免許取得に「試験コース」が必要になったのはいつからか?

試験コース導入の謎

試験コース(画像:写真AC)

試験コース(画像:写真AC)

 筆者(昼間たかし、ルポライター)は前回、「免許センターがやたら「アクセスの悪い場所」にある根本理由」(2024年8月25日配信)という記事を書いた。記事の要約は次のとおりだ。

・運転免許センターは市街地から離れた場所にあり、アクセスの悪さが全国的な悩みとなっている。
・日本全国には運転免許試験センターが94か所しかなく、都道府県ごとに設置数は均等ではない(東京都には3か所、千葉県には2か所、神奈川県と埼玉県には1か所しかない)
・市街地から離れている理由は、広大な土地が必要であり、交通の利便性よりも土地確保が優先されたため。
・1987年に埼玉県が鴻巣市に免許センターを開設した背景には、農事試験場跡地の活用があった。
・当時、免許の更新手続きは煩雑で、免許証の即日交付が求められたが、広大な土地を持つ施設が必要だった。
・免許センターでの業務集約により、更新手続きが効率化され、即日交付が可能になったが、そのシステムが整うまでには時間がかかった。
・現在では、多くの都道府県で警察署でも即日交付が可能になっている。

 さて、前回の記事を書いていて気になったのは、運転免許試験の仕組みだ。免許取得に

「試験コースが必要になった」

のは、いつからなのだろうか。日本で全国統一の運転免許制度ができたのは、1919(大正8)年に「自動車取締令」が施行されたときだ。それ以前は、各道府県が独自に運転免許制度を定めていた。例えば、東京府では1907(明治40)年に警視庁が

「自動車取締規則」

を施行し、運転免許制度を導入している。

 1919年に全国で統一された運転免許制度だが、統一されたのは免許の交付だけだった。免許を交付するための試験については、道府県ごとに任されていたため、試験の内容や基準は地域ごとに異なっていたのだ。

試験内容の地域差

府中運転免許試験場の位置(画像:OpenStreetMap)

府中運転免許試験場の位置(画像:OpenStreetMap)

 具体的に試験内容はどのように異なっていたのか――。

 1926(昭和元)年に発行された『九州地方自動車界之羅針』(宮谷満太郎編、極東モーター社九州支局)には、九州各県と山口県の試験制度が詳しく記載されている。次のとおりだ。

・福岡県:年間5~7回実施。学科試験合格後に実技。実技では左右の前進後進と八の字クランクの前進後進などを実施
・佐賀県:年間3~4回実施。福岡県と同等だが、5~10マイル程度の郊外運転が加わる
・長崎県:出願者に対して必要に応じて呼び出し、試験を実施。実技では市内市外の運転を実施
・鹿児島県:試験は年2回。実技では一定コースを回った後、警察官が数名同乗し一般道路を運転
・宮崎県:所轄警察署に願書を提出し受験。方向転換や車庫入れに合格後、市内外運転
・大分県:毎月実施。学科試験に合格した者のみ実技試験。実技後に体格検査がある
・山口県:最寄り警察署で学科試験を受験し合格した場合、県庁で実技試験を実施する

このように、試験の内容は非常に多岐にわたっていた。大分県での体格試験については詳細が不明な点が多いが、

「2人の医師によって体格検査をされる故にトラホーム其の他伝染病患者は其迄に治癒しておくということが必要である」

と説明されている。この検査がどのような基準で行われていたのか、非常に興味深い。

 また、当時は試験専用のコースが明確に設けられていなかった。この状況は東京でも同様で、1936年に鮫洲に実地試験場が設置されるまで、常設のコースはなく、試験はさまざまな場所で行われていた。

運転免許試験の変遷

免許更新の講義イメージ(画像:写真AC)

免許更新の講義イメージ(画像:写真AC)

 宮里良保の著書『受驗自動車學と試驗問題解答集:必ず運轉手になれる』(誠文堂出版、1928年)には、当時の運転免許試験の状況が次のように記されている。

「大正十一年前の警視庁の試験方針は、実地運転試験が先に行われ、学科はその合格者のみに課したものである。当時の実地試験場は芝浦埋立地であって、主として地面に縄でカーブを引き、それの中を前進又は逆行をなさしめ、市街運転の試験は一寸しか行われなかった」

