「武田信玄」家康を翻弄し不倶戴天の敵となる必然

NHK大河ドラマ「どうする家康」で阿部寛さんが演じる武田信玄

NHK大河ドラマ「どうする家康」では武田信玄を阿部寛さんが演じています(画像:NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイト)
NHK大河ドラマ『どうする家康』第8回では、三河一向一揆における家臣の離脱により家康は絶体絶命の危機に陥りました。第9回では、この一揆の扇動に、あの武田信玄も関係していたことが明らかになります。戦国最強とうたわれた武田信玄と家康の関係について『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら』の著者、眞邊明人氏が解説します。

武田信玄という武将

織田信長や徳川家康を怯えさせたと言われる戦国最強の武将・武田信玄は、どんな人物だったのでしょうか。信玄は、甲斐の統一を果たした武田信虎の次男として生まれました。次男の信玄が嫡男となったのは、長男が7歳で亡くなったからです。

信玄は信濃の諏訪、上伊那を平定し、父の時代に敵対関係にあった北条・今川と三国同盟を結びます。信玄は信濃への本格的な侵攻を目論んでいたので、その背後に控える2つの強大な勢力との同盟を必要としていました。

三国同盟は、尾張への侵攻を計画していた今川義元にとっても重要であり、義元の積極的な北条氏への働きかけもあって成立したものです。信玄は、この同盟を得て本格的な信濃侵攻を開始します。その信玄の前に立ちはだかったのが信濃の猛将、村上義清でした。

1548年、信玄は村上義清との決戦に挑みますが、大敗を喫します。この時、宿老(古参の家臣)の甘利虎泰、板垣信方を討ち取られ、信玄自身も手傷を負いました。

その後、信濃の策士である真田幸隆が信玄の配下に加わったことで形勢は変わっていきます。幸隆の働きもあり、村上義清はついに信濃から越後に逃亡し、信玄は念願の信濃を手中に収めました。しかし、この動きが新たな強敵を生むことになります。

越後に逃亡した村上義清が頼ったのは長尾景虎、のちの上杉謙信です。景虎は、義清や信玄に追われた信濃の豪族たちの願いを聞き入れて信濃への出兵を行います。

信玄と謙信(景虎)の戦いは川中島で行われ、都合5回の直接対決がありました。

その4回目が1561年に行われた、名高い「川中島の戦い」です。

ともに多数の死傷者を出したこの戦いで、信玄は弟の信繁を失い自らも負傷します。その前年に、同盟相手であった今川義元が桶狭間で織田信長に討ちとられたこともあり、いったん信濃は落ち着きました。そして信玄は、義元亡きあとの今川領に目をつけるのです。

父親を追放した信玄

信玄の父である武田信虎は、甲斐の国の統一を果たした英傑です。

武田氏はそもそも甲斐の守護だったのですが、室町時代後期にはその力は衰えていました。しかも武田家はつねに内紛を抱えており、信虎は、まず武田家の統一から掛からねばなりませんでした。

1508年に武田家を統一すると、その勢いで甲斐全体の統一に突き進みます。信玄(晴信)は、この頃に正室・大井の方との間に生まれます。信虎は気性が荒く、逆らう者は容赦せずに手討ちにするといった粗暴な面もあったようです。

この信虎が、甲斐統一に向けて延々と続けた戦いに領民からも反発の声があがります。当時の戦では領民が兵として駆り出されるわけで、戦続きになると当然、畑仕事ができません。そのうえ戦の出費を賄うために過剰な年貢が取り立てられるわけですから、たまったものではありませんでした。

信玄が信虎を追放した理由として「弟の信繁を偏愛し信玄を廃嫡しようとした」という説がありますが、信虎の追放に信繁も加担していたところをみると、その説の可能性は低そうです。さらに甘利、板垣らの宿老たちもこぞってこの追放劇に参加しているので、実際は家臣団、息子たちを含めて総意での決起であり、信玄はその先頭に立ったのだと思われます。

信虎は娘婿である今川義元の駿河へ身一つで追放されました。甲斐を統一した英傑にしては寂しい転落です。一方、引き取った今川義元も困ったようで、信玄に信虎の隠居料(生活費)を請求したりしたようです。

戦国最強とうたわれた武田信玄と家康の関係とは(写真:PhotoNetwork/PIXTA)

