東池袋の住宅街に建つ「美しすぎる書斎」を探訪

豊島区にある鈴木信太郎記念館を訪ねました(撮影:梅谷秀司)
東京23区だけでも無数にある、名建築の数々。それらを360度カメラで撮影し、建築の持つストーリーとともに紹介する本連載。第18回の今回は、豊島区東池袋にある鈴木信太郎記念館を訪れた。なお、外部配信先でお読みの場合、360度画像を閲覧できない場合があるので、その際は東洋経済オンライン内でお読みいただきたい。(文中敬称略)

フランス文学者の書斎

フランス文学者の書斎というと、どんなイメージのものを思い抱くだろうか。フランス語の原書や学術書などが書棚に並び、室内も西洋風の設えで、家全体にもアカデミックな雰囲気が漂っている……というようなことを想像するが、東京・豊島区の東池袋というちょっと意外な場所に、まさに“そのもの”という学者の家が遺っている。

記念館の外観(座敷棟)(撮影:梅谷秀司)

20世紀前半の日本のフランス文学研究の黎明期に活躍し、戦後に東京帝国大学(現在の東京大学)教授を務めた鈴木信太郎の住居だ。

建物は1928(昭和3)年築の書斎棟、戦後の1946 (昭和21)年に建てられた茶の間・ホール棟、そして1948(昭和23)年に埼玉県北葛飾郡の鈴木本家から移築した座敷棟の3つの部分から成っている。なかでもいちばんの見どころはこの家の主・鈴木信太郎がフランス文学に心酔し、研究を続けた書斎だ。

書斎の内観(編集部撮影)

鈴木信太郎(1895~1970年)は、マラルメ、ボードレール、ヴェルレーヌといった象徴主義のフランス詩の翻訳者、研究者として知られる。彼よりひと世代上の上田敏、永井荷風らは明治日本で初めてフランスに渡り、原書からフランス文学を日本に紹介した第一世代だが、鈴木はそれに続く世代である。

書斎にあるステンドグラス(撮影:梅谷秀司)

その書斎には重厚な作り付けの書棚が並び、自身がデザインしたステンドグラスからは光が差し込み、暖炉風のガスストーブやアールヌーボー調のデザインの照明器具などが設えられ、まるでパリの邸宅の一室のようである。

ステンドグラスに記されているのは、マラルメの「世界は一冊の美しい書物に近づくべくできている」という言葉だ。蔵書約7000冊は現在獨協大学に所蔵されているが、この記念館にも約1万冊の本が収蔵されている。

神聖な場所であった「書斎」

信太郎にとってこの書斎は仕事部屋でもあり、友人たちと集うサロンでもあった。一方、家族にとっては「神聖な場所」であり、子どもたちは出入りを禁じられ、用があるときはノックをして「お入り」と言われるまで中に入ることはできなかったという。

1928年という、まだ一般の家には鉄筋コンクリート造が珍しい時代に、この書斎が建設されたのは、それ以前に、信太郎が二度にわたって大事な書物を火災によって失う苦い経験をしていたためであった。

1923(大正12)年の関東大震災では、東京帝大の図書館などが消失し、貴重な学術書が灰となった。その後、大正末に信太郎がフランスに私費留学した際には、パリの著名な古書店であるシャンピオン書店などから買い集めた約1000冊の貴重な書籍を船火事で失っている。フランスで心血を注いで買い集めた当時入手困難だった本をすべて失ったことで信太郎はノイローゼに陥ったという。

そうして、学者にとって何よりも大事な財産である本のためには、耐火構造の書斎・書庫が不可欠であると確信。直ちにその計画に着手し、1928年に書斎は竣工した。その甲斐あって、1945(昭和20)年4月の空襲で一帯が焼亡した際には、同じ敷地内にあった木造の住居は全焼してしまうが、この書斎だけは焼失を逃れている。

信太郎がこのような書斎を建設することができたのは、実家が埼玉県北葛飾郡富多村下吉妻(現在の春日部市)の大地主であり、長男として、生まれながらにしてこの莫大な財産を相続することになっていたからでもあった。

また、信太郎の実家は、祖父の代から神田佐久間町で米穀問屋を営むようにもなっていた。父は二代目で、家業を長女夫妻に委ね、1918(大正7)年、東京郊外であったこの東池袋に移った。

当時の住所は北豊島郡巣鴨村。現在は地下鉄丸ノ内線の新大塚駅がすぐ近くだが、その頃は山手線の環状運転も始まっていない時代。市電(都電)の大塚辻町が最寄りの停留所だった。

この家に移った当時の信太郎はまだ東京帝国大学の学生だったが、翌年には深川木場の材木商の長女と結婚し、大学を卒業。2年後には東京帝国大学文学部の講師となっている。

座敷棟の縁側(編集部撮影)

空襲で焼け残ったのは書斎棟のみ

1945年の空襲で焼け残ったのは書斎棟のみ。一家はその後、書斎に畳6畳を敷いて暮らしていたが、生活空間の再構築を試み、翌1946年には、書斎と接続する敷地に、玄関ホール、茶の間、台所、トイレ、風呂を建設する。

当時の東京は極度の物資不足で、新築建物の建築面積や資材が制限されていたため、あちこちから資材をかき集め、15坪のこのスペースを建てるのが精いっぱいだった。

さらに1948(昭和23)年には、埼玉県春日部市の鈴木本家から、明治20年代築の座敷と次の間を移築。1948年にもまだ建築の制限令は続いていたが、移築はその対象外であり、この移築は春日部に疎開していた信太郎の母を呼び戻すためでもあったと考えられる。

以上のような歴史とストーリーのあるフランス文学者の家だが、現在のような形で遺り、保存公開されているのは、信太郎の子息である2人の学者の存在があったからだろう。長男の鈴木成文は建築計画学を専門とし、東京大学名誉教授、神戸芸術工科大学長を務め、次男の鈴木道彦はプルーストなどのフランス文学を専門とし、一橋大学、獨協大学名誉教授を務めている。

信太郎が1970年に75歳で亡くなった後、この家には信太郎の妻・花子と成文夫婦が暮らした。その後、成文は建築の専門家らしく、受け継いだ家ができる限り元の姿に保つように住み続け、現在のような形でこの家が遺った。

生前から建物を後世に残すための準備

成文は1989年に神戸芸術工科大学の教授になり、その3年後に妻を失ったが、不在がちになる自宅に教え子や留学生を下宿させ、2010年に82歳で亡くなるまで大切にこの家を保ち続けた。

生前からこの建物を後世に残すため、文化財登録を目指し、NPO法人による維持管理の準備を進めていた。そして弟の道彦は、その遺志を継いでこの土地と建物を豊島区に寄贈した。

フランス文学研究草創期の学者の書斎、戦災に遭いながら戦後復興した激動の昭和期の住宅ということでも学術的な価値のある建物だが、親子二代、兄弟の学者一家が暮らした家としてこの家を見ると、この建物にまた別の存在価値を感じる。

そして今でもこの書斎の空間に足を踏み入れると、信太郎がフランス文学や書物に注いだ深い愛情と情熱が伝わってくるようだ。

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