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駅周辺アクセスは「シェアサイクル」で改善できる

2020年3月14日に常設駅となったJR常磐線のJヴィレッジ駅。駅前にシェアサイクルが置かれている(筆者撮影)

東日本大震災からちょうど10年となる2021年3月11日の朝、JR常磐線木戸駅前にあるホテルで目が覚めた。前日取材した「福島いわき編」に引き続き、被災地の海岸線を公共交通機関でたどって北上してゆく。

福島県浜通り地方のうち、いわき市を除く北部は相馬郡と双葉郡を合わせて「相双(そうそう)地区」と呼ばれる。常磐線で言えば末続まではいわき市で、広野町の広野駅以北に当たる。東京電力福島第一原子力発電所事故の影響を、もっとも被ったエリアであり、10年を経ても放射線被害による帰還困難区域が広がる。

常設駅になった新駅「Jヴィレッジ」

木戸駅前に投宿したので、通り過ぎた区間をフォローすべく、この日はいったん南下する。四ツ倉以北の路線バスも新常磐交通が運行していたが、常磐線より内陸部を通る国道6号線経由のいわき―富岡間の急行バス以外はほとんど運休になっている。住民の多くが避難し、いなくなってしまったのだから、当然か。

まずは、6時22分発のいわき行き始発電車で、1つ南のJヴィレッジ駅へ。3分で到着する。日本初のサッカー向けのナショナルトレーニングセンター「Jヴィレッジ」の最寄り駅として、2019年4月20日に臨時駅として開業。2020年3月14日に常設駅になったばかりの新しい駅である。

Jヴィレッジそのものは広野町と楢葉町にまたがっており、イベント開催時などには特急も停車できる10両編成対応のホームがにぎわうはずだが、周辺に大きな集落はない。むしろ、すぐ近くに見える広野火力発電所をはじめ、大小の事業所が周辺に集まっている。地元の要望により駅を新設した理由は、そちらのほうが大きそうだ。

出張客がこの駅を利用するとすれば、駅へのアクセス手段は送迎の車になるだろう。ただ、「COGICOGIシェアサイクル」との看板を掲げた、自転車も3台置いてある。木戸駅や竜田駅でも見かけたが、電動アシスト自転車のレンタルサービス「ならはsolar e-bike」だ。

Jヴィレッジ駅に置かれたシェアサイクル(筆者撮影)

広野駅東口の駅前広場(筆者撮影)

専用アプリをダウンロードして、クレジットカード決済で支払う。15分ごとに50円と使いやすい料金設定だ。公式サイトを見ると観光客向けをうたっているが、天候次第とはいえ、ビジネスにも使えそうである。ただ、今のところ楢葉町内だけのサービスだ。

Jヴィレッジ7時04分発で、さらに1駅南の広野へ。2011年10月10日から2014年5月31日まで、ここが運転再開区間の北端であったから何回も乗り降りしており、ちょっと懐かしい。従来の広野町の中心部は駅の西側で、駅舎も昔のままだが、東側(海側)には駅前広場とニュータウンが出来上がっており跨線橋で結ばれていた。

広場は2018年3月に完成。ホテルやオフィスビル、病院などが集まっている。また駅から3分のところに2015年、福島県立ふたば未来学園中学校・高等学校が開校した。「復興のカギは人材育成から」との双葉郡各町村の方針によりできた学校で、鉄道でのアクセスも至便。常磐線の利用客増にも資する施策だ。復興へ向けての力強さを感じた。

橋上駅舎には不便な点も

広野7時34分発の原ノ町行きで、再び北上する。7時44分着の竜田で下車。ここも2014年6月1日の広野―原ノ町間の運転再開から2017年10月20日まで、復旧区間の北端であった。2015年1月31日からは竜田―原ノ町間の列車代行バスの運転が始まり、何度も乗り換えている。

橋上駅舎となった竜田駅(筆者撮影)

ただ、2020年12月1日から、線路を挟んで東西を結ぶ自由通路に面した橋上駅舎の供用が開始されており、雰囲気が大きく変わった。木造駅舎は跡形もない。もちろんエレベーターは完備されており、バリアフリーは完璧だ。

しかしながら、各地で見られる現象ではあるものの、改札口と一部のホームが直結していた旧駅時代の簡便さは失われた。駅前広場と原ノ町方面行きのホームとの間は、フェンス1枚で仕切られているだけなのに、いったん上がって改札口を通り、もう一度、降りなければならない。

駅東側ではやはり復興事業による開発が進んでおり、線路を挟んだ東西を結び、津波が再び襲ったとき、避難しやすいようにと整備するのはわかる。だが、融通を利かせてもいいと思う。

竜田から8時24分発に乗って5分で、この地方の中心地の1つ、富岡へ。ここの町内では一部の路線バスが運転を再開しており、駅前広場に待機しているバスもある。ところが、もともと海沿いをゆく路線は廃止し尽くされており、貴重な富岡車庫―堀込間の系統も原発事故に伴い、運休中だ。

富岡駅前に停車する富岡町内の路線バス(筆者撮影)

