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豊臣秀吉が「大坂城より力入れて造った城」の正体

豊臣秀吉が賤ヶ岳の戦いの後に築いた大坂城(写真は現在の大阪城)(写真:takapon/PIXTA)
息の長い盛り上がりを見せている「城」ブーム。最近では、寺社の「御朱印」と同じく「御城印」が発行され、人気となっています。城と一口に言っても、古代から近代まで非常に幅広く奥が深いです。今回は秀吉、家康の築城について、新著『人生を豊かにしたい人のための日本の城』を上梓した歴史学者の小和田哲男氏が解説します。
第1回:信長はなぜ作った?意外と知らない「天守閣」の謎

大坂城は小豆島の石を大量に切り出して造られた

秀吉は天正10(1582)年6月2日の本能寺の変の後、山崎の戦いで明智光秀を討ち、清洲会議を経て、山城・丹波両国を手に入れると、山崎の天王山に新しく山崎城を築いている。

この山崎城に天守が建てられていたことは吉田兼見の『兼見卿記』にも記されているが、どのような天守だったかは明らかでない。ただ、「天守台」といわれる北側あたりから瓦がみつかっているので、瓦葺きの天守だったことがわかる程度である。

そして、翌天正11(1583)年4月の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破ると、同年9月1日から秀吉は大坂城築城にとりかかっている。天守が完成したのは同13年4月のことであった。その後も築城工事は続けられている。

注目されるのは、毛利輝元が臣従の礼をとったため、毛利氏を天下普請に動員できたことで、瀬戸内海の船を利用し、小豆島の石を大量に切り出すことができた点である。

こうして秀吉は大坂城を居城とし、朝廷との交渉など、京都に滞在する必要があるときだけ、妙顕寺(みょうけんじ)城を京都の居城としていた。

ところが、天正13(1585)年7月、秀吉が関白に任官したため、関白としての職務を全うするために、京都にも本格的な居城が必要となり、そこで築かれたのが聚楽第(じゅらくてい)である。

工事は天正14年2月21日に始まっている。大坂城の第2期工事と同時併行の形だったので、宣教師の報告によると、秀吉は1カ月のうち10日から15日を聚楽第の工事現場に足を運び、残り10日を大坂城の工事現場で督励していたという。これでみると、聚楽第のほうに力を入れていたことがうかがわれる。

この後、聚楽第は「秀次事件」の後に破壊されてしまうので、地上にその痕跡はないが、東は猪熊(いのくま)通り、西は千本通り、南は下立売(しもたちうり)通り、北は元誓願寺通りで、正方形ではなく、南北にやや長い長方形であった。

全体の西北隅の突き出た部分が北の丸で、そこに天守が築かれていた。その天守の形は三井文庫所蔵の「聚楽第図屏風」によってうかがわれ、望楼式の天守であった。なお、聚楽第の遺構として、西本願寺の飛雲閣、大徳寺の唐門などが知られている。

そのほか、側室である淀殿のために築いた淀城や、天正18(1590)年の小田原攻めのとき、陣城として築いた石垣山城がある。石垣山城も短期間に築いたということで石垣山一夜城の名があるが、臨時の陣城とはいいながら関東ではじめての総石垣の城であった。

肥前名古屋城は驚異的なスピードで完成

この後も秀吉の城づくりは続き、天正19(1591)年10月10日から朝鮮出兵のための前線基地として肥前名護屋城の築城をはじめている。これは翌年4月にはほぼ完成したというので、そのスピードにはおどろかされる。本格的な天守以下、城門、櫓(やぐら)も多数築かれている。

そして、最後の築城となるのが伏見城であるが、なんと異なる伏見城が2つあったのである。秀吉は天正19年暮れに関白職を甥の秀次に譲り、聚楽第も譲ったので、はじめは隠居所として、翌文禄元年8月に築城を開始している。

当初の構想が隠居所だったことは、『多聞院日記』に「伏見において、太閤隠居城を立つるとて、ことごとしき普請」とみえることからも明らかである。このときの城は伏見指月(しげつ)城とよばれている。

ところが、築城途中の文禄2(1593)年8月3日に、淀殿が秀吉の2人目の男子拾(ひろい、後の秀頼)を産んだことで、この伏見指月城の役割が、隠居城ではなくなった。

秀次を牽制する意味もあり、本格的な城づくりとなった。そして、この伏見指月城は、慶長元(1596)年閏7月12日深夜から13日に近畿地方を襲った大地震によって倒壊してしまったのである。

そこで、秀吉は地盤のゆるい、低地の伏見指月城をやめ、伏見指月城より北東およそ1キロメートルの高台にある木幡(こはた)山を新しい城地として、閏7月15日から築城工事がはじまっている。秀吉にとって幸いだったのは、伏見指月城では地震によって建物は倒壊したが、火災にあっていなかったので、伏見木幡山城に再利用できたことである。翌慶長2(1597)年5月4日には完成している。

秀吉は、その後、大坂城と木幡山の伏見城を行ったり来たりしているが、晩年は伏見で生活することが多く、翌慶長3(1598)年8月18日に息を引きとったのも伏見城だった。

