家康に怒り爆発「武田信玄」が軍を西に向けた背景
今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。その家康を苦しめ続けるのが、阿部寛さん演じる武田信玄だ。今回は信玄が、友好関係にあったはずの信長がいる西に軍勢を進めた背景を分析する。
織田信長・徳川家康連合軍と浅井・朝倉の連合軍が激突した姉川の合戦(1570年6月28日)以前に、家康は居城を岡崎から浜松に移した。今川氏の勢力を追い、新たに領国となった遠江国の経営のためである。
当初、家康は浜松ではなく、見付城(静岡県磐田市)をその拠点にしようとした。見付には、古代より国衙(諸国に置かれた役所)が置かれ、鎌倉時代以降には守護が居住する館(守護所)があり、行政の中心地であったことがその理由であろう。
ところが、見付を拠点とすることに信長から反対意見が出される。天竜川の東に居城するとなると、戦になったときに不都合があると言うのだ。今風に言うと、内政干渉に当たるだろうが、家康はそれに従う。信長の意見も、もっともであると納得したのだろう。
家康は、飯尾氏の居城だった引間城(浜松市中区)を普請し、名も浜松城と改める。元亀元年(1570年)6月、石垣や長屋が建てられた浜松城に家康は入った。岡崎城は嫡男の信康が受け継ぐことになる。
家康と上杉謙信が接近する
さて、永禄12年(1569年)頃より、家康は越後の上杉謙信と接近し始める。その理由は、前年(1568年)12月、甲斐の武田信玄と、家康が、挟み撃ちをするように、駿河・遠江国の今川勢を攻めたときの出来事が契機となっているように思う。
家康と信玄の間には、駿河は武田、遠江は徳川という取り分との「密約」があった。それにもかかわらず、信玄は秋山虎繁が率いる信州衆を遠江に進軍させたのである。
家康の抗議により、信玄は兵を遠江から引き揚げさせることを決めたが、家康の心中には、特にこのときから(信玄、油断ならぬ奴)という不信感が芽生えたのではないか。よって、年が明けてすぐに、信玄と敵対してきた上杉謙信と誼(よしみ)を通じようとしたのである。
度重なる交渉の結果、元亀元年(1570年)10月には、徳川・上杉の同盟が成立したとみられる。家康が10月8日付で謙信に起請文(誓約書)を出し「信玄と手切れをすること」「信長と謙信が親密になるように仲介すること」「武田と織田の間の縁組が破談になるように信長を諌めること」などを誓っているからだ。
元亀元年の夏、信長は、敵対する三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)や大坂本願寺との戦いに明け暮れていた。将軍・足利義昭から家康に対し、信長を助けるため、参陣するよう命令が出ている(9月14日)。家康はそれに応え、出兵する。
ちなみに、15代足利将軍・義昭から家康に宛てた書状は、宛先が「松平蔵人」となっている。「徳川」とも「三河守」とも記されていない。これはなぜか?家康の「従五位下・三河守」叙任や「徳川」改姓が、将軍空位時に近衛前久の主導により行われたこと、近衛前久が14代将軍・足利義栄の将軍宣下に関与していたことがその理由であろう。
義栄は、義昭の兄・義輝(13代将軍)を殺した三好三人衆に擁立された将軍であった。政敵ともいうべき義栄の将軍宣下に関わった近衛前久が進めた話など認める訳にはいかないというのが、義昭の想いだったろう。家康からすれば、とんだとばっちりである。
信長と敵対勢力の抗争が続く
信長と敵対勢力との抗争はさらに続き、元亀2年(1571年)9月、信長は、浅井・朝倉に与した比叡山延暦寺を焼き払っている。『三河物語』は、比叡山焼き討ちに関して、信長の「比叡山は僧侶の身でありながら、裏切って、私(信長)を殺そうとした。よって叡山を再興させない」との言葉を載せている。
『信長公記』は、比叡山が浅井・朝倉に加担したこと、僧侶が禁制の魚鳥を食い、女人を山内に引き入れているなどの悪逆が、比叡山攻めの要因となったと記す。
