地味だが便利な「横浜市民の足」根岸線の7つの謎
2023年4月9日、JR根岸線が全線開通から50年を迎えた。根岸線は沿線に桜木町、関内などの繁華街や根岸湾沿いの工業地帯、洋光台・港南台などの広大なベッドタウンを持つ、横浜市南部の主要交通機関である。しかし、ほとんどすべての列車が京浜東北線、横浜線との直通運転を行っているため独立した路線としての存在感が薄く、神奈川県民以外には馴染みのない路線かもしれない。
今回は根岸線にまつわる“7つの謎解き”をしながら、どのような路線なのか見ていくことにしよう。
根岸線は「どこからどこまで」か
■Q1:根岸線の起点はどの駅?
日本で最初に鉄道が走ったのは1872年10月、新橋―桜木町間においてである。それから150年目の昨年は、「日本の鉄道150年」ということで大いに盛り上がった。
桜木町以遠の現在の根岸線区間の延伸について、正式に鉄道会議(鉄道省)の議題に上ったのは意外に早く、戦前の1936年12月のことだった。第1期線として、桜木町―磯子間約6kmの建設が計画され、当時の横浜貿易新報(神奈川新聞の前身)によれば、吉田橋、吉浜橋、元町、柏葉、競馬場前、磯子区浜の6駅の設置が予定されたという。競馬場というのは、日本初の洋式競馬場だった根岸の横浜競馬場のことである。
ところが、1937年7月に日中戦争が勃発すると鉄の統制が行われ、高架構造が多く、鉄材を大量に必要とした根岸線の建設計画は見通しが厳しくなる。「密接に軍事に関係のない鉄道の建設の如きは暫く差控えるがいい」という当時の大蔵省の意向もあり、建設計画は中断(実質中止)を余儀なくされた。
根岸線の建設が再び俎上に上がったのは、戦後の1952年のことだった。横浜市は、戦災復興から発展への活路の1つとして根岸湾の埋め立てによる臨海工業地帯の造成を計画し、その輸送動脈としての根岸線誘致を運輸省(当時)や国鉄に強く働きかけたのである。
だが、この根岸湾埋め立て計画に対しては、地元の漁業者による大規模な反対運動が起きた。埋め立て事業が実現しなければ貨物輸送が生じないことから根岸線建設も危ぶまれたが、市側の粘り強い姿勢と、漁業者側が「大局的判断を下す」(根岸駅前に建立された根岸湾埋立記念碑)ことによって、埋め立てに関する交渉は妥結した。
そして、1957年4月の第20回鉄道建設審議会にて、根岸線は即時着工線として決定。当時は桜木町―大船間を結ぶ路線ということで、「桜大(おうだい)線」という仮称が用いられた。桜大線ならば、起点は桜木町駅のはずだが、1964年5月に桜木町―磯子間の第1期線が開業した際に、横浜―桜木町間が根岸線に組み込まれたため、横浜駅が起点となった。
戦前は有力だった「横須賀線接続」案
■Q2:終点は大船ではなく北鎌倉の予定だった?
