25歳で上場企業副社長になった成田修造の「マッチョ」な生き方

「〇-ロ眼鏡」がトレードマークの成田悠輔の弟、という文脈で知った方も多いだろう。成田修造は、兄に劣らず才覚あふれる一流のビジネスマンだ。慶應義塾大学在学中に起業し、その後は日本最大級のアウトソーシングサービスを提供する株式会社クラウドワークスに創業期から参画し、同社の上場に貢献し20代の若さで副社長まで上り詰めたという経歴を持つ。

現在もエンジェル投資家や起業家としてビジネスの世界で戦いを続けている成田修造。14歳で父親が失踪、一家破産。その成功の裏には壮絶な「土壇場」があった。あなたは成田修造のように生きられるだろうか。

▲俺のクランチ 第46回-成田修造-

父が失踪したことで「危機感」が生まれた14歳

彼の最初のターニングポイントは、14歳で経験した父親の失踪だ。成田が小学校に入学してからは、浮世人だった父親もサラリーマンに落ち着き、両親共働きで世帯年収もそれなりにあったという。

だが、父親の失踪によって「いわゆる都内の一般的な生活」が一変した。父親と共依存のような関係にあった母親も、精神的・肉体的にダメージを負い働けなくなってしまったのだ。結果的に成田家は破産に追い込まれてしまう。

誰の後ろ盾もなく自立して生きていかなければならない。「14歳ながらに危機感のようなものは醸成されたかもしれません」と当時を振り返る。

父親が失踪した理由は、いまだにはっきりとわからないらしい。淡々とこう推し量る。

「まあ、母親を含め、いろんなものから逃げたくなった、ということなんでしょうけど。消える直前には祖父母が亡くなっていたんです。とくに母方の祖父がすごく厳しい人で、そういうブロッカー的な存在がいなくなったこともあって、緊張の糸がほどけてしまったのかもしれません」

成田が通っていたのは私立の中高一貫校だった。学費の面は奨学金を利用することでなんとかなったという。学校生活が暗かったわけではない。部活ではバスケットボールに打ち込み、スポーツだけやる人じゃ面白くないと思って、本や音楽の世界にもどっぷり浸った。扉を開いてくれたのは、兄だった。

批評作品などを中心とした読書リストを授けられ、それを読んだ。また、兄が通っていた東大の講義に潜り込み、『マイルス・デイビス論』や『次世代音楽論』を受講したりもした。名著や名盤が彼の中に眠っていたベンチャーマインドも刺激した。

「例えば、マルクスを読んだときに、資本主義ってこういうふうにとらえるのか、という視点が内容以上に面白かったんです。学校の勉強が、与えられた問いを銃で撃つゲームだとすれば、マルクスは問いそのものをつくっている、そっちのほうが楽しいなと。

音楽で言えば、マイルス・デイビスは新しいジャズのジャンルをつくることに挑戦していた。ビートルズもそうで、インド音楽やクラシック音楽とポップスを融合させていた。そして彼らとスティーブ・ジョブズがやっていることって、突き詰めていくと似ているんですよ。現状を疑って、概念なり曲なり製品なりをアップデートして世に届けていく、という点においては」

そして大学入学前の18歳の時点で「自分はビジネスの世界で生きていく」と決めた。尊敬する兄と比較して、自分の適性を見つめた結果だ。

3度目の挑戦でチャンスをつかむ

受験勉強から開放された反動で、大学の4年間は遊び呆けてしまうパターンは日本では少なくないが、成田は「学生サラリーマン」として、起業家として在学中から働きまくった。しかし、彼にとってはここからが本当の「土壇場」だった。

「よく聞かれるんですけど、父親が失踪した中高時代は苦しいという感じはなかったんですよね。図書館に行けばコンテンツは無料で得られましたし、そこから得られる楽しさのほうが勝っていました。それに対してビジネスでの挑戦は苦しかったし、難しかった」

まず、20歳のときに知的財産関連のプラットフォーム事業を展開するベンチャー企業に飛び込んだ。社長直下で営業、マーケティング、ウェブとあらゆる業務をこなしていたらしい。

「月400時間は働いていました。そのおかげでと言うのもおかしいかもしれませんが、働いた2年間で新卒4~5年目ぐらいの実力がついたと思います。ただ、当時リーマンショックのあおりもあって市況が厳しくなっていました。“22歳で役員になり、24歳で上場する”という目標達成が難しいとわかり、会社を離れる決意をしました」

その後、仲間たちと会社を立ち上げた。当初、成田が構想していた事業は、電気自動車や植物工場(AIなどで自動化したスマート農業システム)など、スケールの大きなものだった。ここでも壁にぶつかった。

「角度が独特なものをやりたかったんです。普通の学生がやるような就活イベントや営業代行のようなものではなく。だけど、自分がやりたい事業をやるには、プロダクトをつくらないといけない。そのための技術も資金も足りない。これは難しいなと思いました」

