徳川家康、武田信玄が名将に育った幼少の過酷体験

武田信玄と徳川家康

戦国時代に激突した武田信玄(左)と徳川家康(左写真:takashi/PIXTA、右画像:freehand/PIXTA)
NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。
家康を取り巻く重要人物たちとの関係性を紐解きながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第13回は、徳川家康とライバル・武田信玄の共通点について解説する。
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「自分の父を追放する」経験をした武田信玄

幼少期や青年期をどんなふうに過ごしたのか。わが身を振り返っても、そのころの体験がのちの人生に与える影響は大きい。組織を束ねるリーダーの場合は、その影響が下で働く者たちにまで及んでいくことになる。

徳川家康はわずか6歳で親元を離れて、人質として今川氏や織田氏の間をたらい回しにされている。結果的には、今川氏を見切って織田氏につくことになるが、きっかけは織田信長が「桶狭間の戦い」で今川義元を討ったからであり、自ら動いたわけではなかった。

今川氏から離れた家康は、信長に絶対服従を貫いた。その信長の死後は、豊臣秀吉のもとで勢力を延ばして、秀吉の死後に天下取りへと動き出す。明日をも知れぬ幼少期の体験から「大きな傘の下で自分はどのように振る舞うべきか」を、家康はつねに考えてきたといってよいだろう(『今川を裏切る徳川家康、織田信長には従い続けた訳』参照)。

では、そんな家康に立ちはだかった甲斐の武田信玄は、どんな幼少期を過ごし、その体験から何を学んだのだろうか。早々に親元を離れた家康とは対照的に、信玄は父である武田信虎の背中をみて育った。

そして、信玄は「自分の父を追放する」という、家康とはまったく異なるタイプの壮絶な体験をしている。信虎の半生を振り返りながら、信玄の幼少期も探ってみよう。

武田家のルーツをさかのぼると、源頼義にたどり着く。その一族からは、源頼朝や足利尊氏が輩出されている。名家中の名家である。源頼義の子孫の1人、武田信義が初代の甲斐武田氏となり、その子孫が武田家として甲斐の地に根づく。

武田信義から18代目にあたるのが、信玄の父、武田信虎である。この信虎がとにかく暴君で、暴虐の限りを尽くしたらしい。日蓮宗の僧侶が記録した『勝山記』は、山梨県の中世を研究するうえで一級の史料とされている。『勝山記』では、信虎についてこう書かれている。

「余りに悪行を成され候」

悪行とは穏やかではない。『塩山向嶽禅菴小年代記』ではより手厳しい。同書は、向嶽寺の歴代住職によって書き継がれた甲斐国の年代記で、こんな描写がなされている。

「平生悪逆非道也、国中人民・牛馬・畜類共に愁悩す」

普段から非道なことばかり行って、民衆はもちろんのことだが、牛や馬までが信虎の悪政に思い悩んでいたという。

人民だけではなく動物まで悩ませる暴君は、古今東西を通じてみてもなかなかいない。やや表現がオーバーな気もするが、評判が悪かったのは確からしい。だが、信虎には信虎の言い分もあったことだろう。

内紛の真っただ中で育った信虎

信虎は明応3(1494)年の正月に信縄の長男として生まれたが、武田家は内紛の真っただ中。信縄と、信縄の弟の油川信恵の間で、争いが繰り広げられていた。信虎にとっては、父と叔父が対立するなかで、幼少期を過ごしたことになる。

権力を手にした父の信縄が亡くなると、信虎は13歳で家督を継ぐ。すると、幼い信虎に容赦なく、信恵らが襲いかかってきた。甲府盆地を中心に繰り広げられる骨肉の争い。当主が幼いからといって遠慮はない。むしろ、幼い相手だからこそ、鋭い牙を向ける時代である。

それでも信虎は若輩ながら、信恵らに見事な勝利を収めて、その後も国人の領主たちを押さえていく。甲斐を支配するなかで、信虎はとりわけ有力な敵対者だった大井信達の娘と結婚する。政略結婚だ。そうでもしなければ、国内をまとめるのは難しかったのだ。

なにしろ、独立性の高い国人たちは、いつでも武田家に反乱する可能性を持っていた。一方で、信虎の国人たちへの支配力は弱く、国人たちの所領の中にはほとんど立ち入ることができなかったという。そんなバラバラだった国内状況を踏まえれば、信虎が強引に統率した事情も理解できなくはない。