第1期線に続き、1970年3月には第2期線の磯子―洋光台間が延伸開業した。洋光台という、やや中途半端に思われる場所までの開業が急がれたのは、当時、日本住宅公団が200万㎡にもおよぶ住宅地造成事業(横浜国際港都洋光台土地区画整理事業)を施工中で、その完成が1969年度に予定されており、早期延伸が強く要望されたためだ。その後1973年4月、洋光台―大船間の第3期線が開通し、根岸線は全通した。
他路線との接続などを考えれば、終点が大船というのは今では当然のことと思われる。しかし、戦前の計画では、終点を北鎌倉として横須賀線に接続し、横須賀方面へ直通させる案が有力だった。
当時、根岸線は沿線で開発が構想されていた根岸・磯子の郊外住宅地への交通手段としての役割とともに、「需要の急増する横須賀線のバイパス路線としても期待」(『市史研究よこはま』)されていた。軍港・横須賀への接続が、経済的・軍事的観点から重要視されていたのである。
横須賀方面への接続を主眼とするならば、途中に山があるため工事が困難で、予算も余計にかかる大船への接続は必須ではないと鉄道省は考えていたようだ。だが、これに対しては当然、平塚・茅ヶ崎方面からの旅客が大船で新線に乗り換えられるほうが便利という意見が出された。
終点を北鎌倉にするか大船にするかの問題は最後まで紛糾したようだが、1937年4月に改正された鉄道敷設法の別表には、今後、敷設すべき予定鉄道路線として「桜木町より北鎌倉に至る鉄道」と掲げられた。
なお、根岸線を横須賀線のバイパス路線として機能させ、横須賀線の混雑緩和を図るという考え方は、戦後の根岸線建設に向けた議論の中でも用いられた。しかし、最終的に横須賀線の混雑緩和に関しては、元は貨物専用だった品鶴線(西大井、武蔵小杉、新川崎を経由する現在の横須賀線ルート)の旅客転用や、横浜羽沢駅経由の貨物新線の建設など、線増による東海道線と横須賀線の分離という対策がとられたのは、周知のとおりである。
開業で激変した横浜市南部の交通
■Q3:根岸線の開業で横浜市電が廃止になった?
根岸線開通以前、現在の根岸線沿線エリアの交通手段は、杉田を通る京急線を除けば横浜市電とバスだけだった。
このエリアの市電路線の形成過程を見ると、横浜市電の前身・横浜電気鉄道は明治末期から大正初期にかけて郊外へと路線を延ばし、1911年12月に本牧、1912年4月に八幡橋(現・磯子区中浜町)への路線を開通させている。関東大震災後には本牧―間門(まかど)間および、八幡橋から磯子経由で杉田までが開業している。
さらに戦後、朝鮮戦争特需で景気が上向くと、各方面への路線延長が行われる中、1955年4月、間門―八幡橋間が開通した。これによって、本牧経由でやや大回りではあるものの、桜木町駅前から杉田までの、今日の根岸線の東半分とオーバーラップする市電の路線が完成した。この頃に市電は路線長での最盛期を迎えた。
しかし、そのわずか9年後に根岸線の桜木町―磯子間が開業すると、市電は大打撃を受けることになる。従来、磯子地区から桜木町まで市電・バスを利用した場合の所要時間は約50分を要した。それが根岸線の開通で13分に短縮され、しかも東京方面へ乗り換えなしで行けるようになり、多くの利用者が根岸線に流れた。
こうして、1950年頃から1963年まで約30万人/日で横ばいが続いていた市電利用者数は、根岸線開業翌年の1965年には25万人/日へと大きく落ち込み、以降は減少の一途をたどった。モータリゼーションが進展し、市営地下鉄建設の検討も始まるなど、いずれにしても市電は消えゆく運命にあったのだが、根岸線の開業は市電廃止への決定的な一撃となったのである。
■Q4:東海道新幹線の建設が根岸線工事に影響した?
根岸線建設工事は、神奈川県下における設計協議、用地交渉等が新幹線の建設工事と関連があったため、新幹線建設工事を担当した国鉄の東京幹線工事局が担当。1964年3月に日本鉄道建設公団(現在の鉄道建設・運輸施設整備支援機構)が設立されると、以後の工事は同公団に引き継がれ、桜木町―磯子間の第1期線が1964年5月に開業した。
同年10月に東京―新大阪間が開業した東海道新幹線と工事施行期間が重なったため、根岸線の建設工事は、「労力調達の面でも、東海道新幹線の工事施行と並行し、必要人員の確保に困難が多かった」(『根岸線工事記録』日本鉄道建設公団)という。
ほかに、他路線の工事が根岸線の建設工事に影響を与えたものとして、東海道線の線増工事があった。東海道線の線増にともなう大船駅の改造工事との関連設計(根岸線の大船駅乗り入れ形態などの検討)が必要になったため、洋光台―大船間の第3期線のうち、本郷台―大船間の工事を先行させなければならなかった。
用地確保の難しさが生んだ「水上駅」
■Q5:関内駅は運河の上に建てられている?