そこで、もう少しハードルが低い事業を探した。そして目をつけたのがIT×アートを切り口にしたメディア事業だった。興味がある分野でかつ、競合も少ないと考えていた。しかし、時代が早すぎた。

「じつは今度、現代アートのサービスを提供する会社の社外取締役になるんですよ。今でこそ、そういう領域の会社もたくさん出てきていますし、NFTやSNSを活用できれば可能性が広がっていたかもしれない。ただ、当時はとにかくニッチすぎて儲かりませんでしたね」

売り上げはほぼゼロだったという。メディア事業は収益化まで時間がかかるものとは言え、あまりに先が見えなかった。数千万円の大型資金を調達をして、もう少し粘るかどうか……という話が出たタイミングで、会社を去る決意をした。自分の夢を諦めることになったのだ。

「もうタイムリミットが来たな、と。出資を受けても続かないなと思っちゃったんですよね。自分の実力不足も痛感していました。でも、結果的に合理的な判断だったと思います」

2011年4月に会社設立、代表を辞したのが2012年3月、わずか1年での決断だった。ただ後悔はない。大学4年生目前、ギリギリ就活にも間に合うタイミングでもあり、結果的に3度目の挑戦にして初めて成功を収めることになるクラウドワークスへの道につながったからだ。

クラウドワークスへの参画は、偶然の出会いから始まった。起業家イベントで創業社長と名刺交換をし、Facebookでメッセージを受け取った。何をやる会社なのかもわかっていなかったが、持ち前のフットワークの軽さで飛び込んだ。当時のコアメンバーは、創業社長とエンジニアのみという小さい会社だった。インターンとして働いたあと、3人目の社員として2012年の9月に入社した。

実際に働いてみると、ここが自分の力が100%発揮できる居場所だと気づいた。これまでの挑戦でインターネット領域での実務能力は鍛えられていたし、経営経験もあったので、事業の方向性や戦略にも貢献できた。事業内容も時流を捉えており、ビジネスモデルもしっかりとしていた。

「クラウドワークスでは、思い描いていたスタートアップの成長と、そのなかでの自分の成長がリンクしていて、“あとはやるだけ”という条件がそろっていました。会社の成長と自分の成長が正比例して伸びている実感がありました」

その後は驚異的な成長を遂げたのはご存じだろう。2014年、25歳のときにクラウドワークスは上場を果たしたのだ。上場後すぐに副社長兼COO(最高執行責任者)に就任、当時の上場起業役員のなかでは最年少だったという。その後、成田はさまざまな事業開発にも携わり、2022年には会社の売り上げは100億円、営業利益は10億円を超える規模に達し、業界ナンバーワン企業の地位を確立することになる。

▲現在は複数の企業の社外取締役などに就きながら新たな挑戦を開始している

結局は自分に厳しくできなければ終わり

クラウドワークスは昨年「卒業」し、現在はエンジェル投資家の顔を持ちながら、新たなビジネスを起こしたいと考えている。過去を振り返っても、一般的な就職を挟まずベンチャーに張ってきた。著書『逆張り思考』(KADOKAWA)のタイトルにもあるが、これまで「逆張り」の道を行くことに不安や孤独はなかったのだろうか、あるいはどう向き合ってきたのだろうか。

「ここで言う不安って、たぶんお金の不安のことだと思うんですけど、お金って売り上げや利益といった経済的なバリューを出せれば、絶対に返ってくるんですよ。そして、そのアップサイド(利益を得る可能性)は大企業よりベンチャーのほうが絶対あると思っていたので、そこに不安はなかったですね。

皆さんだって、年収2,000万円のベンチャーと年収800万円の大企業だったら、ベンチャー選びますよね? まあこういう考え方は少数派だと自覚はしていますけど(笑)。孤独は結果を出すことでしか癒せません。経営者の知り合いもたくさんいますけど、みんな自分が一番だと思っているような人たちで、心強い仲間という感じではないんですよね」

常にベクトルを自分に向けて追い込む。成田の話を聞いていて、そのシャープな外見とは裏腹の「マッチョ」性を感じた。

「僕がマッチョであるとして、そういう姿勢でしか物事をうまく生かせられるはずがないんですよ。宮崎駿さんも、“頑張るのは当たり前。結局全て自分。自分を許せるか許せないかで運命が分かれる。簡単に許せてしまう人に大した仕事はできない”と言ってました。

OpenAIのサム・アルトマンだって“起業家に一番大事なのは覚悟だ”と言っていましたよね。結局、自分に厳しくできない人は、それで終わるということなんだと思います。最近の人を見ていると、皆さんあまりに軽くやろうとしすぎているな……とは感じてるんです」

「自分に厳しくできなければ終わり」。こういったマインドは誰もが持てるものではない。成田の場合は、14歳で父が失踪し自立を迫られた、という特有の家庭環境も関係しているだろう。しかし、縮小する日本社会で人生を前に進めるための、身も蓋もない真理の一つでもある。あなたは「マッチョ」になれるだろうか。

(取材:北野 哲)


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