岸田首相は賃上げと株主還元のどちらが先なのか

岸田首相が「資産倍増計画」を最初に打ち出したのはロンドン訪問中の5月5日だった(写真:Bloomberg)

政府は6月7日、「新しい資本主義」の実行計画である「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画・フォローアップ」を閣議決定した。内容はすでに報じられているように、「成長戦略重視」という印象が強い。

2021年10月26日に行われた政府主導の「新しい資本主義実現会議」の第1回では、事務方から「新しい資本主義(ステークホルダー論)をめぐる識者の議論の整理」という資料が提出され、既存の資本主義の問題点などについて議論されていた。

例えば、下記のような著名人の主張が並べられ、新自由主義や株主至上主義の問題点が指摘された。

・ティロル(Jean Tirole、2014年ノーベル経済学賞受賞)は、ステークホルダー全体を考慮した企業統治を考える必要性を提唱し、そのための経営者に対するインセンティブと制御の構造を研究すべきとの論⽂を2001年にEconometricaに発表。
・ラジャンとジンガルス(Raghuram Rajan & Luigi Zingales)は、現代の企業において価値を⽣み出す源泉が何であるかという別の視点から「株主価値最⼤化」の企業統治の仕組みに疑問を提起。
・ヘンダーソン(Rebecca Henderson、ハーバード・ビジネススクール教授)は、気候変動や格差といった問題に対しては、「株主価値の最⼤化」という考え⽅を離れ、資本主義の再構築を⾏うことが必要と主張。
・投資家サイドの代表的論客のラリー・フィンク(Larry Fink、世界最⼤の資産運⽤会社ブラックロックのCEO)。彼は2018年1⽉、投資対象企業すべてのCEOに宛てた書簡において、⻑期的な利益を達成するために広い範囲のステークホルダーの利益を追求すべき旨を明記。

「新しい資本主義」は着地前に流れが変わった

ところが、これらのスタート時にみられたコンセプトと比べると、今回、出来上がった実行計画は、前政権までの「成長戦略」にかなり近い着地となった印象である。

そうした結果を受けて、実現会議のメンバーでもあり、「新しい資本主義」によって「株主至上主義の是正」を訴えてきた原丈人氏は、朝日新聞のインタビュー(5月30日朝刊掲載)において、実行計画に対して「資産所得倍増の前に分配政策を」と「不満」を訴えた。

2月にBloombergが行ったインタビューでは、原氏は「(岸田首相と)よく会っている。いろいろな助言はしている」とし、「新しい資本主義実現会議」と原氏の財団を「車の両輪」に例えていたことを考慮すると、実行計画策定の段階で、流れが大きく変わったのだろう。岸田政権の「新しい資本主義」の着地点が明確でないことは、原氏のような識者のクレームからも明らかだ。

突如として政策の中心となった「貯蓄から投資へ」というスローガンについては、過去にも改善すべき問題(日本人の高い現預金保有比率)という認識は広がっていたものの、かねて政策対応については、批判的な意見も少なくなかった。

元官庁エコノミストの小峰隆夫・大正大学教授は2020年11月に、ブログ「経済学の基礎で考える日本経済」というシリーズで、「『貯蓄から投資へ』の論理を問う」という論評をアップし、下記のように問題点を指摘している。理想的な状況を目指すうえでは、このような指摘は正しいように思われる。

第1に、(「貯蓄から投資へ」は)やや上から目線的な姿勢が気になる。(中略)家計も馬鹿ではないから、自らの判断で、住宅投資を行い、貯蓄を現預金、証券投資、保険などに振り向けているはずだ。直接金融にしたいというのであれば、家計にスローガンで呼びかけるのではなく、家計が自らの自由な判断で直接金融を選択するような金融環境を整備するのが王道であろう。
第2に、注文を付ける相手が違うのではないかという気もする。家計がリスク性の低いポートフォリオを選択するのは、老後や不時に備える意識が強いからだ。(中略)また、投資を呼びかけるのであれば、家計ではなく企業であろう。日本では90年代末頃から、一貫して企業部門が貯蓄超過という異常な事態が続いている。是正するとすればこちらではないか。

政府がばらまくたびに貯蓄が増えていく

特に、第2の論点について、企業の積極的な分配を促すことが先であるという点は、原丈人氏の指摘と近いように思われる。企業の貯蓄超過という問題もある。

また、日本の貯蓄・投資バランスをみると、赤字を拡大させている主体は政府部門であり、家計や企業の貯蓄は増え続けている。政府が家計への支援を行うたびに家計の貯蓄(消費以外を指す、株式なども含む)が増え続け、特にコロナ禍の下では消費機会がなかったので貯蓄が強制的に増えてしまっている状況である。