根岸線誘致は横浜市にとって悲願であり、用地買収が困難な桜木町―関内―石川町間の市街地においては、大岡川系統の運河(派大岡川)を高架橋建設のため鉄道用地として提供するなど、市は全面的な協力を行った。
これにより用地確保がスムーズに進んだ反面、この運河地帯は江戸時代に埋め立てられる以前は東京湾の入江だったため、基礎地盤の上に砂礫層が1~7m、さらにその上に粘土質シルトが堆積し、基礎地盤に達するまで50mもあるような場所が存在する軟弱地帯であり、杭打ち等の高架橋の基礎工事は大変な作業だったという。
こうした背景から、開業当時、市街地区間の根岸線は運河上を走り、関内駅は運河上に位置する「水上駅」だった。後に首都高建設にともない運河は埋められ、「水上駅」の面影はなくなったが、駅付近にある横浜市役所旧庁舎(今後、ホテルとしての保存・活用が計画されている)などが、当時の記憶を今につないでいる。
■Q6:桜木町駅の先で貨物列車はどこに消える?
根岸線は、根岸湾埋め立てにより造成された臨海工業地帯の貨物輸送を主な目的として建設されたが、沿線開発が進んだ結果、通勤・通学路線としての色合いが濃くなった。
現在、貨物輸送は桜木町―根岸間で定期列車が設定されており、根岸駅発着の石油タンク列車が、竜王、八王子、坂城、倉賀野、宇都宮などに向けて、平日を中心に運行されている。また、神奈川臨海鉄道本牧線(根岸―横浜本牧―本牧埠頭間)の横浜本牧駅発着のコンテナ列車が根岸駅から乗り入れて直通運転を行っており、休日を除いて1日1往復運行されている。
神奈川臨海鉄道は、川崎地区に浮島線・千鳥線の2路線、横浜地区に本牧線の計3路線の貨物線を保有・運行するJR貨物グループの企業である(2023年2月26日付記事「川崎・横浜の港を走る、知られざる『貨物線』の実力」)。関内駅や桜木町駅ホームで電車を待っていると、こうした貨物列車が通過するのを見かけるが、桜木町駅の先でどこかへ消えていき、横浜駅にはやってこない。どこへ向かっているのだろうか。
実は、桜木町駅の先で旅客線と分かれ、東海道線の貨物支線の1つである高島線(鶴見―東高島―桜木町)に入っていくのである。しかも、市営地下鉄の高島町駅付近からはトンネル区間に入るため、あたかも線路が”消える”ように見えるのだ。
高島線が再び地上に顔を出すのは、横浜アンパンマンこどもミュージアムなどの裏手、帷子(かたびら)川沿いにおいてである。この付近一帯は、1995年に廃止された貨物駅・高島駅の跡地であり、その一画にある高島水際線公園内の跨線橋上は、貨物列車の絶好の撮影ポイントとして知られている。
首都圏のSL最末期に開業
■Q7:根岸線を蒸気機関車が走ったことがある?
根岸線は、当初から「電化」を前提に建設が進められたが、蒸気機関車が運転されたことがある。磯子―洋光台間の開業を控えた1970年2月12日と13日の2日間、「D51」形2両が、開業前の「地固め」のために運転された。
そのわずか8カ月後、首都圏の国鉄ダイヤから蒸気機関車が消えることになる。首都圏で最後まで蒸気機関車が生き残ったのは前述の高島線だったが、1970年10月、電化により蒸気機関車の運用が廃止された。その際には3日間にわたり「さよなら蒸気機関車号」が、東京駅と新港埠頭にあった横浜港(よこはまみなと)駅間で運転された。根岸線工事が行われたのは、まさに、首都圏における蒸気機関車最後の時代だったのだ。
さて、根岸線は路線距離約22km、所要時間約30分という短い路線だが、車窓風景が刻々と変わっていく楽しさがある。また沿線には横浜中華街や三渓園などの観光名所があり、新杉田駅で横浜シーサイドラインに乗り換えれば八景島にも行くことができる。これからの行楽シーズンにぜひ利用してほしい路線だ。
(森川 天喜 : ジャーナリスト)
04/09 04:30
東洋経済オンライン