徳川家康が「武田信玄」に心開かなかった複雑事情

甲府駅前の武田信玄公像(写真: PhotoNetwork /PIXTA)

今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康(松平元康。以下、家康)が主人公。主役を松本潤さんが務めている。ドラマ内で登場する武将の中でもひときわ異彩を放つのが、阿部寛さん演じる武田信玄だ。今回は家康を人質として育てた今川家、そして家康と信玄の関係を解説する。

東海地方の雄・今川義元が桶狭間で敗れてからの今川氏は、次第に勢威が後退していく。それは、後継者の氏真の資質というよりは、時の勢いというものもあったかもしれない。

武田氏との関係に悩む今川氏真

西三河の豪族たちは、尾張の織田信長になびいていったが、氏真は有効な対策を打てずにいた。越後国の長尾景虎(後の上杉謙信。以下、謙信)が、小田原の北条氏を攻めるということもあったが(永禄4年=1561年)、今川氏は、相模の北条氏、甲斐の武田氏といわゆる「三国同盟」を結んでいたこともあり、共闘のため、対応しきれなかったのだ。

氏真も手をこまねいていただけではなく、西三河に軍勢を派遣することもあったが、織田方に通じる豪族を抑えることはできなかった。

永禄6年(1563年)には、遠江国の領主である飯尾氏・天野氏・松井氏らが離反するという事態も発生。混乱が広がっていく。

「三国同盟」にも綻びが目立ち始める。武田信玄が、織田信長と同盟を結んだのだ(永禄8年=1565年)。信長の養女(遠山氏の娘)が、信玄の4男・武田勝頼に嫁いだのである。今川にとって、織田は仇敵。その織田と武田が結んだというのだから、氏真は武田信玄に疑念を持ったに違いない。

しかし、織田と武田の同盟は、武田家の内部に亀裂を生む。今川氏真の妹を妻としていた信玄の嫡男・武田義信は、今川氏との同盟を保ちたいと考えており、信玄の路線に反発したのだ。

義信派の武将(例えば飯富虎昌)は信玄に謀反しようとしたが、事前に発覚。飯富は処刑された。義信も幽閉されたが、永禄10年(1567年)に病死。武田家内部の「今川派」が粛清されたのだ。

こうした武田氏の動きに、今川氏真も対抗する。武田信玄の宿敵というべき越後の上杉謙信と接近を始めたのだ。今川と上杉の接近・交渉は、永禄10年の前半にスタートし、両家の重臣がやり取りをしている。

そして、翌年の永禄11年(1568年)には「両家は裏切りや隠し事はしないこと」「事態によっては謙信が信濃国に兵を出すこと」「信玄が裏切った時は申し入れをすること」「信玄から計略の手紙が届いたら、必ず報告すること」などが取り決められたようだ。

今川と上杉の交渉が察知されてしまう

だが、この今川と上杉の交渉は、信玄に察知されてしまう。永禄11年、信玄は駿河国に侵攻するが、これは、今川氏真が上杉と通じ「信玄、滅亡の企て」に参画したからであった。

もちろん、それだけではなく、信玄の胸中には、遠江や三河の豪族が離反し、弱体化していく今川氏をこの機に攻め、駿河国を手中に収めたいという野心もあっただろう。

信玄は、駿河を攻める以前から、信長と「駿河・遠江国」のことについても話し合いをしていた。駿河侵攻は、信長の合意のもとで行われたのだ。

永禄11年9月、信長は足利義昭を奉じて上洛を果たしている。信長と信玄の同盟は、信長にとっては、上洛を見据えてのもの(上洛の際、後背で信玄が策動することを防ぐ)であったし、信玄にとっては、駿河侵攻を視野に入れてのものだったはずだ。

ただし、駿河・今川氏を攻めれば、今川と婚姻関係にある小田原の北条氏(北条氏康の娘が、今川氏真に嫁いでいた)が軍事介入してくる恐れもあった。信玄だけで今川を攻めるのは危うい。

そこで、信長を通じて、徳川家康との連携が行われるのである。武田・徳川の間では、武田の駿河侵攻に呼応して、徳川は遠江国を攻めることが事前に取り決められた。信玄は駿河、家康は遠江を取ることが決められていたと思われる。

