「電気軌道」として開業したのに108年間“電車ナシ” 異色づくめのローカル線に乗る もしかしたら“海を渡っていた!?”

徳島県鳴門市の池谷駅と鳴門駅を結ぶ全長8.5kmのJR鳴門線。ほぼ全列車が高徳線に直通し、徳島駅まで結びます。開業から108年目の路線ですが、歴史は紆余曲折を経たもの。開業から現状までを見てみましょう。

電気はないけど電気軌道

 JR四国の鳴門線は、1916(大正5)年に開業した歴史のある路線です。前身を「阿波電気軌道」といいましたが、歴史を通して電車が走ったことはなく、開業前後も波乱万丈でした。

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JR鳴門線の国鉄型キハ40・47形気動車(安藤昌季撮影)。

 その始まりは1908(明治41)年に遡ります。徳島市と板野郡撫養町(現・鳴門市撫養町)とを結ぶ鉄道として検討が始まり、1911(明治44)年に電車方式で建設することが決まります。

 これを受け翌年に阿波電気軌道が設立され、1914(大正3)年に建設が始まりました。ただ徳島と撫養とのあいだには、大河である吉野川(当時は別宮川)があるため、徳島から川の南岸の上助任(かみすけとう)までの路線と、北岸の古川から撫養までの路線をそれぞれ建設し、上助任~古川間は連絡船で結ぶ計画でした。

 しかし阿波電気鉄道は最初から苦難続きでした。徳島~上助任間は用地買収が難航し、鉄道建設を断念。徳島市街から水路を経由し吉野川北岸まで船で連絡しました。

 鉄道を敷く古川~撫養間も、地域の反対で予定した位置に撫養駅を設けられませんでした。さらに、電力供給元として当てにしていた徳島水力電気は発電能力に余裕がなく、かといって阿波電気軌道にも自力で火力発電所を建設する資金はありませんでした。

 仕方なく暫定的措置として、蒸気機関車による蒸気鉄道として開業しました。社名は阿波電気軌道のままで、電車の走らない電気軌道だったわけです。しかし開業時は阿波電気軌道とは名乗れず、時刻表には「阿波軌道」と表記されていました。軌間(線路の幅)も予定した1435mmを諦め1067mmとするなど、妥協の連続でした。

国は救世主だった?

 そのような状況下でも、阿波電気軌道は途中の池谷駅から西へ分岐する支線も建設し、1923(大正12)年に池谷~阿波大寺(現・板野)~鍛冶屋原間を開業させますが、多額の工事費と列車事故により多額の負債を抱えてしまいます。木製橋が腐ってきたり、レールの亀裂が見つかったりと、徳島県から改善命令を出される状況でした。これを関西銀行からの融資で乗り切り、それを機に社名は正式に「阿波鉄道」となります。

 阿波鉄道は撫養から岡崎港への路線延長を進め、1928(昭和3)年に予定通りの位置に新たな撫養駅(現在の鳴門駅)を建設。それまでの撫養駅は「ゑびす前」駅に改称しました。

 ただし新しい撫養駅から岡崎港までは用地買収ができず、乗合自動車(バス)で接続しました。この時期、吉野川には道路で古川橋がかけられたため、列車は古川駅から徳島駅前までを結ぶバスと接続し、ようやく名実ともに徳島と撫養を結ぶ交通機関となったのです。

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撫養駅。過去に「ゑびす前」「蛭子前」を名乗っていた(安藤昌季撮影)。

 しかし、阿波鉄道はバスと競合関係となり、運賃値下げ競争をした結果、経営状況は悪化していきます。

 こうした中、鉄道省が吉野川に鉄橋をかけて高徳本線(現・高徳線)を南下させ、高松と徳島を結ぶ方針を掲げます。阿波鉄道は買収され、1933(昭和8)年に国有鉄道の阿波線となりました。この時にゑびす前駅は「蛭子前」に改名されています。高徳本線は1935(昭和10)年に全通し、並行した旧阿波鉄道の古川~吉成間は廃止。中間の吉成~池谷間は阿波線から高徳本線に編入されます。

幻の「本四淡路線」を構成したかも

 残った池谷~撫養間は「撫養線」へと改められました。ややこしいのですが、撫養線の蛭子前駅は1948(昭和23)年に「撫養」駅へ、それまでの撫養駅は「鳴門」駅へとされました。路線名も1952(昭和27)年に「鳴門線」へと改められ、ようやく現代と同じになります。

 しかし、鳴門線は1968(昭和43)年に国鉄が廃止を進める「赤字83線」にリストアップされ、阿波鉄道が建設し支線となった鍛冶屋原線(板野~鍛冶屋原)は廃止されます。鳴門線も廃止されそうになりましたが、徳島~鳴門間が18.8kmと短く、徳島市方面への通勤通学客が増加し始めたことで、廃止を免れました。

 なお、国鉄は1955(昭和30)年より、山陽本線の鷹取駅(神戸市須磨区)から分岐して淡路島を経由し、鳴門駅に至る本四淡路線を検討していました。しかし、東海道新幹線の成功もあり、本四淡路線計画は新幹線に切り替えられます。

 本四淡路線が早い時期に在来線で建設されていたなら、鳴門線が本州と四国を結ぶ幹線になったかもしれませんが、明石海峡大橋は道路専用橋となり、実現しませんでした。そして1987(昭和62)年に国鉄分割民営化で、JR四国・鳴門線となったわけです。

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キハ40・47形の車内(安藤昌季撮影)。

 2024年現在の鳴門線には、2両編成の国鉄型気動車のキハ40・47形が走ります。8月末に高徳線からの徳島発を利用すると、乗客は60名ほどでした。吉成駅を出ると、阿波電気軌道が越えられなかった吉野川を渡りました。

大半が乗り通し利用

 池谷駅から鳴門線へ。高徳線のホームは別の位置にあり、あいだに駅舎があります。3番線に到着し、上り列車と交換しました。鳴門線では列車速度が落ち、また鳴門駅以外は無人駅のため、車掌がこまめに車内巡回を行っていました。

 途中駅での乗客の入れ替わりはあまりありませんでした。教会前駅では3名が下車。ぱっと見て教会らしき建物はないのですが、奥に見える寺のような建物が「天理教撫養大教会」です。

 金比羅前駅を出ると、車窓右側に新池川が並走し、川が離れると撫養駅です。かつての終着駅では4名が下車しましたが、大半の乗客は動きがなく、そのまま終点の鳴門駅へ。急にビルが目立つようになり、都市近郊路線のような風景になりました。

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鳴門駅前(安藤昌季撮影)。

 1面2線の鳴門駅では50人以上が下車。有人駅なので駅員がおり、みどりの窓口もあります。駅前には高速バスの停留所や、近くにサッカーJ2「徳島ヴォルティス」のスタジアムもあり、にぎわっていました。

 乗車した実感としては、潜在需要はありそうでしたが、単線で交換駅もないので、1時間に1本なのが惜しまれます。大半が徳島駅から鳴門駅への需要なので、朝の上り1本だけある「途中全駅通過の鳴門発池谷行き」のように、停車駅を絞った快速をあいだに挟むなどして、本数を増やせないものかと感じました。

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