「ジョーカー」に見えたお笑い芸人の格差社会

映画『ジョーカー』は「笑い」がテーマにもなっていて、コメディアンを夢見た主人公と、日本のお笑い芸人にはある共通点が見受けられる(YouTube:「JOKER - Final Trailer - Now Playing In Theaters」/https://www.youtube.com/watch?v=zAGVQLHvwOY)

映画『ジョーカー』が世界的な大ヒットを記録している。ヴェネツィア国際映画祭ではアメコミ映画として初の金獅子賞を受賞しており、アカデミー賞では過去最多の16部門ノミネートを果たした。『バットマン』の悪役として知られるジョーカーが、いかにして悪のカリスマとなったのか。この映画ではその前史が描かれている。

本作はすでに識者によってさまざまな切り口で語られているが、私はこれを一種の「芸人映画」として楽しんだ。芸人志望の男を主人公に据えて、笑いとは何か、人を笑わせるとはどういうことなのか、笑われるのと笑わせるのはどう違うのかなど、笑いの本質を掘り下げるような作品だと思ったのだ。本稿ではそのような視点から、作品の内容をひも解いていきたい。

主人公の夢は「プロのコメディアン」

【以下、映画「ジョーカー」のネタバレを含みます】

主人公は、ピエロの姿で大道芸人として働くアーサー・フレック。病気の母の介護をしながら暮らしている純粋でまじめな好青年だ。彼はスタンダップ・コメディアンになることを目指して、日々ノートにネタを書き留めていた。だが、「ところ構わず発作的に笑ってしまう」という病気を抱えているせいで、他人からはいつも疎まれていて、芸人としてもさえない日々を送っていた。

彼の心の支えは母親だけ。「どんなときも笑顔で人々を楽しませなさい」という母の教えを受けて、アーサーはコメディアンを目指していたのだ。

これは私の推測だが、彼が人を笑わせる仕事を選んだ理由は、「笑い」には希望があると感じたからではないか。発作的に笑ってしまう彼にとって、他人と関わる社会生活は厳しくつらいものだろう。人前で突然笑い出したりすれば、驚かれたり、気味悪がられたり、怒られたり、嫌われたりするだろう。

そんな他人の冷たい反応の中には、「笑い」も含まれていたはずだ。その多くは困惑の苦笑いだったり、嘲笑だったりするのだろうが、それでも自分の発作が「笑い」というポジティブな反応を引き出したこと自体が、何も与えられてこなかった彼の心を幾分か慰めたのだろう。すがるものが何もない日々を送ってきたアーサーは、目の前の「笑い」に希望を見いだした。

笑いものにされるだけの人生をひっくり返すには、笑われるのではなく、笑わせる人になればいい。彼はそこで決意をしたのではないかと思うのだ。

実際、私が知る限りでも、いじめられっ子だった人が芸人になることがある。いじめられっ子だったある芸人が言っていたのは「学生時代にいじめられていたときに、それを自分が認めたら本当のいじめになってしまうから、笑ってツッコむことで『イジり』だと思うようにしていた」ということだ。過酷な現実を自ら笑い飛ばすことで、笑われている人ではなく、笑わせる人になることができる。それが彼らにとっての救いだったのだ。

だが、現実はそんなアーサーをさらに奈落の底へと突き落とした。同僚から護身用に拳銃を持たされていた彼は、小児病棟で仕事をしているときにそれをうっかり落としてしまった。この事件が原因で会社をクビになり、失意に沈む彼は、電車の中で出会ったガラの悪い3人の証券マンを射殺してしまった。純粋だったアーサーが悪の道に進んだ瞬間だった。

大物テレビ司会者から「スベリ芸」扱い

その後、警察の捜査の手が及び、追い詰められたアーサーに一筋の光明が差した。彼が憧れていたテレビ司会者のマレー・フランクリンの番組の中で、アーサーがステージで漫談をする映像が紹介されたのだ。ただ、純粋に面白いと評価されているわけではなく、「スベリ芸」のように扱われていた。舞台上でも発作的に笑ってしまう彼の奇行が、物珍しいものとして紹介されていたのだ。

