「今川家の滅亡」徳川家康は氏真をどう攻めたのか

掛川城(写真: taka / PIXTA)

今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康(松平元康)が主人公。主役を松本潤さんが務めている。

今川家の人質として幼少期を過ごした家康。ところが今川義元の死をきっかけに、今川家の権威は揺らぎ始める。信長が影響力を高める中で、家康も今川家からの離反を決意。今回は家康が、今川氏をどう滅亡させたのか分析する。

永禄12年(1569)1月、徳川家康は、駿府から掛川城(掛川市)に逃れていた今川氏真(義元の嫡男)を攻撃する。城の周りに砦を築き、小笠原氏や久野氏を先鋒にして攻めようとしたのだ。小笠原氏・久野氏らは遠江攻めで家康に降った武将であった。

家康への謀反を企てる者も

しかし、久野氏の中には「今こそ出世の機会ぞ。家康の敵となり、懸川(掛川)の今川方と共に挟み撃ちにしよう。そうなると、遠江の侍たちも一人残らず家康の敵となるだろう。家康は袋のネズミだ」と、主人の久野宗能に裏切りを勧める者(久野宗憲・宗茂・宗政・宗益など)もいたという(『三河物語』)。

謀反を勧められた宗能は「一度、今川氏真を裏切り、弓をひくのさえ、侍の義理を違えたと赤面しているのだ。そうであるのに、家康を裏切れば、人は後ろ指をさすだろう。私は家康に従う」と述べ、誘いを拒否する。

拒否された宗茂・宗政らは「今こそ出世の機会であると助言しているのに、承知しないとは。それなら、主人(久野宗能)に腹を切らせ、義兄弟の淡路(宗益)をもり立てようではないか。そして家康を囲み、逃すまい」と決意した。だが、さすがにそこまではついていけないとして、久野宗憲と本間十右衛門尉は宗茂らから離れる。

2人は不穏な動きをあることを宗能に伝えた。宗能は驚き、家康に援軍を依頼。家康が援軍を差し向けると、宗能は援軍を本城に入れたので、宗能に対する謀反は起こらなかった。

不穏な動きをした宗益は切腹させられ、宗政は追放処分となる。それを見て、家康自ら、掛川に出陣する。そして天王山に陣をしき、各所に砦を築くのだ。掛川城から今川勢が討って出てくることもあり、激しい戦が展開された。

『三河物語』には、徳川方の武士たちの活躍が描かれている。椋原次右衛門尉、大久保忠佐が敵を討ち取ったこと、小坂新助という武士は、敵の正面の土塁にまで攻め入って、そこで敵を討ち、無事に引き揚げたことが記される。武功により、名を挙げた者はほかにもいたようだ。

椋原次右衛門尉は、家康に「今日、組み討ちで、敵を討ち取った」ことを言上する。すると大久保忠佐が「いいや、今日、手柄をあげた者で、組み討ちで敵を殺した者はおりません。そなたが討ち取った者も、既に鉄砲に当たって、死んで倒れていた者ではないか。その首を取ったのだ。今日の手柄は、皆、死人の首ばかりだ」と口を挟む。

内藤正成も「今日の手柄は、私を含め、全て死人の首」と言上する。その話を聞いていた人々は「内藤と大久保の言い分はもっともだ。両人の性格そのままだ」と言い合ったという。

なかなか落ちなかった掛川城

いたずらに武功を誇るのではなく、正直な性格ということだろう。徳川方の奮闘にもかかわらず、掛川城はなかなか落ちなかった。城は猛攻によく耐えたのだ。

一方、武田信玄も駿河に侵攻したものの、小田原の北条氏が今川氏の支援に回ったため、窮地に陥っていた。信玄が頼ったのは、織田信長であった。

信玄は、信長を通じて、足利義昭に働きかけ、越後の上杉謙信と和睦を結ぼうとしたのだ。春になり雪解けとなると、上杉氏が信濃方面に進出してくることを信玄は防ごうとしたのである。永禄12年2月には、室町幕府将軍・足利義昭により、武田・上杉両氏に和睦を命じる書状が発給された(和睦はその年の7月頃に成立したと言われる)。

4月下旬、信玄は駿府を退き、甲府に戻った。家康も掛川城を攻めあぐねており、今川氏真と和解の道を模索していた。5月上旬、氏真は城を開き、北条氏を頼ることになる。ここに、今川氏は滅亡した。

氏真は北条氏を頼るが、その後、家康の庇護下に入る。晩年、氏真は品川に屋敷地を与えられて過ごすことになる。品川に屋敷を与えたのは、氏真の話が長いので、家康が煩わしいとしてこれを遠ざけたという説もあれば、港町として繁盛していた地を与えたという説もある。

ちなみに江戸時代には、今川氏は高家(儀式や典礼を司る役職)として、幕府に仕えることになる。家康は、豊臣秀吉によって追放され困窮していた織田信雄(信長の次男)も庇護し、御伽衆(主君の側近くにあって話し相手をする役)として養っている。家康は狸親父として有名であるが、これらのエピソードからは誠実な人柄が窺えよう。

一方で徳川と今川の和睦に武田信玄は不満を露わにし、織田信長に不満を漏らしている(3月23日)。信玄が4月に甲府に退いたのは、この和睦が成立すれば、自身の立場が危うくなると感じたからであった。

北条氏に攻勢をかけた信玄

甲府に戻った信玄は、北条氏に攻勢をかけ、武蔵国や相模国に軍勢を派遣。5月から10月にかけて、北条方の城(10月には小田原城を攻囲する)を攻めたり、今川の旧臣が籠もる大宮城(富士宮市)を攻め、これを攻略(7月3日)したりしている。

それは、信玄が再び駿河に侵攻するための布石であった。第1次駿河侵攻と同じく、北条氏に出てこられては敵わない。そうならないように、武蔵や相模に進出して、北条氏を撹乱、時に撃破したのである。

一連の作戦を終え、甲府に帰還した信玄は、永禄12年12月、駿河に攻め込む。駿河には、今川旧臣や北条氏の家臣たちがいまだ残存していた。

蒲原城(静岡市、北条氏信が守備)を攻め落とした信玄の軍勢は、同月13日に駿府に攻め入る。今川館に籠もっていた岡部正綱は武田に降伏する。翌13年(1570)1月27日には、花沢城(静岡県焼津市)を攻略。他の城も次々に落とし、駿河の中西部を武田氏の勢力下に収めた。

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)

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