貨客船→軍艦へ 空母「飛鷹」竣工-1942.7.31 旧海軍の期待背負うも2年で沈没ナゼ?

旧日本海軍の空母「飛鷹」が1942年の今日、竣工しました。当初は貨客船「出雲丸」として起工しましたが、後に空母へ改造され、南方戦線に投入されます。ただ戦況は、すでにアメリカ軍有利に傾いていました。

空母化を見越して設計された「出雲丸」

 1942(昭和17)年の7月31日は、旧日本海軍の航空母艦「飛鷹」が竣工した日です。「飛鷹」は同型艦「隼鷹」とともに、貨客船を転用し建造された空母でした。

「飛鷹」の元となったのは日本郵船の「出雲丸」。同船は当時、日本最大級の貨客船でした。1939(昭和14)年11月に起工しますが、当初から空母への改造を見越して設計されていました。

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訓練にて、消火装置を稼働させる航空母艦「飛鷹」(画像:stringfixer.com)。

 それから1年あまりのち、旧海軍は「出雲丸」を買収。右舷側に、艦橋と煙突が一体化した大型艦橋を採用しましたが、これは大戦後に登場した大型空母でも多く見られる構造です。進水は1941(昭和16)年6月、太平洋戦争が始まる半年前のことでした。

 ただ、太平洋戦争開戦の半年後、1942(昭和17)年6月に起きたミッドウェー海戦において、日本は主力空母を4隻失い、大敗を喫します。戦局がアメリカ側有利へと傾くなか、「飛鷹」は上述の通り、7月31日に竣工しました。錬成ののち、「飛鷹」は同年10月、西太平洋のトラック島へ前進、ガダルカナル島を巡る攻防戦で初陣を飾ります。このときは、味方艦隊の護衛についたり、艦上攻撃機を発進させ、アメリカ軍基地を空襲したりするなどしました。

 しかしほどなくして「飛鷹」は火災事故に見舞われます。戦線に復帰できないとわかると艦載機を陸揚げし、修理のため日本本土へ向かいました。

 修理と訓練を終え、「飛鷹」は翌1943(昭和18)年3月、戦線に復帰します。再びトラック島へ赴きますが、そのさなかに当時、日本海軍の連合艦隊トップを務めていた山本五十六司令長官が戦死。その遺骨を乗せた戦艦「武蔵」を護衛し、本土へ戻ってきました。

空から海から… 「飛鷹」を襲った魚雷

 1943(昭和18)年6月、「飛鷹」は駆逐艦とともに中部太平洋のマーシャル諸島へ出撃。しかし日本近海でアメリカ軍潜水艦の雷撃を受け航行不能に陥ります。「飛鷹」は軽巡洋艦に曳航され、再び本土に戻り修理を受けます。

 修理後の11月からは、「飛鷹」は物資輸送を主任務とし、再びトラック島へ赴きます。途中マニラ、シンガポール、サイパン島などにも寄港しました。そのようななか翌1944(昭和19)年6月、サイパン島およびグアム島を巡って勃発したマリアナ沖海戦に参加。しかしこれが、「飛鷹」の最期となります。

 すでに制海権・制空権ともアメリカ側に握られており、日米の戦力差は歴然でした。19日、早くも潜水艦によって日本の大型正規空母「大鳳」「翔鶴」が相次いで沈められると、「飛鷹」はそれらの艦載機を収容しています。翌20日、今度はアメリカ軍の雷撃機が日本艦隊を空襲。1本の魚雷が「飛鷹」の機関室付近に命中します。これにより「飛鷹」は航行不能となりました。

 動けなくなった「飛鷹」を、旧海軍は戦艦「長門」を用いて曳航しようと試みますが、そのさなかにアメリカ軍潜水艦が放った魚雷2本が決定打となりました。命中場所はガソリンタンク付近、「飛鷹」は大爆発を起こします。消火もままならず、「飛鷹」は日没後に沈没。一連の海戦で日本側は計3隻の空母と400機以上の航空機を失い、大敗北で終わりました。

 ちなみに同型艦「隼鷹」は戦争を生き延び、1947(昭和22)年に解体されています。ただその要因のひとつが、敗色濃くなるなか燃料や物資が欠乏し、空母の出番がなくなったため、というのは何とも皮肉です。

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