「爆撃機が来るぞ!」察知しイギリス救った“見えない兵器” スタートは殺人光線ってホント?
飛行機や船舶、自動車など、幅広い乗りものに搭載されるようになったレーダー。しかし、誕生のきっかけは殺人光線の研究でした。しかも、その原理を応用して、のちに電子レンジも誕生したとか。その歴史をひも解きます。
殺人光線は無理だけど空の監視なら使えます
航空機の運用において、いまやレーダーは不可欠な存在です。気象観測、航空管制、さらには戦闘用と、その用途は多岐にわたります。しかも機体に搭載する、いわゆる機上装備としてだけでなく、航空管制や警戒監視など地上装備としてもさまざまな用途で使われており、必要不可欠なシステムと言っても過言ではありません。
しかし、このレーダーの誕生には、意外な背景がありました。それは、軍が「殺人光線」を求めたことに由来するのです。
1935年、イギリスは強力な兵器を求めていました。そのひとつが、強力なマイクロ波で人体を加熱しタンパク質を破壊する「殺人光線」でした。このアイデアは、当時の科学技術の進歩に伴い、実現可能な装置として考えられていました。そこで、イギリス軍は、この「殺人光線」を開発するために、科学者たちに協力を求めました。
依頼を受けた1人が、当時空軍省に勤務していたロバート・ワトソン・ワットというイギリス人科学者です。ちなみに、彼は電力や仕事率の単位である「ワット(W)」の由来となったジェームズ・ワットの子孫でした。
ワトソン・ワットは、マイクロ波を利用して人体を破壊するというアイデアに対して懐疑的であり、「殺人光線」は技術的に不可能であると結論づけます。しかし同時に彼は、マイクロ波を利用して空中の物体を探知することは可能であると提案しました。この提案が、防空用レーダーの開発へとつながります。
ワトソン・ワットの提案を受けて、空軍はレーダー(当時はRDFと呼んだ)の開発に着手しました。レーダーは、電磁波を発信し、その反射波を受信することで、空中の物体の位置や速度を測定する技術です。この技術は、航空機の探知に非常に有効であることが判明しました。
イギリス本土防空戦で大活躍!
レーダーが登場するまで、航空機を探知する方法としては人間の目と耳だけが頼みの綱でした。視力の良いものを選別し監視させたり、聴覚に敏感な視覚障がい者に空中聴音機を付与したりするといったことが試されましたが、いずれにしてもその探知距離はせいぜい10~20kmが限度でした。それらに対し、レーダーなら当時ですら160km先の航空機を探知できたのですから、まさに「ゲームチェンジャー」と言っても良いものでしょう。
第一次世界大戦中、イギリスはドイツの爆撃機や飛行船による無差別爆撃に悩まされており、本土が爆撃されることの恐ろしさを学んでいました。そのためレーダーの有用性は政府首脳にも即座に理解され、イギリス本土をほぼ完全にカバーするレーダー網の構築が開始されます。
このレーダー網は「チェイン・ホーム」と呼ばれ、ドイツ空軍の攻撃を事前に察知し、迎撃するために大いに役立ちました。特に、英独航空決戦となった1940年夏の「バトル・オブ・ブリテン」において、チェイン・ホームはイギリスの防空戦略の中核を成し、ドイツ空軍撃退の立役者の1つにもなりました。言うなれば、レーダーの存在が、第二次世界大戦におけるイギリスの勝利に、大きく貢献したのです。
ところで、当初の目的であった「殺人光線」はどうなったのでしょうか。実は、この技術も全く無駄になったわけではありませんでした。
強力なマイクロ波を利用して物体を加熱する技術は、遠方の人間や航空機を破壊するには力不足でしたが、食べ物を温めるにはとても便利なことが判明し、家庭用電化製品に転用されました。今では、それは「電子レンジ」と呼ばれ、世界中の家庭で使われています。
09/15 06:12
乗りものニュース