小林薫×阪本順治「天狗だった30、40代を越えて」
「いつでも辞められる」と思っていた40代
――お二人は30代、40代の頃、どのような姿勢で仕事に取り組んでいましたか。
小林薫(以下、小林):僕は30歳になる直前まで唐十郎氏が主宰する、「状況劇場」に在籍していました。それまで映像の仕事はお声がけいただいて、2~3本は経験していたかな。劇団を退団以降は「しばらく何もしないで生きていこう」と思っていたのですが、偶然お声がけいただいて、映像の仕事をしようと思ったのが30代です。
40代になると出会いがいろいろと増えていって。今思い出すと当時の気持ちや行動が正しいのかはわかりませんが、「いつでも(俳優業を)辞められる。この仕事しか生きる場所がないと思い込むのは、きついかな」と、考えるようになりました。心のどこかに、「俳優業だけしかやらない」とは思わないようになったというか。
俳優業以外にもっとおもしろいことがあったら、職業を変えてもいいのではないか。そんなことを考えていた記憶があります。
――俳優以外におもしろいことが見つからなかったから、続けてこられたということでしょうか。
小林:現実的ではないですが、「革命などが起きてそれどころではなくなってしまったら……」みたいなことは、よく言っていました。「自分は俳優だ」と決めつけること自体が、俳優業に対しても悪影響を及ぼす意識を持っていたのかもしれません。だから、「いつでも足を洗えるぞ」と、思い込もうとする節がありました。
――小林さんの人生は、「四十にして惑わず」という言葉は当てはまらなかったわけですね。
小林:今も惑っていますよ(笑)。今も人生の正解が何かわからない感じで生きています。今70歳ですが、人生はそういうものだと捉えています。
――阪本監督は?
阪本順治監督(以下、阪本):僕は30歳のときに監督デビューをしました(映画『どついたるねん』1989年公開)。公開時は31歳になっていましたけど、30歳の時点で映画は仕上げていて。17歳ぐらいのときから映画監督という生業を意識し出して、助手時代を経てやっとなることができたんです。
30代前半は、天狗になっていた時期ですね(笑)。『どついたるねん』の公開当時は、赤井英和くんは元ボクサーだけど、ボクシングファンが知っている程度で、まだ全国区の知名度がある俳優ではなかった。彼を主演に迎えることはある種、無謀な賭けだったわけです。アイドルを起用した映画が量産されヒットしている時期でしたし。
僕の力ではありませんが、『どついたるねん』は長期公開が実現されて日の目を見るようになり、賞もいただきました(芸術選奨文部大臣新人賞、日本映画監督協会新人賞、ブルーリボン賞作品賞を受賞)。
それ以前も謙虚というわけではなかったかもしれませんが、ボクシング映画はヒットしないと否定されていたなか、「これでよかったんだ」という結果を残せた。自分では成功を手中に収めた感覚を得られたので、鼻高々でしたね。僕が東京で顔を振ると、鼻の頭が大阪にふれると言われるほど、鼻高々でした。
小林:あははははは!