江戸城を二十数回にわたって拡張・修築した家康

家康といえば何といっても江戸城である。天正18年(1590)の秀吉による小田原攻め後の論功行賞によって、それまでの駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国から関東8カ国、戦国大名北条氏の遺領への転封で、駿府城から江戸城へ移ることになった。

江戸城は太田道灌の城だったことで有名で、その後、北条氏の小田原城の支城として江戸城があったが、家康は戦国期の江戸城と同じ場所ではあるが、修築といったレベルではなく、全く新しい構想のもとに築いている。

築城工事が開始されたのは天正19(1591)年4月からで、市ヶ谷・四ツ谷・赤坂に至る外郭の堀と門まで完成したのは寛永13(1636)年のことだった。天正19年から寛永13年まで、実に二十数回にわたって拡張・修築工事が進められていたのである。しかも、それは天下普請として続けられていた。家康は、この江戸城だけでなく、駿府城や名古屋城も天下普請によって築かせているのである。

天下普請は何も家康の創見ではなく、すでにみたように秀吉も築城にあたって諸大名に助役を命じていたが、家康の場合が特に顕著だった。そのねらいはいくつかあげられるが、第1は、関ヶ原合戦後、いまだ去就を決しかねている外様(とざま)大名に対し、最終的な服属の決断をせまることになった。つまり、天下普請に応じて助役を務めるか否かが徳川家に対する忠誠心の踏み絵とされたのである。

さらに、第2として、家康が慶長8(1603)年に征夷大将軍に就任し、江戸幕府が開かれると、諸大名にとって、助役に出ることは相当な経費の負担であったわけで、当然のことながら諸大名に金を使わせ、幕府に対して抵抗する財源を無くさせようということも計算されていた。

第3は、それとちょうど裏腹の関係になるわけであるが、幕府財政負担の軽減となったという点も落とせない。

そしてもう1つ忘れてならないのが第4の理由、大坂方封じ込め政策として、大坂城包囲網との関係である。

豊臣政権が復活する可能性もあった

家康が征夷大将軍になったといっても、まだ大坂城には秀吉の遺児、秀頼がいた。家康が亡くなれば、秀頼が関白となり、豊臣政権が復活する可能性もあった。そこで家康は、天下普請で大坂城包囲網づくりを進めている。具体的には、近江膳所(ぜぜ)城、丹波篠山(ささやま)城、近江彦根城、丹波亀山城、それに9男義直のために築かせた尾張名古屋城もその一環とみられる。

彦根城の場合は「徳川四天王」の1人井伊直政の子直勝の城であるが、慶長8(1603)年からはじめられ、伊賀・伊勢・美濃・飛驒・尾張・若狭・越前の7カ国で12大名が助役を命ぜられており、慶長14(1609)年からはじめられた丹波篠山城の場合はさらに多く、西国15カ国で、藤堂高虎・池田輝政・福島正則・加藤嘉明・浅野幸長ら20余名の大名が助役を命ぜられているのである。

家康関係の城の作事奉行として大活躍したのが小堀政一(こぼりまさかず)である。遠江守に任ぜられたので、ふつうには小堀遠州の名で知られている。もっとも、多くの方は、築城家としてよりも茶人としての小堀遠州の方になじみがあるかもしれない。数寄屋造りなど、茶の湯関係の建築で知られ、遠州流茶道の祖であり、各地に庭園を多く残している。

慶長6(1601)年、家康が伏見城を再築するとき作事奉行を務め、以後、駿府城、名古屋城、二条城などほとんどの城の作事奉行を務めている。そして、作事奉行小堀遠州とコンビを組んだのが城大工の中井正清である。中井正清も受領名が大和守だったので、中井大和として知られている。中井大和にふれる前に、城大工の説明をしておこう。

築城を専門とする城大工も誕生

中世において、専業の大工を必要とするような建物は寺か神社である。したがって大きな社寺になると「社寺被官大工」といったような大工集団を抱えており、彼らは寺大工や宮大工などとよばれていた。

また、戦国大名の中には、例えば北条氏のように、社寺被官大工を召し寄せ、これに扶持を与え、鍛冶・大鋸引(おがびき)などとともに抱えるというケースもあり、築城を専業とする城大工が出はじめる。熱田神宮の宮大工で、のち、信長に取り立てられて安土城の建築にたずさわった岡部又右衛門のような例もある。

そうした、寺大工、宮大工から城大工に転身した1人が中井正清だった。

中井正清の父、正吉は、奈良法隆寺大工中村伊太夫に養育されたといわれており、中井家は奈良大工の系譜を引いていたと考えられる。

正清が家康の命を受けてはじめて従事したのは、信憑性の高い史料でみるかぎり、家康の二条城の造営である。以後、すでにみた作事奉行小堀遠州とのコンビで、元和5(1619)年に亡くなるまで、伏見城・江戸城・駿府城・名古屋城の天守の造営にたずさわったことが知られている。

なお、もう1つ城大工として知られる家があった。幕府の大工棟梁甲良(こうら)氏である。

甲良氏の祖とされる宗広は、近江国犬上郡法養寺村の出身で、元来は社寺建築にたずさわり、建仁寺流という技法の伝統を受けついでいたといわれている。宗広の子、宗次が慶長11(1606)年の江戸城改築、さらに翌年の天守の設計に加わり、その子孫は江戸城の建物の造営に従事していた。

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