小学校の「道徳教科書」はこんなにも危ない

道徳が教科となったが、座学だけの「押し付け」教育で子どもたちはいったい何を学べるのだろうか(写真:msv/PIXTA)
送りバントの指示に背き、決勝二塁打を放って甲子園出場に貢献した星野君。しかし、監督の裁断は星野君の甲子園大会出場停止だった(6年生の教科書に掲載された「星野君の二塁打」)――。今年度から教科となった道徳で使われている教科書における問題について『危ない「道徳教科書」』を書いた京都造形芸術大学の寺脇研客員教授に聞いた。

教科書を使うと座学になりがち

──安倍政権下で道徳が国語、算数などと同じく教科になりました。

道徳の目的は子どもたちに公共のことを考える心を持ってもらうこと。公共も時代とともに変わる。

日本は人口減少により、今の子どもたちは社会に出ると高齢者、障害者、外国人と働くことが当たり前で、さらにAI(人工知能)も加わる。新しい社会の規範を考えるうえで、道徳教育は重要だ。運動会など行事の準備に充てられ、従来の「道徳の時間」はコマ数を確保できなかった。教科化で年35時間が必須となったことは評価できる。

──ただ、裏腹な問題があります。

教科になると、学習指導要領に書いてあることを網羅した教科書を授業で使う義務が生じる。ところが、道徳教育が目指すものは教科書を読むより、体験によって身に付くことが多い。4年生の教科書の「しょうぼうだんのおじいさん」は、消防訓練に励むパン屋のおじいさんを見て感謝の気持ちを抱くという話。これなら、実際に地域の消防団に話を聞きに行ったほうが効果は大きい。子どもたちに実物を見せ、自分の頭で考え、自分の言葉で語れるようにするのが大事なのに、教科書を使うと教室での座学が主体になりがちだ。押し付けられたことはすぐに忘れる。

──しかも、その教科書の中身が練られていません。

「星野君の二塁打」は2社の教科書に掲載され、うち1社はタイトルのそばに「よりよい学校生活、集団生活の充実」と表記されている。これを前提に子どもたちに議論させれば「監督の指示は絶対。それを守らなかった星野君が悪い」といった意見が大半になるだろう。

いかなるときも監督の指示は絶対なのか、という疑問は出にくい。道徳の教科化を打ち出した首相直属の教育再生実行会議ですら、押し付けではない、考え、議論する道徳と言っているのに、これではそうならない。むしろ、監督に不正行為を命じられた、日大アメフト部「宮川君のタックル」のほうが「集団の中での自分の役割」を考える教材に適している。

──原典がかなりはしょられているそうですね。

初出は1947年で、その後国語の教科書や教科化前の道徳の副読本にも掲載されている。書かれた時期やカットされた場面を考えると、「みんなで決めたことは意見が違っても守ろう」という「民主主義の原理」を伝えることが作者の意図だったと思うが、教科書ではそうした部分が省略され、自己犠牲の必要性が強調されてしまった。そもそも、70年も前に書かれた高校野球の話を小学6年生の教材とすることに無理がある。

逆に新しいニュースを盛り込んで不適切な内容になったのが、ある教科書の補充教材「下町ボブスレー──町工場のちょう戦──」だ。下町ボブスレーをジャマイカチームが冬季五輪で採用と書き、乗り込んだ安倍首相の写真まで入れたが、実際は使われなかった。

教科書を使うほうが「楽」

──なぜこんなことに。

道徳の授業時間数を確保するための手段にすぎない教科化を急いだからだ。検定教科書は編集開始から採択までにほぼ3年かかる。道徳は新しい教科なので5年は必要だったが、授業の開始を急いだため、2020年度の新学習指導要領実施から2年前倒しになり3年しかなかった。

寺脇 研(てらわき けん)/1952年生まれ。東京大学卒業後、旧文部省入省。ゆとり教育のスポークスマン的役割を務め、しばしば批判の矢面に立つ。退官後も教育、文化に関する発言を続け、著作も多数。2009年から高校生の学習支援プログラム「カタリバ大学」の学長も(撮影:今井康一)

結果として過去の副読本などからの流用が多い。小学校の教科書を作る会社の全社が採用した話はすべて、2014年に文部科学省が公表した『私たちの道徳』に掲載されている。

──小学校では教科化されて1学期が過ぎました。

現場で聞くかぎり、教室で教科書を読むのが主体だ。楽だからね。少なくとも、すばらしい授業ができたという話は聞かない。

──2019年4月からは中学校でも教科としての道徳が始まります。今ある教科書の使用を前提にした軌道修正は可能でしょうか。

教科になった以上、使用義務があるので教科書を無視はできないが、算数と違って網羅的に教科書の内容を教える必要はない。なので、その中から教師が汎用性の高い、子どもたちの議論が深まりそうな話を選んで授業をすればいい。そして、それ以外は地域の人に手伝ってもらう。学校に招いて地域の昔話をしてもらうとか、反対に学校を出て話を聞きに行くとか。

子どもとおじいさんが架空の町を散歩し、いろんな出会いや発見をする話を読んで、はたして「伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度」が養われるだろうか。地域の伝統を教え、愛着を持ってもらいたいなら、学校を出てどの地区にはどんな店が多いか調べ、それがなぜかを考えたほうがずっといい。実際、文科省も教科書以外の教材、地域に密着している教材、映像教材、体験の利用を提唱している。

美意識や善意の判断基準を育むには

──週2時間の「総合的な学習の時間」との連携も提案しています。

中学生の多くはこの時間に職場体験をしている。たとえば、お店でお客さんの対応を任されたとする。質問され、よくわからなくても何か答えたほうがいいのか、待たせてでも調べて答えたほうがいいのか。これを道徳と結び付けると責任感に考えが及ぶ。

危ない「道徳教科書」

日本の技術のすごさだって、地域の職人さんに話を聞き、実際に技を見せてもらえばいい。岐阜県の小学校では総合的な学習の時間を使って鵜飼いについて学んでいるが、鵜匠だけでなく伝統技術の粋である鵜飼い舟を作る舟大工にも話を聞きに行っている。

──ただでさえ疲弊している教師の負担が増しませんか。

外の人と一緒にやるのは確かに大変だ。ただ、教師というのは「この子たちはこうやれば腹落ちするんだ」とわかればそれくらいの努力はするし、学校全体で取り組めば個々の負担増は薄まる。

これは小中学生の子どもがいる、いないに関係ない、すべての人にとって大事な話だ。「法に触れなければ何をしてもいい」と考える人が増えればどうなるか。また、「なぜ人を殺してはいけないのか」と子どもに聞かれ、どれだけの大人がちゃんと答えられるのか。美意識、善悪の判断基準、節度といったものは上から強制できない。それを育むことができるのは教育なのだ。

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