天狗になって、叱られて
阪本:若いからこその勘違いですよね。デビュー作が成功するとスポンサーがついて、連作の機会をいただけるんです。ですが、続けて作品を撮ると少しずつ、デビュー作のようなヒットが出なくなってくるわけです。そうなると、驕(おご)っていた自分に気づき始めて、スタッフにも叱られて。30代後半からは、スタッフにもよく目を留めるようになりました。
僕自身は助手時代、寝ずに仕事をしていたので「徹夜するのが当然」という目でスタッフたちを眺めていたんです。その考え方が少しずつ変わっていった。小林薫さんという名優を目の前にして口幅ったいですが、監督の仕事が100あるとしたら、俳優さんと向き合うのは50。残り50はスタッフと向き合わなければいけないと気づいたんです。
監督とスタッフが一枚岩になった現場を作らないと、俳優さんがカメラの前に立って芝居をしても、おもしろくないし楽しくないからです。しかも、「この組はうまくいっていない」という現実もバレてしまう。それは芝居にも影響するだろうし、不愉快にもなるだろうし、そういうことに気づいて実行し始めたのが、40代からです。
考え方を変えてからも、徹夜になってしまう場合もあります。ですが、彼らの仕事を想像して指示を出すようになりました。「これから片づけに2時間かかり、明日の準備に2時間かかる。たぶん、睡眠は3時間か4時間だな」などと想像したうえで、「ごめん。この日は……」と、伝えるようになりました。今は年齢的に自分のほうが先に疲れるので、徹夜もしなくなりましたが。
思い出すと、恥ずかしい言動ばかり
――30代、40代の頃のご自身に、言ってあげたいことはありますか? 読者の仕事人生の、参考になるかもしれません。
小林:思い出すと、恥ずかしい言動ばかりです。ですが、昔も今もそれほど完成された人間ではないので、仕方がないのかな、と。阪本監督は「天狗だった」とおっしゃっていましたが、僕もそういう面は多々あったかもしれません。30代、40代で一度は“生意気盛り”になっておかないと、というか。
振り返って反省しても、何も生まれないと思うんです。そういう自分を含めて受け入れていかないと。「あのときの自分は間違っていた」と、この年になって言うのはちょっと卑怯な気がするんですよね。若いときとずっと同じ気持ちでいますという意味ではなく、若い頃の自分もある程度背負わないと、という感覚です。
阪本:小林さんのおっしゃるとおりで、僕も「今さら何を言っても」という感じです。ただ、「傷つけられた記憶より、傷つけた記憶のほうが残るよ」という言葉は贈るかもしれません。
小林:僕は、傷つけた側は意外と忘れてしまうと思うんですよね。「そんなこと、しましたっけ」程度の、うっすらとした過去になっている。傷つけられた側は鮮明に覚えているのに。そのギャップがあるので、気づかないうちに人を傷つけている可能性があると捉えておいたほうがいいのかもしれません。
阪本:そうして考えても、30代や40代の読者の方に僕たちが言えることはあまりないかもしれません。読者より先に年齢を重ねた僕にサジェスチョンしてほしいと言われても……できないですね。世代が違いますから。「時代が違う」という現実は連綿と繰り返されてきたと思いますが(小林さんが阪本監督の意見に「うん、うん」と頷く)。
――映画『冬薔薇(ふゆそうび)』のお話も。パンフレット内で主演の伊藤健太郎さんが阪本監督と2人きりで打ち合わせをしたときに、こう語っていたそうですね。「今の僕と仕事をしてもリスクしかないと思うんですが、どうして話を聞いてくれたんですか?」と。それでも阪本監督は、伊藤さんへ渡口淳(とぐち・じゅん)役を当て書きして脚本を執筆しました。
阪本:大前提に、「リスクを避けて映画を撮るのはつまらないよな」という思いがありました。すべての作品にリスクがあるわけではありませんが、『KT(ケイティー)』(2002年公開の、日本と韓国の合作映画)で1973年に起こった金大中事件という拉致事件を取り扱った作品は、韓国では2週間ほどで上映打ち切りになりました。
ネット上では、「反日」とか「売国奴」とも叩かれたんです。ですが、その事態は作品を撮る前から予測できていました。健太郎はそう言ってくれましたが、僕はリスクだと考えませんでしたし、彼を叩く人の矛先が自分にも向くのかもしれませんが、そんなことばかりを考えていたら、映画は作れませんからね。
簡単なことではないですが、作り手が安全な場所にいて作った作品は、個人的にはおもしろくないと思っています。その思いは、観客のみなさんにも伝わると考えてこの作品に挑みました。
©2022「冬薔薇(ふゆそうび)」FILM PARTNERS
6月3日(金)より、新宿ピカデリーほか全国ロードショー
脚本・監督:阪本順治
出演:伊藤健太郎 小林薫 余 貴美子 眞木蔵人 永山絢斗 毎熊克哉 坂東龍汰 河合優実 佐久本宝 和田光沙 笠松伴助 伊武雅刀 石橋蓮司
(内埜 さくら : フリーインタビュアー、ライター)
06/02 11:00
東洋経済オンライン