武田信玄が「信長包囲網」に賛同した説の真偽
今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。その家康を苦しめ続けるのが、阿部寛さん演じる武田信玄だ。
三方ヶ原の戦いで家康に大勝した信玄。その後信玄は、将軍・足利義昭が盟主となる「信長包囲網」に加わるために、西を目指した「上洛戦説」が従来唱えられてきた。だが、近年はそれを否定する説もある。上洛戦説は本当なのか、分析する。
三方ヶ原の戦い(1572年12月)で、徳川家康を敗った武田信玄。信玄は遠江や三河国の一部の豪族を服属させた。また家康も撃破したことで、家康から背後を突かれる心配もなく、西進できる体制になった。
信玄は病に苦しむ
ところが、信玄を病が襲う。三方ヶ原で家康を敗った後に、軍勢を急がせることなく、刑部(浜松市北区)で年を越しているのも、信玄の体調が思わしくないことが原因であろう。
それでも信玄は軍を三河に進めて、野田城(愛知県新城市)を攻め、元亀4年(1573年)2月中旬、これを落とす。しかし、信玄はそれ以上の行軍に耐えられない体調になっていたようで、武田軍は長篠城(愛知県新城市)まで退く。
しばらくして、甲府方面へ戻ろうとしたが、その途上、4月に信州の駒場(長野県阿智村)で、信玄は病死する。53歳であった。
『三河物語』は信玄の死を「信玄は野田の城を攻めているあいだに病気となる。野田落城後、攻めのぼることもできず、本国へ引きあげる途中、病が重くなり、信州の伊那谷で没した」と記している。
信玄の西進は、自身の死により叶うことはなかった。この西進の狙いには、さまざまな説がある。従来有力とされていたのが、冒頭の「上洛戦説」だ。
ところが近年、足利義昭の信長包囲網に呼応する形で、信玄は上洛しようとしていたのではない、とする説が浸透している。「上洛戦説は、もはや成り立たなくなった」とまで言われているのだ。
足利義昭のもとでの信長包囲網の形成と、信玄がそれに賛同し上洛の意志を示していたということは、根拠となっていた文書が信玄死後のものであるとされ、根拠としては乏しいためだ。
信玄の最終目標は「信長滅亡」
ただ、信玄の最終目標が「信長滅亡」であったことは否定できないだろう。
信玄は三方ヶ原で家康を敗った数日後(12月28日)に、手を組んでいた越前の朝倉義景に対し、書状を書いていた。
書状には、三方ヶ原において合戦して、三河・遠江国の「凶徒」と岐阜の「加勢衆」(つまり、徳川・織田連合軍)1000人余りを討ち捕らえたので安心してほしいことや、噂で越前の軍勢の過半が国に引き揚げたと聞き、信長を滅ぼすときが到来したというのにそれはありえないということが記されている。信玄は信長を滅ぼすことを念頭においていたのだ。
信玄が岐阜を攻めた場合、信長は籠城するとも考えられるが、状況が危うくなれば、京都方面に逃れることも十分ありえる。となれば、信長を追って武田軍が京に迫ることもあるはずだ。
「信長滅亡」を主眼とするからには、信長軍の動きによっては、京都に向かうことも信玄の眼中にあったのではないか。
よって筆者は「上洛戦説は、もはや成り立たなくなった」とは言い切れないと考える(もちろん、家康への憤りを晴らすことや、織田との領土問題を解決させることなど、さまざまな要因も重なったためであろう)。
信玄の西進と三方ヶ原での大勝は、中央の政治情勢にも大きな影響を与えた。
将軍・足利義昭は、信長と手を切り、浅井・朝倉に信長打倒を命じるまでになる(元亀4年【1573年】年2月13日)。
その前年の末、義昭は信長から「十七条におよぶ意見書」を突きつけられていた。それは、義昭の怠慢や独断を責め「上様(義昭)を悪御所と庶民が呼んでいる」という厳しい内容であった。義昭の不満はかなり溜まっていたに違いない。
義昭の叛逆に対し、信長は低姿勢で臨んだ。「将軍が望まれる通りの人質と誓紙を差し出し、今後とも疎略には扱わない」(『信長公記』)と言い、将軍と和議を結ぼうとしたのだ。
ところが、義昭のほうが強気で、和議は成立しなかった。信長は元亀4年3月下旬に上洛し、義昭との和平を目指したが、義昭側は受け入れない。そこで、ついに信長は、4月に入り、洛外に放火し、上京を焼き払ったのである。
放火により、義昭は和議にいったんは応じた。だが、同年の7月には再び、信長に叛き、二条城を出て、槇島城(宇治市)で挙兵。織田軍がこれを攻めると、あっけなく降伏した。以後、義昭は京都で権力を確立すること叶わず、都から幕府は消え去った。
どんどん信長に優位な状況に
信玄の脅威、将軍・義昭の策動が消えると、信長に優位な状況が形成される。
天正元年(1573年)8月下旬には、織田軍は、越前の一乗谷にまで攻め込み、朝倉義景を自刃に追い込んでいる。
間髪入れず、信長は近江の小谷城(城主・浅井長政)も攻め、9月1日、長政は自刃する。信長を苦しめてきた浅井・朝倉は滅亡した。
ドラマにも何度も描かれてきた有名な話だが、翌年(1574年)正月、彼らの首は、岐阜における酒宴で見せ物にされた。信長は敵将の首を「箔濃(漆で固め彩色)し、折敷(お盆)の上に置き、酒のさかなとして、出された」(『信長公記』)のである。
首を箔濃にした件については、敵将への恨みの想いではなく、敬意や弔いの気持ちだったとの説もあるが、『信長公記』や信長書状を読むと、敬意などなかったと考えざるをえない。
『信長公記』には、彼らの首を「酒のさかな」だったと記しているのである。首の前で、謡などして遊び、信長はたいそう喜んでいたのだ。しかも、信長は諸将が年始の挨拶に参上し退出後、直属の馬廻衆(大将の馬の廻りに付き添い護衛や伝令などを行う)だけになったところで敵将の首を披露している。弔いや敬意の気持ちがあるならば、最初から出しているだろう。
信長は浅井久政・長政親子に対して、「一方ならざる遺恨深重」「悉くもって討ち果たすの条、大慶」(毛利輝元宛の信長書状)と書状に記すように、深い恨みを抱いていた。
浅井長政の10歳になる嫡男を捜索して、関ヶ原で磔(はりつけ)にしたこと、朝倉義景の母や嫡男を殺害させたことも、信長の恨みとそれを晴らしたいという、情念が渦巻いていたからこそだろう。
長政の嫡男を処刑したことを『信長公記』も、「長年のご無念を晴らされた」と記している。
敬意ではなく、日頃の恨みを晴らす行為
また、かつて信長を鉄砲で狙撃して、逃走していた杉谷善住坊(生年不詳〜1573)も、近江国で捕縛された結果、体を土中に埋められ、首だけ出されて、その首を人に鋸(のこぎり)でひかせるという方法で処刑される。そのときも「日頃のお怒りを晴らされた」(同書)とある。
そうしたことを考えると、信長による敵将の首の箔濃は、敬意ではなく、首を見せ物にし、日頃の恨みを晴らす行為だったと捉えることができよう。
(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)
04/08 12:00
東洋経済オンライン