さて、武田信玄は、駿河国に点在する北条方の城を次々と攻め、国内への影響力を強めていた。元亀2年(1571年)、信玄は遠江国の高天神城(掛川市)や東三河にまで進出してきたといわれてきたが、その根拠となる古文書の発給年が天正3年(1575年)とされたことによって、元亀2年に武田軍は三河まで進出していないという説もある。
武田氏と北条氏は駿河等で合戦を繰り広げてきたのだが、元亀2年、一転して同盟を結ぶことになる。越後の上杉氏との同盟に積極的であった北条氏康が死去したからだ。
後継の北条氏政は、正室が信玄の娘(黄梅院)であり、元来、越後との同盟に乗り気ではなかった。北条氏は上杉と手を切り、武田と結んだ。駿河国も武田が支配することが取り決められ、信玄は後方の憂いなく西上できる態勢が整った。
元亀3年(1572年)10月3日、信玄は甲府を発し、西上の途についた。ではなぜ、信玄は軍勢を西に向けたのか。長く主流となってきたのが、上洛説である。
元亀2年頃より、信長と対立する将軍・足利義昭が盟主となり、越前の朝倉氏、近江の浅井氏、大坂の石山本願寺が加わる「信長包囲網」が形成された。信玄もそれに加わり、信長を撃破し上洛しようとしたとの説だ。
しかし、義昭が反・信長の態度を明らかにし、浅井・朝倉らに書状を出したのは、元亀4年(1573年)2月のことといわれており、信玄西上時には、義昭が盟主となるような事態ではなかったのである。
家康への敵対心と憤り
では、信玄は何のために、兵を西に向けたのか。信玄は遠江への出兵について、書状のなかで「五日の内に天竜川を越え、浜松に向け出馬し、三年間の鬱憤を晴らす」(元亀3年10月21日)と述べているので、1つは、家康への敵対心と憤りであろう。
信玄の家康への憤りが何かについては「家康が今川氏真と和議を結んだこと」など諸説あるが、元亀元年(1570年)に、越後の上杉氏と家康が同盟を結んだことが真因であろう。家康に打撃を与えて「鬱憤を晴らす」というのが、信玄の西上の眼目であった。
家康に痛撃を与えた後、信玄は信長との対決を考えていたはずだ。盟友である家康を叩き潰されて、信長が黙っているはずはないし、何より、織田と武田は友好関係にあったのだ。
それであるのに、信玄は突然西に軍を向けた。元亀3年(1572年)10月5日、織田信長が信玄に宛てた書状には「甲斐と越後の和睦調停を行っている」と書いており、信玄のため尽力していた。
しかし、その数日前には、すでに信玄は西上の途についていたのだ。東美濃の岩村城(岐阜県恵那市)を守る遠山氏は、自ら武田軍に降った(城には、武田方から派遣された信州の下条伊豆守が入ることになる)。
信玄が怒ったもう1つの理由
岩村城の遠山氏は、武田と織田に両属していたが、元亀3年8月、信長は庶兄の織田信広を派遣し、遠山一族の武田派を制圧。そのことも信玄は気に入らなかったはずだ。
信玄の西上には、織田との領土紛争を一挙に解決する目論みもあったであろう。信玄は信長と戦になることも覚悟のうえだった。信玄は家康と信長を相手に戦おうとしたのである。
・柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』(平凡社、2017)
・本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館、2010)
・藤井譲治『徳川家康』(吉川弘文館、2020)
・本多隆成『徳川家康の決断 桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(中公新書、2022)
・平山優『新説 家康と三方原合戦 生涯唯一の大敗を読み解く』(NHK出版新書、2022)
・濱田浩一郎『家康クライシス 天下人の危機回避術』(ワニブックスPLUS新書、2022)
(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)
03/18 14:00
東洋経済オンライン