韓国と鳥取を結ぶ「日韓定期フェリー」5年ぶりに再開! 東アジアに新経済圏誕生が期待される理由とは

日韓航路再開と復活の道

定期DBSクルーズ・フェリー「イースタンドリーム」号(画像:国際社会貢献センター)

定期DBSクルーズ・フェリー「イースタンドリーム」号(画像:国際社会貢献センター)

 鳥取県西部に位置する境港市と韓国の東海(トンヘ)市を結ぶ国際定期貨客船の運航が2024年8月3日に再開される。韓国の船会社トゥウォン商船が「イースタンドリーム」号を週1回、境港に寄港させるのだ。これにより、2019年11月に運休して以来、途絶えていた日本海を横断する「海の道」が復活することになる。

 境港と韓国を結ぶ定期航路は苦難が続いて来た。2009(平成21)年から2019年までは韓国の船会社DBSクルーズフェリーがイースタンドリーム号で境港と韓国・東海、ロシア・ウラジオストクを結んでいた。

 しかし輸出管理を巡る対立や元徴用工問題などを背景に日韓関係が悪化したことで、2019年11月に運航を休止してしまった。その後も再開を模索する動きがあったものの、コロナ禍に突入し、DBSは20年4月に廃業に追い込まれ、再開は絶望的になった。

 境港には、ウラジオ航路の発展を見込んで、2020年4月に国際航路用の「境夢みなとターミナル」が開業しているが、その途端に航路が廃止される悲惨な事態となったのだ。

境港再生と新たな挑戦

境港市(画像:写真AC)

境港市(画像:写真AC)

 一方、イースタンドリーム号を譲り受けたトゥウォン商船は2020年9月、境港に代わって京都府の舞鶴港京都府舞鶴市と韓国・浦項、ウラジオストクを結ぶ貨物専用の航路を開設した。しかし、これも2022年3月を最後に寄港は途絶えてしまう。

 それでも鳥取県と境港管理組合は粘り強くトゥウォン商船と交渉を続け、ようやく今回の境港寄港にこぎつけた。トゥウォン商船は境港の地理的優位性を評価。これを報じた『日本海新聞』2024年5月22日付によれば、李錫基社長は鳥取を訪れた際

「日本へつながる航路は境港寄港が最適だ。貨物も観光客も需要を開発し、メリットのある航路をつくりたい」

と語っている。

 鳥取県と圏域5市でつくる中海・宍道湖・大山圏域市長会は、航路の安定的な運航を支援するため、1運航あたり計100万円の支援金を交付することを検討している。2009年から2019年まで就航していたDBSクルーズフェリーに対しても同様の枠組みで支援していた実績がある。併せて、韓国人観光客の誘致に向けた旅行商品の造成や貨物需要の掘り起こしにも官民で取り組む計画だ。

 そうした難題を乗り越えるには、各国の積極的な関与が必要だ。特に、自治体の役割は大きい。鳥取県は、かねてよりロシア沿海地方と友好関係を築いてきた。2016年の日露首脳会談後は、極東ロシアとの交流を県の重要施策に据え、定期貨客船の利用拡大に努めてきた。DBSクルーズフェリー時代、境港からはアイスクリームからレジャーボートまで幅広い品目が輸出されていた。まずは、航路維持のカギである貨物量の増加が必要だ。

 また、観光分野でも、サイクリングツアーなど、韓国人の関心を引く旅行商品の企画が始まっている。もちろん、課題は多い。コロナ禍で観光産業は大きな打撃を受け、関連業界では慢性的な人手不足が続く。境港の玄関口である夢みなとターミナルが、期待通りのにぎわいを見せるかは予断を許さない。

 だが、アフターコロナのいま「日本海の時代」の開幕に備えることは、境港の使命ともいえる。韓国との定期航路は、その試金石になるだろう。

境港と日本海経済圏の歴史

境港市(画像:写真AC)

境港市(画像:写真AC)

 国際航路を通じて、境港が目指すのは日本海を挟んだ大陸との新たな経済圏の確立だ。

 日本海を利用した環日本海経済圏構想は1960年代から始まっている。当時の日本は高度経済成長の真っただなかにあり、太平洋ベルト地帯に工業化が集中する一方で、日本海側の地域は取り残されつつあった。そこで、日本海を挟んで対岸の国々と経済交流を活発化させ、新たなフロンティアを切り開こうという狙いがあったのだ

 だが、この経済圏構想には政治の壁が立ちふさがった。当時はまだ日本海対岸のソ連や中国、北朝鮮は社会主義圏。韓国も経済力は低くかった。日本海は文字どおり、東西冷戦の「壁」に阻まれていたのである。

 しかし、1980年代後半になると、情勢が一変する。ソ連のゴルバチョフ書記長が「ウラジオストク演説」や「クラスノヤルスク演説」でアジア太平洋地域重視の方針を打ち出したのだ。1988年は改革開放政策を進めていた中国で吉林省の豆満江下流域の開発計画が持ち上がる。こうして、社会主義圏が市場経済へとかじを切り始めたことで、経済圏への期待はにわかに高まった。

 1990年代に入ると、韓国の目覚ましい経済発展や、中国とソ連の和解が進むなど日本海を取り巻く情勢は一気に流動化していった。1991年8月のソ連の崩壊後「北東アジア経済フォーラム」が始動、日中ソ韓の沿岸地方政府が一堂に会し、環日本海経済圏構想は一気に具体化に向かう動きを見せている。

 1992年7月、北朝鮮の羅津で「豆満江地域開発計画に関する国際会議」が開かれた。北朝鮮は羅津・先鋒地区を経済特区に指定、インフラ整備を近隣諸国に呼びかけた。さらに中国は琿春・防川を玄関口に豆満江流域の開発を、ロシアは「大ウラジオストク構想」を提唱し、沿海地方の開発意欲を示している。

 こうした雪解けムードのなかで、境港はにわかに活気づいている。境港市では1993年に、北朝鮮の元山市と友好都市協定を締結。境港市では1970年代から自民党市議団による友好関係強化の取組が続いており、それが結実したものであった。

 これによって、境港には多数の北朝鮮船が寄港するようになり、カニや松竹の水揚げ港として活気づいたのである。しかし、2000年代に入り拉致問題や核開発問題がクローズアップされ、日朝関係が悪化すると、そのにぎわいは途絶えた。2006年には友好都市協定の解消も余儀なくされている。

境港と東アジアの連携

境港市(画像:写真AC)

境港市(画像:写真AC)

 このように、現在に至るまで環日本海経済圏は、政治に翻弄(ほんろう)され尽くした。有望な境港の発展は常に国家間の対立に阻害されてきたのだ。

 そして、現在もウクライナを巡る日露関係という問題も横たわっている。それでもなお、対岸との交流を諦めない境港。

 さらに、近年では危機管理対策として日本海に面した港湾の整備も重みを増している。将来、発生が予測されている南海トラフ地震において、瀬戸内海や太平洋側の港湾が利用できなく可能性は高い。

 その際に、日本海側の港湾に国際航路が整備されていなければ、物流にも困難を来すだろう。現在、境港は国際フィーダー航路の一部として、港湾機能が強化されているが、なお一層の強化が求められるところだ。

 中国のシルクロードは内陸のオアシス都市をつないだ。だが、東アジアには、海のシルクロードともいうべき、もうひとつの交易ルートがあった。日本海を介して、日本と朝鮮半島、中国東北部、ロシア沿海州を結ぶ、まさに環日本海経済圏の原型だ。激動の現代史により分断されたそのルートに、再び命を吹き込む。境港の試みは、そんな意味を持っているのかもしれない。

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