そんななか、信虎と大井信達の娘の間に生まれたのが、のちに信玄となる晴信である。荒れた政情のなかで生まれた信玄は「戦の申し子」とも呼ばれていた。

信虎は、なんとか国内をまとめようと、「棟別銭」という家ごとを対象にした課税を負わせた。これも家臣たちからすれば当然、評判が悪い。しかし、甲斐国の財政を思えば必要なもので、信虎が甲斐国の統一をほぼ果たしたからこそできた経済政策だった。

そうして、強引に財政基盤を固めると、信虎はいよいよ外へと打って出ることになる。小領主が抗争を続けていた信濃に標的を定めると、諏訪氏と同盟を締結。信濃への侵略を開始した。そして、1日で36もの城を落としたともいうから、すさまじい。

だが、大きなビジョンを持ちえない、家臣たちからすればどうだろうか。税金は重くなり、戦は増えた。戦のたびに、大きな負担がのしかかって来る。とんでもない暴君だと恨まれてもおかしくはない。

そんな国内の不満が高まって、信虎は駿河に追放されてしまう。それも、実の息子である晴信、つまり信玄の手によって追い出されることになる。信虎はその後、二度と甲斐へと戻ることはなかった。

国家の財を散財して、私利私欲を満たす古今東西の暴君たちに比べると、信虎は「暴君」とは言いがたい。ただ、民衆の気持ちを汲み取ることができなかったために、反感を買ってしまったのである。

クーデターに担ぎあげられた信玄

信虎を追放すると、ようやく厄介者がいなくなったと、民衆は沸きに沸いたようだ。文献からも歓喜する様子が伝わってくる。

「地家・侍・出家・男女共に喜び満足致し候こと限りなし」(『勝山記』)

「一国平均安全になる」(『王代記』)

「国の人民ことごとく快楽の笑いを含む」(『塩山向嶽禅菴小年代記』)

だが、ここまで極端な記述が目立つと「どうしても主君を追い出したことを正当化しなければ」という思惑も透けて見える。というのも、若き信玄がいくら立ち上がろうと考えたとて、支持者がいなければ、クーデターなど成立しない。反信虎派の家臣たちが、シンボル的に信玄を後継者に祭り上げたからこそ、信虎をことさら暴君にしなければ、つじつまが合わなくなってしまう。

もちろん、信玄自身もそのことはよくわかっていたに違いない。自分に力があって、勝ち取った地位ではない。周囲に盛り立てられて座った当主の座である。もし、自分もまた父と同じように、下で働く人間にそっぽを向かれたらどうなるか。想像をするなというほうが難しいだろう。

信玄は人材を大切にして、うまく活用したことで知られる。それは信虎を反面教師にせざるをえなかったからではないだろうか。天文16(1547)年、信玄は分国法「甲州法度之次第」(信玄法度)を定めると、こんな条項まで記している。

「自分がもしこの法に反したときは、身分の高い低いは問わず、目安箱に自分を訴えてよろしい」

当主が自身を縛るような条項を加えているのは珍しい。立派な心掛けだが、家臣から反発されないよう、誰からみても清廉潔白であろうとした信玄の気苦労を感じる。

家臣を恐れたから大切にした

家康もまた信玄と同様に、人材を大切にしたことが、さまざまな逸話から伝わってくる。そして父が家臣の裏切りにあっている点でも同じだ。家康にいたっては、父の松平広忠は追放どころか家臣の裏切りによって殺されてしまい、さらにさかのぼれば、祖父の松平清康も家臣に命を奪われている。

家康と信玄がともに人材の使いどころに長けていたのは、2人が初めからリーダーとしての資質に優れていたからではなく「家臣は自分の足元をすくう存在である」ということをごく身近な父親を通して、痛感していたからではないだろうか。

家康と信玄――。過酷な幼少期を乗り越えた2人が好敵手となるのは、いわば必然。一向一揆を抑えて三河の地を平定した家康は、ついに信玄と対峙することになるのだった。

【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』 (吉川弘文館)
柴裕之『青年家康 松平元康の実像』(角川選書)
二木謙一『徳川家康』 (ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』 (歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
大石泰史『今川氏滅亡』 (角川選書)
佐藤正英『甲陽軍鑑』 (ちくま学芸文庫)
平山優『武田氏滅亡』 (角川選書)
笹本正治『武田信玄 伝説的英雄像からの脱却』 (中公新書)

(真山 知幸 : 著述家)

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