実は取材直後の4月1日のダイヤ改正で、富岡駅前―大野駅前―浪江駅前―FH2R間を結ぶ新常磐交通の路線バスが運転を始めていた。富岡駅前―FH2R間は4往復、浪江駅前―FH2R間にはさらに4往復が加わり、乗りやすそうだ。なお、FH2Rとは「福島水素エネルギー研究フィールド」の略で、太平洋沿いにある。再生エネルギーを利用した世界最大級の水素製造施設だ。

無料の生活循環バス

取材時は、富岡町の北隣の大熊町が運行している1日7往復(土休日は3往復)の「大熊町生活循環バス」が9時に出るとわかり、乗ってみた。大川原公営住宅経由大野駅までを結ぶルートで、海沿いではないが、運賃は不要で誰でも利用できる。

大熊町が運行する生活循環バス。4月以降、電気バスが導入されている(筆者撮影)

大熊町生活循環バスが発着するJR大野駅(筆者撮影)

富岡でも病院や郵便局に立ち寄るが、路線バスとの競合を避けるため、富岡町内相互間の利用はできない。バスとは言え、車両はタクシー会社からチャーターした大型タクシー(ワゴン車)だ。なお、4月1日からは電気バスが導入された。

終始、乗客は筆者一人であった。大川原地区には大熊町の新庁舎が移転してきており、復興拠点として住宅や商業施設の整備が進んでいる。鉄道駅からは遠く、常磐自動車道の常磐富岡インターチェンジが近い。

路線バスはもちろん、レンタサイクルもそうであるけれど、こうした鉄道の駅や市街地へのアクセス整備が復興へのカギの1つになるとの各自治体の考えは明確で、評価したい。

原発事故後の人口がまだ希薄であるとか、新たに復興市街地を建設したばかりといった事情があるなら、既存のバス会社は路線進出に躊躇するだろう。補助金を出したとしても同じで、ならば行政が自前でまず設定しよう。運賃も低廉にしたところで、収受や精算の手間を考えれば無料のほうがむしろよい。そういう取り組みと見てとれた。

大野からは、再びJR常磐線に乗って北上した。大熊町、双葉町内の公共交通は、2020年3月14日に常磐線富岡―浪江間の運転がようやく再開されたところ。避難住民の帰還を促しはじめ、町の復興に着手した段階だ。論評するにはまだ早い。

新常磐交通の営業エリアは浪江町までで、南相馬市に入ると福島交通がバス路線を持つエリアに入る。ただ、やはり海岸沿いへ向かうバスは、震災以前から廃止が相次いでおり、津波以前に利用客減少が著しかったと見受けられる。貴重な鹿島農協前―烏崎間の系統も朝1本の鹿島行きと午後2本の烏崎行きのみ。完全に通学にしか対応しておらず、旅行者は乗りたくても乗れない。

それだけではなく、鹿島駅前から右田浜、南海老経由舘前を結ぶ系統は、2011年3月12日、つまり震災翌日から長期運休が続いている。南相馬市の資料によると、いずれも大きな浸水被害を出した地域だ。人口が戻っていないのか。先行きは明るくないだろう。津波は海岸から約4km離れた、常磐線の線路付近にまで及んでいる。

旅館街から消えたにぎわい

バスに乗って海沿いを進めない状態であるため、相馬まではJRの普通列車で移動した。相馬営業所―松川浦間のバス路線は今も健在で、比較的運転本数が多い。それでも平日7往復、土曜5往復、日祝日は2往復の運転にすぎない。松川浦は風光明媚な入り江で、観光地として旅館なども建ち並ぶ。けれども、JR相馬駅に近い相馬営業所12時25分発の利用客は買い物帰りの数名と筆者のみ。平日のお昼下がりのローカルバスに乗る層は、どこでもそのようなものだ。

松川浦行きの路線バス(筆者撮影)

松川浦バス停で降りたが、次は2時間後だった。人影も少ない旅館街をひとめぐりしても、にぎわいはまるで感じられない。当てにしていたタクシー会社は廃業していた。震災、原発事故、コロナの影響は三重苦と、実感する。

大地震発生時刻の14時46分は、相馬へ戻るバスの中で迎えた。車窓には更地が広がる。ここも復興はこれからだ。

獺庭行きの路線バス(筆者撮影)

15時に相馬営業所へ戻り、少し躊躇したが、16時05分発の獺庭(おそにわ)行きに乗り込む。数少ない海岸沿いを行く路線であるが、相馬発の運転本数は平日午後に2本(うち1本は学休日運休)にすぎない。そして、終点に着いたところで、相馬行きは翌朝の1本しかない。

先ほど眺めた松川浦を南側からチラッと見て、ひたすら田園地帯をゆく。途中、乗り降りしたのは筆者以外、通勤らしい1人が最初で最後。終点までは約35分。獺庭は内陸へ少し入ったところで、数軒の民家があるだけだった。バスは回送で営業所へ戻ってゆく。筆者は、最寄りのJR鹿島駅まで約5.5kmを1時間かけて歩くしかなかった。

震災や原発事故は大きな被害をもたらした。確かにそれは、地域の衰退に拍車をかけたが、”全滅”に近い海沿いのバス路線の状況こそ、静かに進んでいた人口減少の現れと感じた、東日本大震災10周年の1日であった。

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