もっとも信虎に反省の様子はなく、義元亡きあとは反乱を企てたり京に上って足利義昭に臣従し甲賀衆を率いたりと、なかなかの暴れっぷりを見せました。さらに、信玄よりも長生きし、最後は孫の武田勝頼の世話になったと言われています。いずれにせよ信玄にとって、父である信虎の追放は人生の大きな転機でした。しかし父の追放は、意外な形で信玄に返ってきます。

嫡男義信との暗闘

信玄の子・義信は、信玄の正室である三条の方とのあいだに生まれました。三条の方は京の公家、三条公頼の娘で、信玄の父・信虎による婚姻政策の一環でした。

義信は文武に優れ、初陣で信濃の知久氏の反乱を見事に鎮めています。激戦となった第4次川中島の戦いでは、上杉謙信の本陣に切り込み、謙信自ら太刀をもって防戦したとありますが、これは猛将であった祖父信虎を彷彿とさせる勇猛ぶりでした。

しかし、その後、信玄と義信の仲は急速に悪化の一途を辿ります。その大きな要因が、第4次川中島の戦いの前年に起こった桶狭間の戦いです。

義信の正室は今川義元の娘でした。当時の武田家は今川義元の死を受けて、駿河への侵攻を主張する派閥と、今川を援けて織田・徳川への牽制を行うべしと主張する派閥に分かれていました。そして駿河侵攻派のトップが信玄であり、親今川派のトップが義信だったのです。
ふたりの関係は急速に悪化します。

義信は能力も高く勇猛であったため、彼の後見人である飯富虎昌をはじめ一定の支持がありました。

信玄と義信の緊張関係が沸点に達したのは1565年のことです。信玄は、義信が謀叛を企てたとして、義信を甲府東光寺に幽閉します。同時に義信の配下である飯富虎昌らを処刑しました。義信はこの罪により廃嫡され、それから2年後に死去します。

この死の原因は明らかになっていません。義信の正室は離縁され、今川家に戻されます。信玄は4男の諏訪勝頼を嫡男に指名し、その勝頼には、織田信長の娘が嫁ぐことになりました。信玄が明確に今川家に対する方針を変換した瞬間です。

しかし信玄にとっては、義信が自分と同じように父親の追放を目論んだことはショックだったでしょう。信玄にとって、親子とは過酷な関係だったのです。

家康と信玄の共通点

のちに家康もまた、嫡男信康を自害させるという事態に直面します。

信康の処刑については信長の命令だったとの説があり、家康は苦渋の決断でそれに従ったとありますが、最近では、家康と信康の間に確執があったことが明らかになっています。浜松の家康と岡崎の信康のあいだで、一種の権力闘争があったのは確かなようです。

ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら

家康と信康の関係は、信玄と義信に近いものがあったのかもしれません。そして、ふたりとも結果的には息子を処断するという重い判断を下しました。

目の前の現実と目的に対しては、息子といえども容赦はしないリアリストの一面が信玄にも家康にもあったようです。息子に対してそこまで冷酷なのですから、今川に対して容赦ないのは当たり前です。信玄と家康は示し合わせて、今川領に攻め込みます。

このとき信玄は、同盟を結んでいた北条氏にも駿河侵攻の誘いをかけますが、当主の北条氏康は

「弱っている今川家を叩くのは道理ではない」

として武田との同盟を破棄し、今川家に援軍を送ります。

武田、徳川は東西から駿河を攻めますが、ここで信玄と家康の間に不和が生まれます。それは最初に約束していた、侵攻した領地の線引きについて齟齬が生じたのです。信玄は家康の同盟者である信長とは姻戚関係を結んでいたこともあり、家康を甘く見ていた節があります。しかし家康は、目的のためには一歩も引かないという頑固さがあります。態度をうやむやにする信玄に対して、家康はなんと攻めていた今川氏真と和睦し駿河侵攻から手を引くという荒業に出ます。

しかしながら信玄はそのまま駿河を攻めて、ついに駿河を掌握することに成功しました。この件で、家康にとっての信玄は不俱戴天の仇敵になります。

そして、そのふたりのあいだをなんとか取り持とうとしたのが、あの織田信長でした。

(眞邊 明人 : 脚本家、演出家)

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