JR巣鴨駅、世代交代する「おばあちゃんの原宿」

JR巣鴨駅の駅ビル

JR巣鴨駅。この橋の下を山手線が走っている(筆者撮影)

巣鴨といえば、反射的に「おばあちゃんの原宿」とのイメージが浮かぶ。巣鴨駅にほど近い、巣鴨地蔵通商店街を主に指して呼ばれる愛称だが、歴史をさかのぼれば、昭和の末から平成の始めにはこの呼び名が生まれていたようだ。

そうなると、もう30年以上が経っている。“おばあちゃん”たちもすでに初期からは世代交代しているはずで、今の高齢者の中核は戦後ベビーブーム世代、いわゆる「団塊の世代」だ。戦後教育と高度経済成長の洗礼を受け、戦前、戦中派とはまた違った感覚を持った人たちと思われる。

高齢者も世代交代

実際、巣鴨駅から「とげぬき地蔵(高岩寺)」へと続く商店街を歩くと、以前からある高齢者向けの衣料品店も目立ちはするが、それ以上に飲食店、食料品店や全国各地の物産店が増えた印象がある。観光客向けの店やふだん使いの商店も混在している感じだ。歳月が流れ、いつまでも元気で若々しい女性が高齢となってきたことを思わせる変化だろう。

本家の原宿や渋谷、代官山などは、その時代時代の若者のセンスに合わせてどんどん変わってきた。令和の高齢者も、ファッションセンスが昭和や平成の高齢者とは異なる人々ではあるまいか。巣鴨の今後の変化に注目すると、面白そうだ。

巣鴨地蔵通商店街

巣鴨地蔵通商店街(筆者撮影)

とげぬき地蔵・高岩寺

とげぬき地蔵として知られる高岩寺(筆者撮影)

巣鴨地蔵通り商店街は、かつての中山道に沿って発達した商店街だ。巣鴨駅は、品川―赤羽間の山手線から分岐して田端に至る「豊島線」が計画されたときから設置が予定されていた駅で、1903年4月1日に開業する前から、にぎわっていた土地であったと想像できる。追って開業した旅客専用駅の駒込とは違い、開業から1979年までは貨物も扱っていた。

駅南側に建つ、線路沿いのマンションがあるところが貨物扱い所の跡。この「アーバンハイツ巣鴨」こそ、国鉄が累積赤字解消の一助とするために住宅開発に乗り出し、「国鉄マンション」と呼ばれたところの第1号だ。余剰地を活用して建設し、1985年3月に完成。分譲されると、山手線の駅の直近でもあり人気を呼んで、たちまち完売した。巣鴨は、国鉄の歴史が転換した土地の1つでもある。

アーバンハイツ巣鴨の外観

国鉄マンションの第1号であるアーバンハイツ巣鴨(筆者撮影)

巣鴨―大塚間の山手線

巣鴨―大塚間の堀割を走る山手線(筆者撮影)

現在の巣鴨駅は、堀割の中を通る山手線、山手貨物線の上に跨がるように駅舎と駅ビルがあり、山手線のホームは島式1面。駅の南と北にさほど広くない駅前広場があって、駅の西側を地下鉄(都営三田線)が走り接続駅になっている。隣の駒込と構造がよく似ており、印象が重なるところがある。

ただし、改札口は大塚寄りに1カ所だけ。周囲は比較的、平坦な地形だ。かつて、都電の車庫があったことまでそっくりだが、都営住宅になった駒込車庫に対し、巣鴨車庫は都バスの車庫に転用され、面影を残している。

「巣鴨」は広大な地域だった

巣鴨駅は駒込駅と0.7kmしか離れていないため駅勢圏は重なっており、ソメイヨシノ発祥の地にある染井霊園も、むしろ巣鴨駅のほうが近い。巣鴨駅前の山手線に沿った桜並木には「染井吉野の碑」も建っているが、今となっては駒込のほうが目立っている。

巣鴨という地名はもともと、現在の豊島区の東半分に当たる、かなり広い地域を表していた。1889年に誕生した北豊島郡巣鴨町は、現在の町名でいえば、駒込と巣鴨1〜3丁目、南大塚1・2丁目にまたがる地域を占めていた。同時に存在していた巣鴨村は1918年に町制を施行して西巣鴨町となったが、現在の池袋、池袋本町、上池袋、西巣鴨から巣鴨4・5丁目、西池袋、東池袋の一部などを町域としていた。

この巣鴨町と西巣鴨町、高田町、長崎町が1932年に東京市に編入された際、合わせて豊島区となっている。巣鴨警察署が大塚駅の近くにあったり、太平洋戦争後の極東国際軍事裁判で知られる巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)が、現在のサンシャインシティのところであったりするのは、その名残だ。

都営バス巣鴨営業所

都営バスの巣鴨営業所(筆者撮影)

巣鴨駅前の染井吉野の碑

巣鴨駅前の染井吉野の碑(筆者撮影)

巣鴨に居を構えた歴史的な人物としては、徳川慶喜がいる。もちろん明治になってからの話で、1897年に静岡での謹慎生活を終えて東京へ戻ってきたときにここを選んだ。中山道に面して門があったとのことで、現在も駅前の国道17号(白山通り)沿いに跡地の石碑が建てられている。

ただし、屋敷のすぐ側で豊島線の工事が始まると、これを嫌い、1901年には小石川へ転居してしまう。巣鴨在住はわずか4年ほど。跡地は現在、中低層の商業ビルやマンションが混在する地区となっている。

徳川慶喜の屋敷跡

徳川慶喜の屋敷跡(筆者撮影)

徳川慶喜をシンボルにしている地元商店会

徳川慶喜をシンボルにしている地元商店会(筆者撮影)

ただ、地元の商店会では慶喜を地域のシンボルとしている。また、はるか後世、太平洋戦争後のことながら、小石川の屋敷跡のすぐ側には営団地下鉄(当時)丸ノ内線の小石川検車区が建設された。日本で初めて鉄道写真を撮影したのは慶喜ともいわれており、何かと鉄道に縁がある将軍様であった。

映画の街でもあった巣鴨

巣鴨駅前から白山通りを進むと、高岩寺の裏手を通り、都電荒川線の新庚申塚停留所に行き当たる。さらに進むと、都営三田線の西巣鴨駅の入り口が現れ、その側に旧朝日中学校がある。

戦前の無声映画時代、ここには広く知られた大都映画の撮影所があった。白山通りに面したレンガ塀には、前身である河合映画製作社も含めて、1919年から1942年に閉鎖されるまでの歴史をしのぶ、モニュメントが埋め込まれている。

新庚申塚停留所付近の都電荒川線

新庚申塚停留所付近で白山通りと交差する都電荒川線(筆者撮影)

大都映画巣鴨撮影所跡

大都映画巣鴨撮影所跡のモニュメント(筆者撮影)

大都映画は徹底した娯楽主義を取り、年100本もの映画を製作した。低コストの、いわゆるB級映画を週に2本のペースという「早撮り」で量産し、安い入場料で公開。観客層はあくまで一般大衆、中でも男女の労働者や子供に置いていた。そのため、厚い支持を背景に、経営は順調であったという。

戦前における日本最大の「映画の街」は巣鴨であったといえるかもしれない。ただ、太平洋戦争が勃発すると他社と合併させられ、大日本映画製作(大映)に統合。巣鴨から映画の火は消えた。当時のフィルムのほとんどは現存していないといわれる。

(土屋 武之 : 鉄道ジャーナリスト)

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