第一三共、「時価総額7兆円」支える乳がん薬の底力

第一三共の主力製品の抗がん剤で、対象患者が大幅に拡大する可能性が明らかになった。同社の足元の時価総額は、武田薬品工業などを抜いて国内製薬大手で首位に躍り出ている(編集部撮影)

「深夜にイヤホンで発表を聞いていたが、会場の拍手が割れんばかりに響いた。歓声や指笛も鳴り止まなかった」

アメリカのシカゴで6月3日~7日まで開催された、世界最大のがん学会「米国臨床腫瘍学会(ASCO)」の年次総会。オンラインで参加した広島大学病院乳腺外科の木村優里医師は、日本の製薬大手・第一三共の発表時の会場の熱気を冒頭のように振り返った。

200を超える演題がある中、第一三共の発表は、限られた注目演題の1つに選ばれていた。その内容は、10年にわたり乳がんなどの治療に当たってきた木村医師にとって「鳥肌が立つような感動だった」という。

「大黒柱」への成長を期待される抗がん剤

第一三共が発表したのは、イギリスのアストラゼネカ社と共同開発する抗がん剤「エンハーツ」の治験結果だ。

エンハーツは2019年にアメリカで承認されたばかりの新薬。その後、日本やヨーロッパでも承認され、主に乳がんの治療に用いられている。2021年度には、第一三共の売上高1兆円のうち、約800億円を売り上げる主力製品に成長した。2022年度は倍増の約1600億円を見込んでいる。

投資家の間でもエンハーツに対する期待は高い。年間売上高1000億円を超える新薬を製薬業界では「ブロックバスター」と呼ぶが、市場関係者の中には同薬の売上高が2025年に5000億円を超すと予想する声もある。

エンハーツは、「抗体薬物複合体(ADC)」と呼ばれる第一三共の技術を用いた薬だ。ADCとは、直接がん細胞に結合できる「抗体」に「薬物(抗がん剤)」を結合させたもので、従来の治療法よりも副作用を抑えながら効果をもたらす特徴がある。

第一三共の技術では、ADCと同様の技術を用いた薬と比べ、多くの薬物を抗体に結合できる点が強みだ。こうした有効性や独自技術への注目度の高さから、一気に会社の主力製品となったエンハーツ。さらにASCOでの発表によれば、同薬の投与対象患者が大幅に拡大する可能性があり、再び耳目を集めている。

WHO(世界保健機関)によれば、2020年に約230万人の女性が乳がんと診断され、68万人が亡くなった。世界で最も罹患者数の多いがんで、日本でも女性の部位別罹患数での1位は乳がんだ。

年間の死亡者数では大腸がんや膵臓がんなどが上回るが、乳がんは罹患のピークが40代から60代に来るのが特徴。多くの患者が子育てや仕事をしながらの治療となるため、副作用が少なく、より早期の社会復帰を促すような治療薬が待ち望まれている。

乳がんは、がん細胞の性質などによって大きく4つのタイプが存在し、それぞれで治療法が限られているのが現状だ。エンハーツが対象とするのは、HER2(ハーツー)というたんぱく質が、過剰に発現するタイプの乳がん。この「HER2陽性」タイプは、乳がん患者全体の約2割に相当する。

ところが今回の第一三共の発表によると、HER2陽性タイプではない乳がん患者にも、新たな治療法としてエンハーツが追加される可能性が出てきた。対象となるのは、同社が新たに定義した「HER2低発現」と呼ばれるタイプの該当者で、乳がん患者全体の約5割に当たるという。

既存の化学療法と比べ死亡リスクを半減

乳がん治療では現在、がんの増殖に関わる女性ホルモンの受容体の「陽性」「陰性」と、HER2の発現状況のスコアに応じた「陽性」「陰性」の判定結果でタイプが分けられ、それぞれで治療方法が異なる。だが第一三共は現在の基準で「HER2陰性」と診断された場合でも、HER2の発現が一定程度認められる人に対し、エンハーツの有効性がないかを臨床試験(治験)で確かめてきた。

第一三共の主力製品に成長したエンハーツ(写真:第一三共)

治験では、化学療法による治療を受けたHER2低発現の患者に対してエンハーツを投与し、化学療法で治療する患者との比較検証を実施。その最新データが発表されたのが、6月のASCOだった。

結果報告によると、エンハーツを投与した患者は化学療法で治療する患者と比べ、症状が悪化せずに生存した期間が4.7カ月延び、死亡リスクを半減させた。さらに化学療法の場合より、腫瘍の消失や減少の効果も高かった。

今回の発表が業界に衝撃をもたらした理由は、それだけではない。治療方針の基本となるタイプに、「HER2低発現」というまったく新たなカテゴリを確立した点でも、「乳がん治療の教科書を大きく変える発表」(業界関係者)と捉えられている。

第一三共は、HER2低発現タイプの乳がん患者への対象拡大に向け、すでにヨーロッパや日本で承認を申請。アメリカでは、2022年度内にも承認される可能性がある。

対象患者が拡大すれば、売り上げにも直結する。イギリスの調査会社Evaluateは6月、エンハーツの2028年の売り上げが64.5億ドル(9000億円弱)に上るとの予想を公表している。

2022年2月にHER2低発現の乳がん患者を対象とした最終段階の治験結果を発表した後から、第一三共の株価はじりじりと上昇し、7月12日には年初来高値を記録。直近の時価総額は約6.8兆円と、国内の製薬会社で売上高トップの武田薬品工業(時価総額は約6.3兆円)や同2位のアステラス製薬(同約3.9兆円)を抜いて、現在は業界首位へと躍り出ている。

市場の評価を支えるのは、エンハーツだけではない。第一三共はエンハーツと共通するADC技術を用いた別の治療薬を複数開発中だ。同社はエンハーツと、これらの薬の貢献を含めた2025年のがん領域での売上高を6000億円と見積もるが、それを大きく上回る可能性もある。

技術特許をめぐり不安の種も

ただ、この盛り上がりに水を差す動きもある。エンハーツの肝であるADCという技術について、かつて第一三共が共同研究をしていたアメリカのシージェン社が、特許侵害をしているとして第一三共を提訴しているのだ。

アメリカ・テキサス州の地方裁判所は7月20日、第一三共側が特許を侵害しているとし、シージェンへ約57億円の支払いを認める判決を下した。その前日には米国特許商標庁も、第一三共がシージェン側の特許の無効を申し立てていた審査について、手続きを進めないとする決定を発表した。第一三共はこれらの決定を不服として、「あらゆる法的手段等を検討する」とコメントしている。

もっとも、シージェンとの確執によってエンハーツやADCの有望性自体が揺らぐわけではない。第一三共を支える抗がん剤の今後の展開に、医療現場、そして株式市場は熱い視線を注いでいる。

(兵頭 輝夏 : 東洋経済 記者)

ジャンルで探す