なぜ長引いた?「能登半島地震の自衛隊活動」でも史上最長の災害派遣じゃない!? “驚愕の4年半”を忘れるな!

2024年8月31日、およそ8か月半にわたって活動し続けた能登半島地震における自衛隊の災害派遣が終わりました。被害は局所的だったのに、なぜここまで長引いたのでしょうか。また過去には1500日を超える災害派遣もありました。

半島という地形がネックに

 2024年元日に発生した能登半島地震によって、災害派遣活動を続けてきた自衛隊が8月31日、撤収しました。

 今回の活動期間は約8か月、地震災害派遣としては最長の244日間にもなります。この日数は能登半島地震よりも広範囲かつ甚大な被害を出した東日本大震災の174日間を上回ります。なぜ、能登半島地震ではこれほど長期に渡る災害派遣となってしまったのでしょうか。

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珠洲市内に開設された自衛隊の入浴施設(画像:陸上自衛隊)。

 大きな原因は、能登半島の救援に向かうルートが非常に限定されていた、という点が挙げられます。

 東日本大震災大震災の場合は、被災地が広域に渡りました。その一方で、当該地域に向かうルートは多く残されており、各方面から救援に入ることができたのです。もちろん、津波による被害は甚大であったため、沿岸部の道路啓開作業は必要でしたが、沿岸部は比較的開けており、また港も多かったため、地形的に重機が入りやすい環境だったともいえます。

 一方、能登はその名の通り半島であり、3方を海に囲まれていて陸路ではアクセスすることができず、しかも唯一つながっている南側も山の中を道路が通っている状況で被災地へとつながるルートが限られたという点で、東日本大震災の被災地とは異なっていたといえるでしょう。

 加えて能登半島は、東側に七尾西湾があるため、中心部は意外と狭く、いちばんくびれた場所では東西幅約10kmしかありません。すなわち、ボトルネックのような場所に南北を行き来する数少ない道路が集中して通っている状況なのです。

陸路がダメなら海路も使え!

 その主要な道路というと、能越自動車道と国道249号ですが、1月1日午後の発災によって前者は直ちに通行止めとなり、後者も能登地域の主要都市である七尾市と隣接する穴水町までしか行けない状況に陥ります。そのため、そこから先の輪島市や珠洲市、能登町は陸の孤島と化しました。

 翌日には応急的に普通車が通れるだけの道が、これら被災市役所などへとつながったものの、大型車は依然として入ることができません。ようやく大型車も走れるようになったのは、発災3日目。発災15日目には国道249号等の半島内における主要な幹線道路の約9割が応急復旧し、最低限のルートが確保されるまでに至りました。

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能登半島の概要。中央部分が七尾湾によって大きくえぐれており、その部分は東西幅が極めて狭くなっている(国土地理院地図引用)。

 しかし、これは各市役所や役場までを繋ぐ主要道路に限ったハナシで、山間部などにある避難所や個人宅までに至る道路の多くは、土砂崩れなどで寸断されたままでした。

 つまり、東日本大震災と異なり、能登半島地震では救援に行きたくても非常に限定されたルートしか残されておらず、しかも、そこにあらゆる交通が集中したことから、移動だけで多くの時間を費やすことにつながったといえるでしょう。

 当然、救援物資や復旧のための重機を投入しようにも、なかなか現場まで辿り着けず、それらの活動を続けるための食料や燃料を届けようにも、交通渋滞が作業を大きく遅らせることになったようです。

 そのため、海上自衛隊はエアクッション揚陸艇(通称LCAC)を投入し、海から重機や物資を輸送する救援作戦を行いました。一方で、山間部については隊員の徒歩による人力運搬、もしくはヘリコプターでの空輸が選ばれています。

史上最長の災害派遣は驚きの1658日間

 このように東日本大震災と比べると、被災範囲こそ狭いものの、活動するには極めて困難な地域であったことがわかるでしょう。結果、自衛隊も頭数で対応すべく最盛期には1万人態勢で各種活動を行っています。

 約1040名を救助し、約420万食の糧食、約230万本の飲料水、約23万リットルの燃料を輸送し、約26万食の給食支援、約6400tの給水支援、入浴支援に関しては約50万人を支援。そして、最後まで続いていた珠洲市内3か所での入浴支援活動も、水道施設の復旧に伴い必要なくなったことから、このたび石川県知事からの撤収要請を受け、活動を終えることとなりました。

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被災者支援のため七尾港に向かった防衛省のチャーター船「はくおう」(武若雅哉撮影)。

 なお、地震災害派遣としては今回の能登半島地震への対応が過去最長ですが、自衛隊の災害派遣として最も長かったのは1991(平成3)年6月3日に発生した雲仙普賢岳の災害派遣で、こちらは1658日(約4年半)を記録しています。

 これだけ長期に渡った理由は、装甲車や赤外線暗視装置などを持つ陸上自衛隊なら、噴火などが起きても火山近傍で活動できるから。そうした能力を買われて、九州大学島原火山観測所(現:九州大学大学院理学研究院附属地震火山観測研究センター)と協同で観測をしていたためです。

「国を守る」だけでなく、「国民を護る」ためにも活動する自衛隊。「災害大国」日本の最後の砦として、この後も備え続けます。

【動画】東日本大震災 当時の陸自トップが振り返る 決断の真意

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