そもそも「資産所得倍増計画」においては「貯蓄」とは何なのか、「投資」とは何なのか、という定義も釈然としない状況だが、おそらく「預貯金」から「株式などリスク資産」という意味で「貯蓄から投資へ」を使っているのだろうとすると、急に「貯蓄」が増えてしまえば、「株式などリスク資産」の比率はなかなか増やせない。

実際に、家計の株式等の保有額は減っているわけではない。したがって、家計は株式等を減らしていたり、投資に対して後ろ向きになっているという感覚はないだろう。むしろ強制貯蓄は今後の物価高で取り崩されるバッファーと考えているかもしれない。「貯蓄から投資へ」と言われてもピンとこない面もあるだろう。

「資産所得倍増」と「賃上げ」の相性は悪い

今回の「貯蓄から投資へ」は「資産所得倍増プラン」と同時に進められることから、事態は一段と複雑である。例えば、「資産所得倍増」には株式投資における配当収益が含まれると予想されるため、企業の株主還元の姿勢が重要となる。

しかし、一方で企業は「分配」の観点で政府から「賃上げ要請」を受けている。企業は「賃上げ」と「株主還元」のどちらを優先すべきか悩んでしまう状況だ。政府は早急にこれらの優先順位をつけなければ、中途半端になってしまう。

この点については、原氏は「資産所得倍増の前に分配政策を」という主張で一貫している。今後、岸田政権がどちらを重視していくかが注目される。本年末までに総合的な「資産所得倍増プラン」の詳細を策定するという。

もっとも、上記策定に際し、いわゆる骨太方針(「経済財政運営と改革の基本方針2022」では、「家計の安定的な資産形成に向けて、金融リテラシーの向上に取り組むとともに、家計がより適切に金融商品の選択を行えるよう、将来受給可能な年金額等の見える化、デジタルツールも活用した情報提供の充実や金融商品取引業者等による適切な助言や勧誘・説明を促すための制度整備を図る」とされるにとどまっている。見える化、デジタル化は重要だが、それ自体で資産形成に大きな変化は期待できない。

これまでの政権運営を考慮すると、賃上げと株主還元にトレードオフの関係がある中で、企業にどちらを優先的に求めるのかについて、あまり明確なメッセージが出てこない可能性が高いと、筆者は予想している。

潜在成長率の底上げとデフレ脱却を同時に

「貯蓄から投資へ」に関して、小峰教授は「家計がリスク性の低いポートフォリオを選択するのは、老後や不時に備える意識が強いからだ」とも指摘している。日本の将来や成長への不安を取り除くこと、つまり、潜在成長率の底上げが重要だという点に疑いの余地はないだろう。

また、筆者は2016年に行った分析(下記参考文献)では、「インフレ期待」も株式投資比率にとっては重要なことがわかっている。

これは、個人投資家に行ったアンケート調査の結果を用いて、株式保有比率(金融資産に対する株式等の比率)を被説明変数とし、インフレ予想(1年、3年、5年)を説明変数とした回帰分析を行ったものだ。

株式保有比率に対して「1年先のインフレ予想」は影響を与えていないと考えられる一方、「3年先までのインフレ予想」や「5年先までのインフレ予想」の回帰係数は統計的に有意にプラスとなった。つまり、「デフレ脱却」によって個人のインフレ予想が高くなれば、自然と株式保有比率は上がってくる可能性が高い。株式は預金や債券よりも「インフレに強い資産」と言われるため、自然な結論である。

むろん、政策によって非合理的な「安全志向(現金・預金志向)」は取り除いていく必要はあり、そのためには成長期待が重要なのである。

最終的には「潜在成長率の底上げ」と「デフレ脱却」の両方が「貯蓄から投資へ」の正しい処方箋といえよう。なお、これらは同時に進んでいくことが望ましいことは言うまでもない。

「デフレ脱却」を優先した現在の金融政策は実質所得の目減りという問題を引き起こし、家計や企業のマインドが低下して潜在成長率に対してネガティブに働いているように見える。

むろん、潜在成長率だけが上がっていくと、供給過剰によってデフレ圧力を強めてしまうという問題もあるのだが、どちらかと言えば潜在成長率の上昇を優先すべきだと筆者は考えている。日本は潜在成長率が高い経済だと人々が考えれば、自ずと「貯蓄から投資へ」も進んでいくだろう。

《参考文献》 末廣徹、武田浩一、神津多可思、竹村敏彦(2016)「インフレ予想が個人投資家の株式保有比率に与える影響―インターネットアンケート調査より―」、証券アナリストジャーナル2016.10

(末廣 徹 : 大和証券 シニアエコノミスト)

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