この番組をテレビで見ているときのアーサーの表情が忘れられない。うれしいでもなく、悲しいでもなく、悔しいでもない、何とも言えないような表情をしていた。アーサー役のホアキン・フェニックスの演技が最も光っていた場面の1つだ。

憧れの人にテレビで紹介してもらえたのはうれしい。だが、明らかにスベリ芸としてさげすまれているのは悲しい。それに、ここでチャンスをつかんだとしても、すでに殺人を犯した自分にはコメディアンとしての未来はない、という諦めの気持ちもある。それらすべての複雑な感情を含んだ、冷めたような表情が印象的だった。

テレビの中で格上の芸人が格下の芸人を容赦なくイジり倒す。これは、日本のお笑い界でも一般的に見られる光景だ。『M-1グランプリ』などのコンテストで活躍したりしてチャンスをつかんだ若手芸人は、先輩芸人が仕切るバラエティー番組に出ると、まずは笑わせるのではなく笑われる立場になる。

それまでお笑いライブでどれだけ面白いネタをやったり、面白いトークをしたりしてきた実績のある芸人でも、テレビに出始めの頃は、誰にも知られていない無名の芸人にすぎない。そこに待ち受けているのは、芸歴も実力も知名度もはるかに上の先輩芸人ばかりだ。

売れない無名芸人の悲哀

先輩芸人は後輩芸人を容赦なくイジり倒し、笑いものにする。それは後輩芸人の面白さを引き出したいという愛情の表れでもあるのだが、表面上は「いじめ」のように見えることもある。

でも、これはある程度はやむをえないことなのだ。一般に顔と名前が知られていない芸人が、普段ライブでやっているように「皆さんおなじみの僕です」という感じで何らかのパフォーマンスを始めたとしても、多くの視聴者には興味を持たれないからだ。

もともとテレビに出ている芸人は、すでに十分な信用を得ている。だから何かを言ったときに素直に笑ってもらえる。その土壌がない若手芸人は、まずはドッキリ番組で落とし穴に落とされたり、トーク番組で先輩芸人にイジられたりして、笑いものになるしかない。

人を笑わせたいと思い、ライブで多くの観客を笑わせてきた芸人が、いざテレビに出るようになると、笑わせるのではなく笑われる側に回ることになる。これがお笑い界の現実だ。

アーサーの出演した番組が話題になり、彼はマレーのトークショーに出演することになった。生放送中に彼は、証券マンを殺したのは自分であると告白して、司会者のマレーをその場で撃ち殺した。他人を笑わせようとして努力してきたつもりの自分が笑われたことに我慢ならなかったのだ。

このとき、アーサーは狂気の人「ジョーカー」となり、口角を大きく上に切り裂くようなメイクをしていた。これは、彼が病気で発作的に笑ってしまう人ではなく、自ら笑う人になるという決意表明でもある。もう二度と笑われないためには、自分が笑う人になればいい。

こうして彼は、他人を笑わせる人になる代わりに、自ら笑う人になった。この世界を、社会を、人々を、呪うように笑う。いわば、最高のコメディアンになることを諦めた彼は、最高の観客になった。この腐った社会をコメディーの舞台に見立てて、最前列の観客としてそれをつぶさに見て、笑い飛ばす側に回ることにしたのだ。「俺の人生は悲劇だ。いや、違う。喜劇だ」というセリフはそれを象徴している。

お笑い界も「格差社会」だ

『ジョーカー』は格差社会を描いた映画だと言われる。実はお笑い界も格差社会であり、笑いをテーマにしたこの映画では、その残酷な現実も描かれている。有名な芸人ほどウケやすく、無名な芸人ほどウケにくい。無名な芸人が有名になるためには、この絶望的な格差を前提にして、それを自らの力で覆していくしかないのだ。

そもそも笑いとは権力的なものだ。笑いという営みを通して、笑わせた人は笑ってしまった人を屈服させている。この弱肉強食の戦いに敗れたアーサーは、コメディーの世界を捨てて、悪の道を極めるダークヒーローになった。彼はジョーカーになり、「どんなときも笑顔で」という母の願いをこのうえなく皮肉な形でかなえてみせたのだ。

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