“中距離快速”消滅は時代の流れか JR東日本「東京圏70km60分構想」の今 アクティーや京葉快速が生まれて消えたワケ
1990年代にJR東日本が推進していたのが「東京圏70km60分構想」です。広がる都市圏にあわせて列車をスピードアップするというものですが、具体的にどのような取り組みだったのでしょうか。各方面の列車の表定速度を軸に振り返ります。
都心70km圏を1時間で結ぶ構想、どうなった?
※本記事は『JR東日本 脱・鉄道の成長戦略』(枝久保達也著、河出書房新社)の内容を再編集したものです。
今では語られることはありませんが、JR東日本が1990年代に取り組んでいたのが在来線高速化計画「東京圏70km60分構想」です。実はこの構想のもとで誕生したのが、2024年3月のダイヤ改正時に廃止で社会問題化した京葉線「通勤快速」や、ここ数年で姿を消した東海道線「アクティー」、宇都宮線「ラビット」、高崎線「アーバン」などの中距離電車の快速でした。構想は30年でどのような成果を上げ、そして終焉に向かったのでしょうか。
JR発足と同時に訪れたのがバブル景気です。金融緩和で潤沢な資金が流入したことで、東京の住宅地1平米あたりの地価(用途別地価の平均価格)は、1985年の約29万7000円から1990年には約85万9000円と3倍近くになり、首都圏の新築マンション平均価格も約2683万円から約6123万円に高騰しました。
近隣の神奈川県も約16万3000円から約35万1000円、埼玉県は約12万9000円から約26万6000円、千葉県は約10万8000円から約26万8000円と、周辺3県の地価は1985年の東京に匹敵する水準まで上昇。東京近郊での住宅取得は困難になり、住居は勤務地からどんどん離れていきます。
そんな地価暴騰の東京を脱出して、宇都宮、高崎、小田原、静岡にマイホームを建てて新幹線で通勤する人が増え始めます。新幹線の定期利用者数は1985年から1991年で約10倍に増加しましたが、全体から見ればごく一部の人。多くは在来線で長時間通勤を余儀なくされました。
1992年の運輸白書によると、都心3区(千代田区、中央区、港区)を目的地とする通勤・通学者のうち、所要時間60分未満は1985年から1990年までほぼ横ばいですが、60分以上90分未満は約22万人、90分以上は約11.5万人も増加しています。
長時間、満員電車に揺られて疲弊する通勤者の利便性・快適性向上を目的に、東海道線、宇都宮線、高崎線、常磐線、総武線をスピードアップして、小田原、小山、深谷、土浦、木更津の都心70km圏を1時間で結ぼうというのが「東京圏70km60分構想」です。
表定速度(途中駅の停車時間を含めた速度)70km/h超は在来線特急列車の速度域です。今でこそ京阪神の新快速、中京圏の特別快速・新快速、つくばエクスプレスの快速など例がないわけではありませんが、JR東日本発足時の首都圏主要路線の表定速度は、おおむね50km/h台で目標には程遠い状況でした。
国鉄時代の遅い車両で「スピードアップ」するには
要因のひとつは車両です。中央線を除けばいずれも特急列車が120~130km/hで走行する高規格路線でしたが、JR発足から2000年代初頭まで、国鉄時代に設計された最高速度100km/hの旧式車両が残っていたため、速度向上は困難でした。
そこで最初に手を付けたのは、停車駅を減らし、停車時間を削減することで表定速度を向上させた快速列車の設定です。1988年3月のダイヤ改正で東海道線に「アクティー」、東北線に「スイフト(通勤快速)」「ラビット」、高崎線に「タウン(通勤快速)」「アーバン」を新設しました。
1990年3月に京葉線が東京延伸開業すると、外房・内房線から京葉線に乗り入れる快速列車が誕生しました。また「東京圏70km60分構想」の対象外ですが、中央線にも1989年、遠距離通勤に対応した富士急行線河口湖行きの「通勤快速」が登場します。
1987年から1990年にかけて新設された快速列車により、東海道線東京~小田原間(83.9km)の表定速度は約56km/hから約72km/h、宇都宮線上野~小山間(77km)は約58km/hから約71km/h、高崎線上野~深谷間(73.5km)は約49km/hから約68km/hに向上します。
ただ、過密ダイヤの上り朝ラッシュの速達化は困難で、例えば東海道線の下り湘南ライナーや日中のアクティーは東京~小田原間を1時間10分程度で結びましたが、上り湘南ライナーは1時間25分程度を要しました。宇都宮線、高崎線も日中と夕夜間下り快速は小山、深谷まで1時間強で結んだものの、朝ラッシュの上り快速は設定されませんでした。
総武(京葉)線木更津~東京間(74.3km)は1987年の約55km/h(総武快速線経由)から1990年は約60km/hとなり、1996年に約72km/hへ向上。常磐線は2005年に登場した「特別快速」が首都圏最速の130km/h運転を開始し、上野~土浦間(約66km)を表定速度約70km/hで結びました。
JR東日本初代社長の住田正二氏は1992年の著書『鉄路に夢をのせて』で、公的資本を投入すれば都心と80~120km圏を1時間で結ぶ「夢の120km圏1時間通勤新線」が可能と語っています。しかし既にバブル経済は崩壊しており、2000年代以降は「都心回帰」へ転じていきます。
バブル期に郊外に住宅を取得した人も2020年代に入って多くが定年を迎えており、通勤対策の主眼は中長距離の速達性から、近距離の運行本数・直通運転に移っています。コロナ禍に前後する快速列車の廃止・縮小は、首都圏からついにバブルの残り香が消えたことを示しているのかもしれません。
09/04 07:12
乗りものニュース