 この記述によると、警視庁が運転免許制度を導入した当初、実地試験は受験者が自分の車を持参して警視庁前に集合し、警察官が同乗して市街地を運転する形式だった。免許を持っていない受験者が車の持参を指示されるのは不思議な話だが、当時はそれが常識だった。また、車を持参できない場合には、有料で貸し出す制度も設けられていた。

 しかし、その後は試験コースでの試験が中心になり、芝浦の空き地を利用するようになった。ここでも固定された場所ではなく、当時まだ多くの空き地があった芝浦の埋め立て地の空いているところを使っていたようだ。関東大震災(1923年)の後、芝浦の空き地は資材置き場として利用されるようになったため、その後は代々木練兵場の一部を借りて試験が行われるようになった。

 1927昭和2)年に出版された『各府県別自動車運転手試験の実際と受験法』(東京自動車学校受験指導会)によれば、東京都では毎日実施され、実地試験は代々木練兵場近く、学科試験は警視庁庁舎内で行われていた。この時代、多くの府県では不合格の場合、次回の出願までに2〜3か月の待機期間が設けられていた。

 本格的な試験コースが設けられたのは1936(昭和11)年のことだ。石川静夫の著書『自動車の知識とドライヴ術』(大阪屋号、1936年)には次のように記されている。

「昭和11年1月警視庁実地試験場の新コースが品川鮫洲に作られた。見取り図に示す五徳コースの外周は幅員約五間路(九米)でかこまれ、其の中に隅角、鋭角路、T字路、十字路、Z型二重隅角、車庫入、S型炉、坂路道等が配置されている」

 この本には全体の見取り図も掲載されており、信号や電車の軌道も設けられた本格的な試験コースだった。本格的なコースを設けることになった理由に関する資料は見つかっていないが、

・志願者の増加
・交通の混雑

が影響して、試験制度が整備されたと考えられる。

 現代の視点から見ると、当時の試験はかなりおおざっぱに感じられる。これで十分だったのは、運転自体が特殊な技能と見なされていたからだ。そのことを示すのが筆記試験の問題で、次のような内容が出題されていた。

・問1:ガソリンと空気の混合割合を述べよ
・問2:蓄電池の電液とは
・問3:冬季始動困難なる場合は如何なる処置を取るか
・問4:進行中速度計に故障を生じたる場合、何をもって速度の標準を定むべきや
(成田茂作『自動車運転手になりたい人へ』個人出版、1928年。答えは記事末に)

このように、エンジンや車両の構造に関する問題や、今ならすぐに日本自動車連盟(JAF)を呼ぶレベルのトラブル解決を求める問題が多く出題されていた。つまり、運転だけでなく修理もできる専門家を目指す受験者しかいなかったため、試験制度もこれで十分だったといえる。

免許手続きのデジタル化

免許証のイメージ(画像:写真AC)

免許証のイメージ(画像:写真AC)

 免許制度は時代とともに変化しているが、最近特に注目されているのは、その交付手続きが簡素化されている点だ。

 2022年以降、一部の地域では優良運転者向けに、更新時の講習をオンラインで受講できる仕組みが導入されている。

 警視庁では免許証とマイナンバーカードを一体化することを予定しており、将来的にはデジタル技術の進展により、スマートフォンに運転免許証の機能が統合されたり、さらにオンライン手続きが進んだりすることで、手続きがより簡単になる可能性がある。これにともない、運転免許センターの役割や必要性も変わってくるかもしれない。

※問題の解答
問1:気体ガソリン1容積に対し空気5乃至7容積の混合割合を最も可とす
問2:硫酸1と蒸留水4の割合よりなる希硫酸液のことをいう
問3:水筒内に湯場を入れ、着火栓を外して少しくガソリンを気笛に注入し且つ揮化器を外部より温める
問4:市内電車の最高速度約8マイルに比較するか、電車の電柱間隔普通二十間、市街の普通の電柱の間隔約1町である故、これに準じて略々計算せよ

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