最低賃金を時給1200円に上げるのが得策と見る訳

値上げ問題の解決につながるはずです(写真:akiyoko/PIXTA)

個人的にここ数週間もやもやしていた日本経済の大問題の答えがようやくわかりました。日本の最低賃金問題を考えたときに、あくまで私個人の意見と主張だと断ったうえで言えば、今年の秋ぐらいのタイミングで現在の全国平均である時給930円から同1200円に引き上げたほうがいいというのが答えです。

経済学の定石では最低賃金を人為的に引き上げるのは愚策だとされています。この記事を読み始めた経済人はまず間違いなく「また間違った記事が掲載されているな」と舌打ちをするはずです。

最低賃金を人為的に引き上げるとどうなる?

最低賃金を人為的に上げると神の手のメカニズムが働き、いちばん安い賃金の仕事の現場で「こんなに賃金が高いならパートを雇うのを減らそう」と言い出して、結果的に「生活がピンチの人」が余計に増えてしまいます。経済全体として最低賃金が上がる前よりも総賃金は減ってさらに経済が縮小する。だから最低賃金は人為的に引き上げてはだめだということがわかっています。

一方でもやもやのきっかけは私が先日出演させていただいたあるテレビの情報番組での話です。この番組、途中で視聴者の方から質問が入りコメンテーターが答える仕組みになっています。値上げラッシュがテーマの回だったのですが「物価が上がるのはいいので、最低賃金を上げてほしい。今は時給で働く人の生活がピンチです」という質問が来ました。

このとき実は番組を見ていた方も気づかないくらいのコンマ何秒か私が一瞬躊躇して「最低賃金を上げると経済学的にはよくないことが起きるとわかっていて難しい」と教科書的な回答をしています。一瞬の躊躇の理由はこのときの私の直感で、正しいはずのこの回答がなぜか正しくない気がしたからです。

数週間熟考してわかりました。正しくは「今、値上げラッシュが引き起こす不景気を反転させ好景気に転じるためには、経済学のセオリーから外れて最低賃金を大幅に上げるのが正解だ」です。日本の最低賃金を一律1200円ぐらいのレベルで大幅に引き上げると今、日本経済が抱えている問題のかなりの部分が解決するだろうと私は考えています。

経済学の専門家から見て悪手の施策が2022年の秋から冬にかけてのこの時期だけは「会心の一撃」になるかもしれない。なぜ政府は今、最低賃金を上げるのが望ましいのか?

その理由を3ステップで説明します。

① 政府が目標とする正しいインフレのためには賃金が上がらないといけない

アベノミクス以来ずっと語られてきたのが日本にはインフレが必要だということでした。日本政府が8年の間、ずっと達成できなかったこの「インフレ目標2%」が原油高、小麦高、円安によってあっさりと達成されてしまいました。

デフレスパイラルを脱却したにもかかわらず経済が悪化しているのは賃金が上がらないからです。本当は景気がよくなって、賃金が上がることで日本経済全体では2%の良いインフレが起きることを期待していたのです。

インフレが2%なら賃金は2%以上、アメリカのようにインフレが8%なら賃金が8%以上上がればそれはいいインフレになります。そこで政府はこの春、インフレが現実化する前の春闘の段階で経済団体に対して賃上げを要請していました。

実は今年の春闘の賃上げ率は2.27%と4~5月の生鮮食料品を除くインフレ率の2.1%を上回っています。つまり、大企業の正社員の家庭は値上げラッシュにそれほど困っていないはずなのです。そして春闘は終わり、正社員の給料の引き上げには長い交渉が必要なので、政府も次に賃上げができるタイミングは2023年度だと考えています。

一方でこの春の値上げラッシュはウクライナ侵攻前、中国のロックダウン前の事象で起きたことであって、この秋に小麦や半導体などさらに値上げが起きるはずです。つまり中流家庭でも事態はこの先さらに悪化することが予測されています。

日本人の経済事情は3つの所得階層で全然違う

② 賃上げすべきは余裕のある正社員ではなく余裕がない非正規労働者

さて、春闘の賃上げ率が消費者物価指数を上回ったのにもかかわらずなぜ消費者が値上げに悲鳴を上げているのでしょう? 実は日本人は3つの所得階層に分断されていて、その3つの層で経済事情がまったく異なるのです。

春闘で賃上げ2.27%を勝ち取った大企業の正社員層は日本の従業員人口に当てはめると約2割です。過去2年間のコロナ禍で使うことができなかった強制貯蓄50兆円を抱えているのが労働者の中では主にこの層で、百貨店や高級ホテルでのリベンジ消費もこの層が支えています(注:リベンジ消費は他に引退した高齢者の富裕層も関係しています)。

