広がっている。

東神奈川駅前から南東に向かって延びる道路の先には、戦後、米軍の接収を受け、現在も「横浜ノース・ドック」として米軍が使用している瑞穂埠頭がある。埠頭に向かう途中、左手に神奈川水再生センターという下水処理施設があるが、ここが横浜鉄道によって建設された海神奈川支線(1959年に廃止)の終点・海神奈川駅の跡地だ。ちなみに海神奈川駅は昭和初期に場所を移転した経緯があり、神奈川水再生センターは2代目駅の跡。初代の駅は、もっと海岸側にあった。

東神奈川付近 1923年地形図

瑞穂埠頭着工(1925年)前の1923年発行の東神奈川付近の地形図には、初代「海神奈川貨物駅」の位置が海岸寄り(現在の瑞穂橋たもと付近)に描かれている。また、海神奈川支線と高島線本線が平面交差している(出典:国土地理院発行地形図)

神奈川水再生センターの先の千鳥橋踏切で現在の高島線の線路を渡ると、左後方から別の線路が迫ってくる。これがかつての瑞穂線(1958年に廃止)だ。また、正面に目を向けると、瑞穂埠頭へと続く瑞穂橋(道路橋)の大きなアーチ構造が見える。この瑞穂橋に並行して架かっている赤錆びた橋が、日本初の溶接鉄道橋として知られ、「かながわの橋100選」にも選ばれている瑞穂橋梁(鉄道橋)だ。橋を渡った先は米軍施設なので、立ち入ることができない。

瑞穂橋梁

瑞穂橋梁は貴重な鉄道遺産だ。現況、レールも残されている。埠頭側への「立入禁止」の文字が見られるので、陸側から撮影(筆者撮影)

実は、瑞穂橋梁および付近の鉄道側線敷地(瑞穂線廃線跡)は、2021年3月末をもって日本へ返還された。返還時の窓口となった防衛省南関東防衛局に問い合わせたところ、瑞穂橋梁は現在、財務省管理になっているという。また、同時に返還された鉄道側線敷地のうち陸側(約1200㎡)はJR貨物が地権者、埠頭側(約200㎡)は国有地になっている。

瑞穂橋にある「立入禁止」の表記

日本に返還された今も瑞穂橋(道路橋)に「立入禁止」の文字が見られる。奥に見えるのが瑞穂橋梁(筆者撮影)

したがって、瑞穂橋梁の橋脚は陸側は民有地(JR貨物用地)上、埠頭側は国有地上に立っていることになり、「民有地に関しては構造物を撤去し、原状復帰させるのが原則」(横浜市政策局基地対策課)であるため、今後、瑞穂橋梁は解体される可能性がある。保存には国、横浜市、JR貨物の一体協議が必要となろうが、貴重な鉄道遺産をなんとか保存できないものだろうか。

高島駅の跡地一帯は公園に

瑞穂橋梁の西側の運河を渡った先には、現在の高島線の唯一の中間駅である東高島駅があるが、貨物駅なので立ち入ることはできない。

東高島駅から南西の帷子(かたびら)川を渡った先には高島水際線公園がある。付近一帯は1995年に廃止された貨物駅・高島駅の跡地だ。公園内に設置されている高島線の線路を跨ぐ歩行者用の跨線橋は、直線区間を走る貨物列車を撮影できる撮影スポットとして知られている。橋上で後ろを振り返ると、公園の先で高島線はトンネル区間に入るため、みなとみらいのビル群の中に、貨物列車が消えゆくように見えるのが印象的だ。

トンネルに入る高島線貨物列車

高島水際線公園跨線橋上より。トンネル区間に入る貨物列車は、みなとみらいのビル群の中に消えゆくように見える(筆者撮影)

高島線の線路が再び地上に現われるのは、市営地下鉄の高島町駅付近。その先には「三菱ドック踏切」という名前の高島線専用の踏切がある。かつてこの付近に「ハマのドック」の名で親しまれた、三菱重工横浜造船所の正門があったのが名前の由来だ。この造船所跡地を中心に開発されたのが、みなとみらいなのである。

三菱ドック踏切

「三菱ドック踏切」は、今も人々の往来が盛んだ(筆者撮影)

ここから桜木町駅は目と鼻の先だ。新港埠頭へ向かう税関線(1987年に廃止)の廃線跡は、現在「汽車道」として整備されており、多くの人々が行き交っている。赤レンガパーク内には、かつて海外渡航者向けの旅客列車「ボート・トレイン」(東京駅―横浜港駅間)が発着した旧横浜港駅のプラットホームが復元・保存されており、人々の憩いの場になっている。

税関線跡の「汽車道」

税関線廃線跡を整備した「汽車道」の上空には、2021年に開業した都市型ロープウェイの「YOKOHAMA AIR CABIN」が見える(筆者撮影)

旧横浜港駅ホーム

赤レンガパークに復元・保存されている旧横浜港駅のプラットホーム(筆者撮影)

新港埠頭から山下埠頭方面へは、山下臨港線廃線跡の高架構造を生かした「山下臨港線プロムナード」が遊歩道として整備されているが、山下公園内の高架は2000年までに撤去されたため、高架は公園手前で途切れている。臨港線の痕跡がどこかに残っていないか探してみると、山下公園の東側、埠頭への入り口部分の道路を横切るように、レールがわずかに残っている。

山下埠頭入口に残る臨港線レール

山下埠頭入口の道路を横切る形で残っている山下臨港線のレール(筆者撮影)

首都圏で最後までSLが走った高島線

最後に、少し離れているが本牧市民公園へも足を運んでみる。公園の一角に蒸気機関車D51形(デゴイチ)516号車が保存されており、その説明板には「516号車は、昭和16(1941)年、当時の鉄道省大宮工場で製造され大宮機関区に配置されました。東北本線などで活躍し、その後昭和44(1969)年、新鶴見機関区に配置され、昭和45(1970)年11月28日に廃車となりました」とある。

本牧市民公園のD51 516

本牧市民公園に保存されているD51形516号車(筆者撮影)

この説明文だけだとわからないが、この516号車も高島線と関係がある。横浜の鉄道・市電研究で知られる故・長谷川弘和氏のレポート(「横浜港の貨物線ものがたり」『鉄道ピクトリアル』1997年3月掲載)によれば、516号車は「臨港貨物線で活躍していた」という。おそらく、新鶴見機関区配置後、1970年10月に高島線が電化され、蒸気機関車の運用が廃止されるまで貨物列車を引いていたのであろう。

高島線は首都圏で最後まで蒸気機関車が運転されていた路線だが、その電化により活躍の場を失い、11月に廃車になったものと推測される。なお、516号車の脇には、横浜機関区で実際に使われていた転車台(ターンテーブル)も保存されている。

さて、今回は高島線を中心に横浜の貨物線について見てきた。鉄道による貨物輸送は1970年頃をピークに、その後は斜陽化した。しかし、近年CO2排出量削減に向けた動きや、トラックドライバーの担い手不足、またトラックドライバーの時間外労働の上限時間が設けられる「2024年問題」などの観点から、モーダルシフトの機運が高まっている。その意味においても、今年は大きな貨物鉄道輸送150年の節目になりそうだ。

(森川 天喜 : ジャーナリスト)

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