信玄と家康と言えば、後の三方ヶ原の戦いのイメージから、ずっと敵同士と思われているかもしれないが、そうではない。

そしてついに、永禄11年12月6日、信玄は駿河への侵攻を始める。信玄は侵攻前に、今川重臣(朝比奈氏、葛山氏ら)に調略を仕掛け、内応を約束させていたようだ。今川氏真は侵攻に抗すべく、自ら出陣するが、家臣の離反により、駿府に引き返すことになる。

武田軍は、調略が功を奏し、12月13日に駿府に入った。氏真は駿府の今川館から、掛川城(掛川市、朝比奈氏が守備)に逃れる。奥方(北条氏康の娘)の「乗り物」も用意できないほどの準備不足と慌てようであった。

信玄が駿河を攻めると、予想通り、小田原の北条氏が今川方として、参戦してくる。北条氏の参戦により、信玄の駿河侵攻は、当初、目論んでいたより、進展しなかった。

さて、信玄と連携していた家康も同年12月中旬に遠江に攻め入る。家康もまた遠江の豪族への調略を行っており、菅沼氏・近藤氏・鈴木氏などが寝返った。高天神城(掛川市)の小笠原氏も帰服する。

家康の遠江侵攻に横やり

家康の遠江侵攻は順調であったが、思わぬところから、横やりが入る。武田方の別働隊(秋山虎繁の率いる信濃衆)が、北遠江に進出してきたのである。

武田別働隊は、引間(浜松市中区)に向かう勢いを見せる。『三河物語』には「大井川を境に、駿河を信玄の領分、大井川を境に遠江が家康の領分と定まっているのに、秋山が出陣してきたのは横車を押すことになる。すぐに引き返えされよ」と、家康が秋山に抗議したとある(これにより、秋山は兵を退いたという)。

12月22日付の信玄が家康に宛てた書状には「家康の急速な出陣に満足していること」や「掛川城の今川氏真を攻めるべきこと」、そして何より「(武田軍が)遠江国へ向かうこと」が堂々と記されている。

前述したように、武田と徳川の間には事前の取り決めがあったはずだから、これは信玄による「約束違反」ととることもできる。一方、遠江国は徳川・武田の切り取り次第という約束であったのに、それを突然、家康方が反故にしたとの見方もある(平山優『新説 家康と三方原合戦』NHK出版)。

家康は信玄に抗議したので、翌年の永禄12年(1569年)1月8日、信玄は「秋山の信州衆が遠江に在陣していること、これを我が方が遠江国を狙っているとお疑いのようですね。秋山らの軍勢(下伊那衆)は、我が陣に招きましょう」と秋山の軍勢を駿府に退かせることを言明している。

信玄は、当初から「約束違反」をして、駿河の次は遠江に侵攻する意図を持っていたのだろうか。

しかし、家康軍による素早い遠江攻略と、北条氏参戦による武田軍の苦境により、信玄の目論みは潰える。

永禄12年2月、信玄と家康の間に起請文(誓紙)が取り交わされた。信玄は「いささかも、疑念はありませんが、起請文を交わすことを私が希望したところ、無事に整い、めでたいことです。使者の目の前で血判をしました」と書状(2月16日)で述べており、信玄方から誓紙を取り交わすことを願い出たこと、それは血判であったことが分かる。家康の疑念を払い去りたいと思ったのだろう。

心から信玄を信用できない家康

しかし、いくら誓紙を交わしても、家康は真に信玄を信用することはなかった。それは、家康の以後の対応に如実に現れてくることになる。

もちろん、信玄にしても、誓紙など単なる紙切れ、いつかは家康の裏をかき、目的を達成してやるという思いを新たにしていた可能性もあるだろう。

(主要参考文献一覧)
・柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』(平凡社、2017)
・本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館、2010)
・本多隆成『徳川家康の決断 桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(中央公論新社、2022)
・平山優『新説 家康と三方原合戦 生涯唯一の大敗を読み解く』(NHK出版、2022)
・濱田浩一郎『家康クライシス  天下人の危機回避術』(ワニブックス、2022)

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)

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