従業員人口の約4割は中小企業の正社員で、こちらは景気が上向かない限り、給料は上がらないのですが、雇用が約束されているという点では恵まれています。

最も苦しい状況にあるのが従業員全体の約4割を占める非正規労働者です。こちらは多くの場合、最低賃金近辺に給与水準がはりついています。フルタイムで働いてもワーキングプアと呼ばれるひとたちは主にこの層に属します。

値上げラッシュによる生活苦はこの3層のうち、最も収入の苦しい層で顕著に起きている現象です。実はいちばんの「大企業の正社員層」は小麦製品の価格が15%上がっても消費を減らさない行動傾向があります。

つまり「デパ地下で意外な高額商品が売れています」といったニュースに登場する層と、「値上げラッシュでスーパーでは価格の安いプライベートブランド(PB)商品の売り上げが増加しています」といったニュースに登場する顧客層は、まったく別の所得階層なのです。

大企業正社員だけが恩恵を受けて格差が広がっている

そして結局のところ日本の経済政策がうまくいっていない最大の理由はこの点です。アベノミクスで大企業だけが利益を増やし大企業の正社員だけがその恩恵を受けているけれども、それは上位2割の所得が増えて国民の間の所得格差を広げているだけになっています。

ではどうすればいいのか?

実は生活が苦しいひとたちの所得が大幅に増えるようになれば経済が回転するようになります。値上げ幅よりも所得増が多ければ、電気代が上がっても、パスタや麺類の価格が上がっても、今までと同じ商品を購入し、生活のスタイルを変える必要もなくなります。デフレスパイラルでは節約が日本の経済を縮小していったのと逆の動きが起きることになります。そして春闘で高収入の人の給与を上げてもらうのには時間がかかりますが、最低賃金のルール変更なら与党がそう決めればすぐに実行できます。

そこで過去に格差が開いたことも加味したうえで、最低賃金を現在の全国平均930円から1200円へと大幅に引き上げたらいいのではないかというのが冒頭の主張です。問題はそんなことをすると逆に雇用が減ってしまって経済が悪化し、下流世帯の所得も増えないのではないかという経済学の常識から来る懸念です。

③ リベンジ消費とインバウンド回復にぶつければ最低賃金を上げても雇用は減らない

この考察で重要な点は「雇用が急拡大するタイミングであれば、この問題は回避できる」という視点です。求人に対する需要が急拡大すれば人が採れないことで多少賃金が高くても人を雇おうという雇用主がたくさん出てきます。マスクが不足した当時に50枚5000円でもマスクが売れたのと同じ経済現象です。

そしてそのタイミングとは50兆円の強制貯蓄が放出されリベンジ消費が起きるこの夏から外国人観光客が大量に日本に入ってきてインバウンドが回復してくるこの秋までのタイミング。ここで飲食業界、観光業界などこれまで絞ってきた雇用を一気に増加させたいというニーズが発生して、日本全体で人手不足が起きます。

ですからそのタイミングに最低賃金大幅増をぶつけることで、最低賃金を人為的に動かすマイナスを回避しようというのが今回のアイデアです。

日本にとって千載一遇のチャンスとなるはず

マレーシアでは財界からの反発がある中でこの5月1日から最低賃金を25%引き上げました。日本で930円の最低賃金を1200円に上げるというのはそれに匹敵する上げ幅であると同時に、この秋までの消費者物価指数の値上げも余裕で吸収できる値上げ幅になります。それでもアメリカ・カリフォルニア州の最低賃金15ドル(約2025円)と比べればまだ日本の賃金は全然安いことになります。

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この政策提言の重要なところは、この施策で人口のボリュームゾーンにあたる層が買い控えから普通の消費へと戻る点です。家計を節約し、エネルギーを節電し、外出も減らしてという行動から、普通の生活に戻すことができます。貯蓄がほとんどない層であるがゆえに、逆に賃上げ分はほとんどが消費に回されて、結果として乗数効果で経済が回復するという理屈です。

もちろん最低賃金を上げると、それに耐えきれずに脱落してしまう中小零細企業も一定数出ることになります。それでもマクロ経済的にはそれによって起きる失業は、新しい雇用で吸収されるはずです。

冒頭で申し上げた通り、最低賃金を引き上げるというのはほとんどの局面では政策として悪手です。しかしコロナ禍からの回復期であるこの夏から秋は実はその逆で、過去30年間にうまれた格差を一気に是正できる千載一遇の政策チャンスである可能性が非常に高い。

専門家としての直感に反して、やはり日本人の最低賃金は上げるべきというのが私の意見です。

(鈴木 貴博 : 経済評論家、百年コンサルティング代表)

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