新型コロナ 10都府県に緊急事態宣言

石炭を掘るためだけに存在した軍艦島が語る未来

長崎県長崎市高島町にある軍艦島(写真:Richard A. De Guzman/アフロ)

「軍艦島」は長崎県長崎市高島町にある「端島」の俗称だ。東経129度45分、北緯32度39分に位置し、野母半島の北西、長崎港から約18キロの海上にある。島の南北約480メートル、東西約160メートル、周囲約1.2キロメートルの小島で最も高いところは海抜47.7メートルである。

 その端島で1810年頃に石炭が発見され、佐賀藩が小規模の採炭を行った後、1890年(明治23年)、三菱が島全体と鉱区の権利を買い取って、本格的な海底炭鉱として操業を開始した。島直下と周辺の海底から良質の強粘結炭を採掘し、主に八幡製鉄所に製鉄用原料炭を供給して国家の手厚い保護を受けてきた。しかし、国のエネルギー転換政策の推進に伴って1974年1月15日に閉山し、同年4月20日をもってすべての島民が島を去り、無人島となった。

 明治期には島中央の岩盤に3~4階建ての木造住宅が建てられた。東部平坦地には作業場、西部平坦地には住宅と公共施設、また7階建の小中学校や映画館、料理屋、娯楽場、病院などが建ち並び、最盛期には5200人が暮らしていた。人口密度が東京の9倍とも言われた島の炭鉱が閉鎖された時の人口は2200人だった。

 閉山から41年後の2015年7月5日、軍艦島(端島)を含む近代化遺産が国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界文化遺産に登録された。

 ユネスコに登録された「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」は福岡県・北九州市、大牟田市、中間市、佐賀県・佐賀市、長崎県・長崎市、熊本県・荒尾市・宇城市、鹿児島県・鹿児島市、山口県・萩市、岩手県・釜石市、静岡県・伊豆の国市の11市、23資産で構成されている。

 産業遺産は国際産業遺産保存委員会(TICCIH)が2003年に採択したニジニータギル憲章で、「歴史的・技術的・社会的・建築学的、あるいは科学的価値のある産業文化の遺物からなる」と定義した。その定義に合うような産業遺産を私たちは、どれだけ知っているのだろうか。近年、産業遺産という言葉が使われ始めるまで、多くの人々にとって「廃墟」に過ぎなかった。

 廃家、工場跡、鉱山跡、病院、ホテルなど数え上げれば切りがないが、かつてはそこで産業を育んできた場所や物はいつのまにか忘れ去られ、今となっては何の役目も果たさない。そう言ってしまえば何の価値も見出せないように思える。

 常に新しさや未来を求めていく時代には、消えていった場所や残っていても過去の痕跡を残さないものに価値を見出すことなど考えもしなかっただろう。しかし今、そういった産業遺産を見直す動きが出てきている。

「軍艦島」はその象徴でもある。

なぜ廃墟は人に愛されるのか?

 九州・山口の近代化産業遺産群のパンフレットには「いまのニッポン どこから 始まったのですか?」と書かれている。現在の日本の経済発展はどこから始まったのか。「産業遺産」はそれを知る上で重要な歴史の証人だ。日本のルーツを探るのではない。ほんの100年ほど前の我々の先人が、日本の現在の姿を夢見た足跡なのである。

 この遺産をどう見るかは人それぞれかもかもしれない。一時期、廃墟がブームになった。人が消えた廃工場、集落、説明がないと何に使われたかわからない建造物、そして軍艦島。これら廃墟の写真集が書店の棚に並んだ。

 もちろん、古代から近世までの歴史を知ることは大切であり、日本人のルーツを探る世界遺産は重要だが、日本が飛躍的に発展した近代の産業遺産の痕跡を知り、産業遺産を語り継ぐことは、日本人の誇りを保つ上で重要と考える。産業遺産を見て、感じて、時代の息吹を現在から未来に伝える廃墟が大きな意味を持ち始めている。

「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」は、幕末から明治期にかけて重工業、つまり製鉄、鉄鋼、造船、石炭産業が発展したプロセスを証明する遺産として、世界遺産に登録された。文明社会を形成する過程で国を豊かにしようと試行錯誤を行なった痕跡は、同時に産業を支えてきた名もなき人々の営みの歴史でもある。

上空から見た軍艦島。その名の通り、軍艦に見える(写真:Science Photo Library/アフロ)

 日本最初の近代炭鉱は長崎沖の高島だ。1868年、佐賀藩とグラバーが合弁で採掘を始め、翌1869年、英国人技師モーリスが深さ44mで着炭に成功した。1881年に高島炭鉱を譲り受けた三菱は隣接する端島を1890年に買収し、海洋都市を構築した。

 軍艦島こと端島は「石炭を掘るためだけに作られた」島である。製鉄や船を作る上で重要な原料である石炭の採掘が、唯一の産業だった。

軍艦島にはどんな生活があったのか?

 長崎港を出発した「軍艦島クルーズ船」で40分ほど波に揺られながら香焼、伊王島、高島を眺めながら中ノ島を過ぎると、軍艦島(端島)の異様な姿が現れる。観光客がざわめき始める瞬間でもある。

 各自がカメラを構えてシャッターを切り始め、「まさに軍艦だ!」と感嘆する声が聞こえる。船は徐々にスピードを落としながら島に近づき、聳え立つコンクリートの要塞が間近に迫る。

 乗客がその光景に釘付けになった後、船は島の後方に向かう。乗船客は観光船会社に割り当てられた接岸時間まで島の後方を見物する。鉱業所があった表側の施設はほとんど姿を消し、そこに何があったのかを想像することはできない。

 一方、裏側はその威容を残している。乗船客は海の真ん中に見えてくる高層アパート群に度肝を抜かれる。現在、アパート群や端島小中学校の色あせた白い建物など、47年前の生活の息吹が残る建物への立ち入りは特別な許可が必要で、海上からしか見ることしかできないが、乗客にとってはまさに非日常の光景だ。

 乗船客はカメラを構えたまま説明に耳を傾け、「廃墟、廃墟」と叫び始める。47年前まで、アパートの窓にすべて灯りがついていたという説明が始まるとカメラ手が一瞬止まる。

 もちろん、最初から廃墟だったわけではない。日本の近代化と戦後復興まで日本を支え続けた「石炭を掘るためだけに開発された軍艦島」は時間が止まった場所である。

 海抜47.7メートルの岩肌に白い灯台が建っている。島から人が消えた後に設置された肥前端島灯台で、かつて24時間操業だった島は常に明かりが灯っていた。島全体が灯台の役目を果たしていた。島の灯りがすべて消えた昭和49年4月20日以後、灯台が必要になった。

 島の灯りが消えるまで、そこにはどんな生活があったのか。知られざる軍艦島の生活や朝鮮人労働者やその家族との交友、また世界遺産への道のりと登録、保存や今後の問題点などを連載していく予定である。

 以下、軍艦島の写真をお楽しみください。

軍艦島に上陸する観光客(写真:Richard A. De Guzman/アフロ)

崩れ落ちる建物(写真:Richard A. De Guzman/アフロ)

海から臨む高層アパート群(写真:Richard A. De Guzman/アフロ)

この島に、最盛期には5200人が暮らしていた(写真:Richard A. De Guzman/アフロ

ジャンルで探す