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160年前の米国「大統領選」決着後に起きた亀裂

過去には大統領選後に南北分断にまで発展した歴史があります(写真:maystra/PIXTA)
1月20日の大統領就任を控える中、混沌とするアメリカ情勢。そのアメリカの歴史をひもといてみると、過去にも大統領選挙の決着がついてから混乱が生じ、ついには南北分断にまで発展した事例があります。なぜ争いは生じ、またそれはいかなる展開を見せたのでしょうか?『宗教問題』で編集長を務める小川寛大氏が上梓した『南北戦争――アメリカを2つに裂いた内戦』を一部抜粋・再構成してご紹介します。

1860年11月6日に行われた大統領選挙で、民主党は共和党に敗れた。共和党の政治家として初めて大統領の椅子を手に入れた男の名を、エイブラハム・リンカーンという。

内戦時代のアメリカを見事に取り仕切り、終戦直後の劇的な死とともにアメリカ政治史上の伝説となる彼だが、実はこの段階では、さまざまな運に助けられて当選した、実力未知数の人物だと多くの国民からは思われていた。それくらい、民主党の敗北には自滅のにおいが付きまとった。

全国に基盤を有していた民主党

民主党は共和党と異なり、全国に基盤を有していた政党だった。当時の民主党の顔役で、リンカーンのライバル的な存在だった合衆国上院議員スティーブン・ダグラスは、彼なりの使命感で、奴隷制をめぐる激しい議論に揺れる祖国と自党を救おうと奔走していた。

しかし多くの人、特に南部民主党の関係者は、彼の言動から中途半端な日和見主義しか感じ取れず、ダグラスはさまざまな方面から裏切り者扱いされていく。

特にダグラスの失点となったのは、1854年に彼が議会を通過させたカンザス・ネブラスカ法だった。当時設置されたカンザス準州、ネブラスカ準州に奴隷制を導入するか否かの議論のなかで、ダグラスは奴隷制の導入は北部、南部といった地理的条件によるのではなく、住民たちの投票によって決めればいいと主張。要するに、南北の対立は住民主権の名のもとに緩和されるはずだと期待したのである。

しかし実際に起こったのは、特にカンザス準州に武装した奴隷制反対派、擁護派がなだれ込み、「敵方の頭数を減らせ」と言わんばかりの私戦であった。カンザスは「流血のカンザス」と呼ばれる無法地帯と化し、南北戦争の呼び水、モデル・ケースになったとも指摘されている。

この騒動は後、1859年10月16日、カンザスで数多くの殺人を犯して名を売った過激な奴隷解放運動家、ジョン・ブラウンがバージニア州ハーパーズフェリーの軍の武器庫を襲撃して逮捕、処刑される事件にもつながり、一層南北の対立を深めただけで終わった。

このような結果、民主党は北部民主党と南部民主党に分裂して1860年の大統領選を戦わざるをえなくなった。北部民主党は前述のダグラスを候補とし、南部民主党は元合衆国副大統領のジョン・ブレッキンリッジを候補に擁立する。

当然のこととして民主党の票は分散し、共和党に一致して立ち向かえなくなった。この選挙にはジョン・ベルやサム・ヒューストンといった当時の政界の長老が組織した立憲連邦党という新党も候補を立て、南北双方に「ひたすら妥協を」と訴えて回ったが、もはやそのような穏健な主張が存在感を示せる段階は通り越していた。

かくなる流れの末に、南部はアメリカ合衆国からの離脱を決断した。リンカーン自身は共和党内の穏健派に属し、南部の奴隷制の即時廃止といった主張の持ち主ではなかった。しかし南部民主党は、共和党の大統領が誕生してしまったことそれ自体が、奴隷制解体、ひいては南部社会の崩壊の序曲だと受け取った。

リンカーンの大統領就任は、1861年3月4日に予定されていた。南部民主党はその前に、何かをなさねばならなかった。そして1861年2月初頭、彼らはアラバマ州モンゴメリに新国家をつくるため集結したのである。

第二次独立戦争と呼ぶ習わしがある

戦争当時から現在に至るまで、南部には南北戦争のことを「第二次独立戦争」と呼ぶ習わしがある。モンゴメリに集結した南部民主党の政治家たちの頭の中にあったのは、まさしく1775〜83年にかけてのアメリカ独立戦争だった。

アメリカはもともとイギリスの植民地であった。しかし「代表なくして課税なし」のスローガンに代表されるように、イギリスがあまりにも横暴な圧迫をアメリカ植民地に加えるので、当時の植民地人が立ち上がり、イギリスからの独立を勝ち取ったのである。

南北戦争開戦直前、南部人たちはまさに、独立戦争当時のアメリカ人たちに、自らを重ね合わせていた。つまり、現在の北部(共和党)は南部(民主党)の古来の制度(奴隷制)を誹謗し、地域全体に無用な圧迫を加えているので、アメリカ合衆国という枠組みから独立する――これがアメリカ連合国(南部連合)発足の理論であった。

かくして1861年2月4日から17日にかけて行われた南部諸州のモンゴメリ会議は、彼らの新国家、アメリカ連合国を樹立するための暫定憲法を作成し、発表する。そして彼らは自分たちの暫定大統領として、ミシシッピ州選出の合衆国上院議員だったジェファーソン・デービスという男を選出するのである(後、正規の大統領に就任)。

ただし、この時に制定された暫定憲法のほとんどは合衆国憲法の引き写しで、必ずしも新国家の目標を明確に表していたものでもなかった。かつ、エモリー大学教授で軍事史家だったベル・アービン・ワイリーの指摘するように、この会議の議事は非公開で、デービスの大統領選出は「満場一致」で決まったとされてはいるものの、「どのような事件や力が作用してデービスの当選となったかを、歴史家が再現するのは難しい」(『南北戦争の歴史』より)

アメリカの南北が分断される

しかも、デービス自身はモンゴメリ会議のメンバーではなく、自分が新国家の大統領になったということを、地元ミシシッピで知らされた。そのとき彼は、合衆国から離脱した地元のために、新しい州の軍事組織を立ち上げている最中であった。

デービスはウェストポイント陸軍士官学校の卒業生で、1846〜48年の米墨戦争に従軍。その後の1853年に成立した民主党、フランクリン・ピアース大統領の政権で陸軍長官を務めた、自他ともに認める軍事通であった。彼は南部の新国家には軍人として貢献しようと思っていたところ、突然大統領職を提示され、当初はかなり戸惑ったらしい。

前述のように、南部連合がなぜデービスを首班にすえたのかという点には、不明な部分が多い。ただ多くの歴史家たちは、デービス本人は極めて穏健な紳士であるため、独立直後の新国家の調整役として、また合衆国との戦いを見越し、軍事指導者として期待されたのではないかと指摘している。

このような事情からもわかるように、新国家アメリカ南部連合国の独立は、南部の政治家、つまり南部の上流階級たちだけが勝手に集まって決めたことで、民衆全体の要求で決まったことではなかったのだ。

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