「護衛の要らない最強の爆撃機」のはずが…旧陸軍機「呑龍」の誤算 “夢の戦い方”はなぜ空虚に?

初期段階の計画書は夢のようなプランだったけど、実際そうはいかなかった――旧陸軍の一〇〇式重爆撃機「呑龍」もその中のひとつです。情勢や環境の変化、技術の進歩速度を見誤り、満足な性能は発揮できませんでした。

陸軍の野心的なプランから開発がスタート

 2024年は辰年です。戦前、戦中の日本では、愛称に龍の文字を冠する軍用機がいくつか登場しました。その中でもかなりマイナーな機体といえるのが、旧日本陸軍が第二次世界大戦中に運用していた一〇〇式重爆撃機「呑龍」です。

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一〇〇式重爆撃機「呑龍」(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。

 戦前、大戦中の軍用機は、どうしても一式陸上攻撃機といった旧海軍の陸上攻撃機の印象が強く、陸軍爆撃機は影に隠れがち。さらに「呑龍」は、大戦以前から爆撃任務を担った九七式重爆と大戦後期に量産を開始した四式重爆撃機「飛龍」の間に存在した爆撃機で、かなり影が薄くなっています。しかし、もともとは日本陸軍の野心的な戦法の実現のために開発された、画期的な爆撃機でした。

 一〇〇式重爆撃機はもともと対ソビエト連邦戦、つまり大陸で運用することを想定して、1938年に中島飛行機が陸軍に命じられ開発を始めた爆撃機です。その性能指示は、戦闘機を引き離す500km/h超の高速と、新開発の20mm機関砲の搭載や尾部機関銃など防御火器の充実、さらに3000kmという長大な航続距離を合わせ持つという、高速かつ超重武装を要求するものでした。

機体名・愛称ともに名誉のある名前を頂く

 当時、陸軍は「航空撃滅戦」という、開戦と同時に敵飛行場へ爆撃機で先制攻撃をかけ、前線の航空戦力を麻痺させる戦法を最重要としていました。そのため、カタログスペック通りに作られれば「単独で敵陣に乗り込むことができる戦闘機不要の爆撃機」となるのが同機でした。

 速力と防衛火器を重視したため、爆弾の搭載量は1000kg程度でしたが、海軍の陸上攻撃機とは異なり、日中戦争で敵機による待ち伏せでかなり損害を負っていた九七式重爆での戦訓から、被弾した場合の帰還率向上のため、燃料タンクなどを守る防弾装備もついていました。

 当初、陸軍には大きな期待をかけられており、試作機が初飛行したのは1939(昭和14)年。制式採用されたのは1941(昭和16)年8月となっています。本来ならば開発完了し制式採用されたのが皇紀だと2601年であったことから「一式重爆撃機」と命名するところを、前年が皇紀2600年で全国的に祝賀ムードだったことにあやかろうと、「一〇〇式重爆撃機」とした経緯があります。

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編隊を組んで爆撃任務に従事する一〇〇式重爆撃機「呑龍」(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。

 愛称の「呑龍」は勇ましそうな名前ではありますが、実は、当時同機を開発していた中島飛行機の工場があった群馬県太田市に「子育て呑龍」と呼ばれる寺院、大光院があったことから、これにちなみ名付けられたそう。「呑龍」は同寺院を開山(創設)した江戸時代初期の実在人物の名で、多くの子どもが間引かれていたことを悲しみ、弟子として引き取り育てたとされています。

しかし配備後に問題が山積

 機体名も愛称も名誉あるものになった同機ですが、制式採用され運用の始まった1941(昭和16)年から早くも問題が出始めます。

 まず、速度が九七式重爆撃機とそれほど大差ありませんでした、確かに陸軍爆撃機として初めて搭載した20mm機関砲1門のほかに、7.92mm機関銃5挺を備える重武装と防弾性の高さは評価されましたが、一番肝心なエンジン「ハ-41」の信頼性が悪く、故障が頻発してしまい、旧式機の方が現場では好まれるという状況になってしまいました。
  
 それでも陸軍では、これは初期不良と割り切り、運用しているあいだにエンジンの問題を解決し、ほかの部分も改良していくことで、同機をやがて主力にしようと考えていました。しかし、その目標は早くも制式採用年末に行った真珠湾攻撃で、根底から覆ることになります。

 真珠湾攻撃から対米・対英戦が始まると、新たに太平洋やインド洋方面での作戦が多くなります。これは、本来の目的である、ソ連との戦いを想定した大陸を長距離飛行する爆撃機というプランからはだいぶかけ離れたものでした。ただでさえ信頼性の悪いエンジンで、慣れない長距離での洋上飛行を行うことはかなり困難でした。

 さらにカタログスペック通りの性能を発揮できたとしても、敵機が振り切れないことも決定的となります。そもそも第二次世界大戦直前にエンジン性能が向上しつつあったところに戦争が始まったため、急速にエンジン技術が発達し、単発のエンジンでも戦闘機はかなり速度が出るようになりました。結果、戦前爆撃機の「高速性能」では対応できなくなります。

 現場の評判も芳しくなかったようで、九七式重爆撃機から乗り継いだパイロットには「『呑龍』の名前の通りどん重」と揶揄する人もいたそうです。結局、早々に後継機である四式重爆撃機「飛竜」へその座を譲ることに。なお、四式重爆撃機「飛竜」に関しては三菱製双発爆撃機の完成形といわれ、当時の人からも四式戦闘機「疾風」と共に「大東亜決戦機(大東亜決戦号)」として期待されていました。

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インドネシア東部ワクデ島で偵察機に捉えられた一〇〇式重爆撃機「呑龍」(画像:アメリカ海軍)。

 そんな、一〇〇式重爆撃機が参加した爆撃作戦のなかで目立った戦果となったのがオーストラリアのポートダーウィン爆撃でした。同作戦で同機は2機が墜とされるものの、残り16機が「スピットファイア」戦闘機の猛攻を耐えきり、爆撃を成功させ帰還しています。ただ、当初陸軍が夢見た爆撃機隊単独での殴り込みではなく、一式戦闘機「隼」の護衛つきでした。

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