鉄道車両の「ミ」はミリタリーのミ!? 国鉄の現存激レア「おいらん車」意外すぎる過去の“形式名”とは

えちごトキめき鉄道に譲渡された元JR西日本の建築限界測定車「オヤ31 31」。2024年で製造して87年を迎えますが、誕生時から測定車ではありませんでした。現在に至るまでの車歴は、まさに波乱万丈といえるものでした。

おいらん車 大元は「客車」でした

 新潟県内に2路線を持つ第三セクター鉄道のえちごトキめき鉄道は、JR西日本の「建築限界測定車」オヤ31形31号(オヤ31 31)を2023年3月に譲り受け、大きな話題を呼びました。

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稼働時のオヤ31 31(画像:写真AC)。

「建築限界測定車」は一般人が乗車できない「事業用車」に分類されます。鉄道路線が新たに開通したり、電化で架線柱を建てたりした際に活躍する客車で、鉄道車両が触れてはならない範囲である「建築限界」内に建造物などが収まっているかどうかを測ることができる車両でした。

 車体から無数に飛び出た矢羽根が特徴のオヤ31形は、その矢羽根が花魁(おいらん)の頭に刺すかんざしに見えることから、通称「おいらん車」とも呼ばれています。通常では矢羽根を格納していますが、測定時には広げて走行。障害物が矢羽根に当たることで感知する仕組みになっています。

 最大で7両が存在したオヤ31形ですが、新製で生まれた車両は無く、1949(昭和24)年から1961(昭和36)年にかけ、さまざまな客車を改造して生まれました。鉄道にとって重要な役目を持つ車両だったため、1987(昭和62)年のJR発足時に5両が継承され、古い車両にも関わらず2000年代まで使用が続きました。

 2024年現在でオヤ31形は全車が現役を引退しており、JR西日本からえちごトキめき鉄道に渡ったオヤ31 31と、JR東海が運営する「リニア・鉄道館」に保存中のオヤ31 形12号(オヤ31 12)の2両のみが残っています。

 オヤ31 31の経歴を遡ると、そのルーツは1937(昭和12)年に梅鉢車両で製造された20m級三等緩急車、スハフ34400形の「スハフ34525」まで遡ります。客車の称号が1941(昭和16)年に改正された際、スハフ32形224号(スハフ32 224)に改称。戦後の1945(昭和20)年9月には、日本に進駐した連合国軍が用いる専用車「連合国専用客車」として徴用され、軍番号2428・軍名称「PRESCOTT」と名付けられて兵員輸送に活躍しました。なお2400番台は三等座席車の区分でした。

「ミ」リタリー客車として転用、転用、転用!

 さらに1948(昭和23)年になって、連合軍専用客車のまま「酒保車(しゅほしゃ・PX Car)/販売車(Commissary Car)」のオミ35形11号(オミ35 11)に改造。連合軍での番号は2734、名称は「PINEWOOD」となりました。

 酒保車とは、海外から日本に来ていた連合国の幹部や兵員用に、本国から送られてくる食料や物品を軍が提供するため用意した車両で、連合軍の基地などで食品などの販売を行っていました。のちに「販売車(Commissary Car)」とも呼ばれるようになり、衣料品・雑貨なども取り扱いました。4桁の軍番号は2700番台です。

 酒保車・販売車の車内には、売店のカウンターや販売棚、販売物品の保管スペース、冷蔵室、従業員控室などが設けられ、側面には売店用の出入り口が新設されました。オミ35 11では、車内に販売用の長い棚がレール方向に置かれていました。

 酒保車の国鉄での分類は「軍務車」で、オミの「ミ」はミリタリーのミを意味していました。酒保車に限らず、事務車、販売車、クラブ車、ラジオ車、衛生車など、それまでの国鉄では存在しなかった用途で、旅客を扱わない車両には、すべて「ミ」が当てられていました。

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JR西日本から譲渡されたオヤ31 31(画像:JR西日本)。

 なお「酒保」とは、旧日本軍の駐屯地や施設・艦内で、飲食物や日用品を販売していた売店を指しており、現在でも時折同じ意味で使用されることがあります。

 その後2734号は、1951(昭和26)年に「雑務車(Miscellaneous Car)」の中でも兵員の衛生教育に使用する「安全車(Safety Car)」806に転用されたのち、1952(昭和27)年には連合軍専用客車の「部隊料理車(Troop Kitchen Car)」へと用途を変更。調理室を備えてオシ33形104号(オシ33 104)となりました。

 部隊料理車とは、兵員用の食事を作るための客車で、兵員を運ぶ列車に連結されていました。割り当て番号は3300番台で、オシ33 104には軍番号3315が与えられましたが、1952(昭和27)年から固有の名称は付かなくなりました。

「スヘ」から「オヤ」になった車両も

 1952(昭和27)年といえばGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が解体され、日本が主権を取り戻した年。連合軍専用客車も順次返還が行われたのですが、駐留軍が必要とする兵員輸送用客車や、部隊調理車、簡易寝台車など一部の車両は返還対象外とされました。また、部隊料理車3315のように、サンフランシスコ講和条約が調印されたあとに増備された車両もありました。同車が連合国専用客車から解除されたのは、さらに4年後の1956(昭和31)年のことです。

 そして1957(昭和32)年、軍番号3315だったオシ33 104は、国鉄長野工場で建築限界測定車オヤ31 31に改造。現在に至っています。

 ところで、他のオヤ31形の中にも、連合軍特別客車を経ておいらん車になった車両がいました。中でもJR九州で2005(平成17)年に廃車されたオヤ31形21号(オヤ31 21)は、車端にガラス張りの密閉式展望室を備えていたことが特徴でした。

 オヤ31 21の連合軍専用客車時代は「病院車」スヘ31形13号(スヘ31 13)・軍番号2911、軍名称BRISTOLとして扱われたのち、接収解除。1954(昭和29)年に国鉄の事業用車のひとつ「特別職用車」スヤ51形16号(スヤ51 16)に改造され、この際に展望室を設置して、GHQの高官や国鉄幹部、海外から来た貴賓の旅行などに用いられました。

 長らくJR西日本で車籍を残したまま大切に保管され、えちごトキめき鉄道に譲渡されたオヤ31 31。こうして87年にも及ぶ同車の歴史を振り返ると、太平洋戦争をくぐり抜け、連合国の占領下に日本が置かれていた時代を連合国専用客車として過ごし、建築限界測定車となってからは新しい鉄道路線のために働いてきたことがわかります。まさに昭和の日本、そして鉄道の歴史の生き証人と呼んでも過言ではありません。

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