「関門トンネル」ついに80歳 “橋ではダメだ”戦時中でも建設断行の裏にあった「超壮大な計画」とは
本州と九州を結ぶ「関門トンネル」は、世界でも最初期の海底トンネルで、戦時中に完成しました。当時の技術力でかつ戦時中の工事はかなり困難を極めましたが、それでも続けられた意味とはなんでしょうか。
なぜ橋を架けるのではダメだったのか?
本州と九州を結ぶ関門海峡では、今から80年前、戦時中の1944年8月8日に、現在JRが使用している在来線の「関門トンネル」が上下線で開通しました。実は同トンネルは世界で最初の本格的な海底トンネルと言われています。海峡を結ぶ場合、橋を選択するケースも多いなか、なぜ困難な方法を選択したのでしょうか。
関門海峡に船以外のなんらかの交通手段を設けようという計画は20世紀の始め頃からあり、当初は橋を架ける予定でした。しかし、この計画は結局却下されることになります。その理由は国防に関する問題からでした。
20世紀初頭、大きな脅威はロシア帝国の太平洋艦隊(旅順艦隊)でした。また、20世紀初頭はほかの欧州列強も中国の租借湾などに艦艇を停泊させていました。なんらかの有事が発生した際、関門海峡に橋が架かっていると、砲撃などで即破壊されるリスクがあったため。トンネルの方がいいという結論になりました。
ただ、海峡をまたぐトンネルを建造するのは容易ではありませんでした。初期の計画は、105年前の1919年に始まりますが、1921年まで地質調査や海底調査を終えた結果、工事がかなり困難で莫大な予算がかかることが判明します。
早急な計画の練り直しが必要となりますが、工事計画を巡り各省庁に対立が発生し1930年代に入ってもまとまらず「このまま船でも仕方ない」という結論になりかけましたが、最終的には鉄道省を陸軍省が後押しする形で計画が決まりました。
戦時中も工事が続行され貴重なインフラに
陸軍が計画を後押ししたのは、このトンネルが開通し実績ができれば、国内の流通の安定だけではなく、当時の計画としてあった九州・壱岐・対馬・朝鮮半島を海底トンネルでつなげ、満州から九州までつながる鉄道網を構築しようという「大東亜縦貫鉄道構想」も前進するのでは、という思惑があってのものでした。
トンネルで大陸まで繋がれれば、陸軍は大陸向けの軍需品輸送の多くを鉄道で行えるということで、海上輸送よりも安定的な補給網を確保できることになります。
1936年7月には現場機関として鉄道省下関改良事務所が発足。同年9月19日に九州側の小森江で起工式が行われ、空前の大工事がスタートします。この工事のトンネル掘削には、当時最新鋭だったシールドマシンという円筒形の掘削機を使った「シールド工法」が使用されます。この工法を成功させるために、関係悪化していたアメリカまで視察に訪れる徹底ぶりでした。
工事中に日本は第二次世界大戦に参戦することになりますが、戦略的に重要であるとして工事は続けられ、下り線は1942年7月1日に開通。上り線のトンネル開通は前出の通り1944年8月8日に開通し、同年9月9日から複線での運用が開始されました。この時期は、大戦も終盤で日本の敗色はすでに濃厚になり、サイパン島を喪失し、本土空襲の危機感も高まっていました。
1945年に入ると、本土空襲に加え、「飢餓作戦」とよばれる機雷による海上封鎖作戦で、日本の海上輸送力は極端に低下します。そこで重要な地位を得たのが完成したばかりの関門トンネルで、本州と九州間の石炭や物資、さらに兵員や兵器の輸送を比較的、安全に行うことができました。また、戦後でも日本の交通網における要所のひとつとなり、戦後復興を支えるインフラのひとつとなりました。
ちなみに、国道2号が走る「関門国道トンネル」に関しても戦前に計画され1937年から掘削が開始されていましたが、地質などを調べる導坑の掘削が終わった後、戦局悪化により工事が中断。戦後の1952年に工事を再開し、1958年3月9日に開通しました。
08/08 07:42
乗りものニュース