千葉、晴海、横浜…都心のすぐ近くにある「不思議な廃線」その正体は?
「廃線」ときくと山奥をイメージすることも多いが、鉄道は社会をさまざまな場所で支えているため、じつは都会のすぐそばにも存在している。絶景ともいえる路線から、日常に溶け込んでいる路線まで、廃止された今だからこそ見えてくる「風景」もある。
鉄道をこよなく愛し、5年かけて全国の廃線跡を踏破した著者が、その魅力を語るロングセラー『廃線紀行――もうひとつの鉄道旅』から、一部を抜粋して転載する。
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陸軍鉄道聯隊軍用線(@千葉県)
世にも不思議なトンネルの写真を見た。坑門は堂々としているが、奥行きが異常に短く、まるでトンネルの輪切りのよう。しかも、公園のような木立の中に立っている。見た途端、頭の中に「?」マークが点滅した。
この写真が載っていたのは、宮脇俊三さんが編者を務めた廃線ファンのバイブル『鉄道廃線跡を歩く』シリーズ(JTBパブリッシング)の新版である、『新・鉄道廃線跡を歩く』(同)の南東北・関東編。千葉県の陸軍鉄道聯隊軍用線を紹介するページである。
鉄道聯隊の任務は、戦地で兵員や物資を運ぶための鉄道を敷き、車両を走らせること。敵の鉄道を占領したり、破壊したりすることもある。千葉県には、明治41年(1908年)から太平洋戦争終結まで鉄道聯隊が置かれ、演習のための軍用線が通っていた。このトンネルも、演習で構築されたものだという。あり得ないほど短いのは、そのためだった。
トンネルは千葉公園にある
冬晴れの一日、ずっと気にかかっていたこのトンネルを見に行くことにした。トンネルがあるのは、千葉市にある千葉公園の中。ここはかつて、鉄道第一聯隊の作業場(演習場)だったところだ。
JR千葉駅で降り、千葉都市モノレールに乗り換える。千葉公園駅までは一駅だ。東京モノレール羽田空港線の車両がレールの上を走る「跨座(こざ)式」であるのに対し、こちらはレールにぶら下がるようにして走る「懸垂式」。こちらのほうが未来都市っぽくて断然楽しい……と思っていたら、テレビや映画のロケによく使われているそうだ。ちなみにここは、懸垂式のモノレールでは営業距離が世界最長だという。
目指すトンネルは、千葉公園の入り口に近い管理事務所の裏手にあった。狭い駐車場の隅にひっそりと立っている。ほとんど人目にふれない場所で、横には洗濯物が干してあった。
意外と短いトンネル
奥行きはやはり短く、3、4メートルといったところ。いかにもトンネルらしい四角い形は正面だけで、横から見ると、土管状になっている。写真を見たときはトンネルの輪切りのようだと思ったが、実物を見ると、土管の輪切りにコンクリート板を張り付けたような感じである。
公園内にはほかにもコンクリートのクレーン基礎と橋脚が残っている。橋脚は見上げるほどの大きさで、写真を撮っていたら、散歩中の年配の男性に「これは何かの記念碑ですか?」と尋ねられた。地元の人で、ここに鉄道聯隊があったことは知っていたが、この巨大な建造物が何なのかは知らなかったそうだ。先ほどのトンネルには「元鉄道隊演習時構築せる隧道(ずいどう)」、この橋脚には「元鉄道隊架橋訓練跡」と書かれたプレートが取り付けられているが、ちゃんとした説明板がほしいところだ。
軍用線の跡は残念ながらほとんど残っていない。千葉駅に戻り、総武本線で津田沼駅へ向かった。駅の南側にはかつて鉄道第二聯隊の本営があり、その正門が千葉工業大学の通用門として残っている。
赤レンガの門柱に、白く塗られた木の扉。クラシックで美しいこの門は、国の登録有形文化財になっていて、立派な説明板もある。
さっき見てきた千葉公園内の遺構とつい比べてしまった。第一聯隊のトンネルや橋脚は、地味ではあるが、鉄道遺産としても軍事遺産としても貴重なものだ。整備して後世に残してもらえないものだろうかと思いつつ東京に帰ってきた。(2012年12月取材)
@千葉県
[廃止区間]
都賀―八街―三里塚、四街道―都賀、千葉―津田沼、津田沼―松戸・中の浜など
[廃止時期]
終戦後
〈昭和20年(1945年)8月15日以降〉
[路線距離]
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東京都港湾局専用線晴海線(@東京都)
これまで全国各地の廃線跡をめぐってきたが、今回は、私が暮らす東京の廃線跡を訪ねることにした。東京都港湾局専用線の晴海線である。秋の連休の最初の日で、天気は最高。ちょっとしたレジャー気分で近場に出かけ、海風に吹かれて歩くのも悪くないと思ったのだ。
「晴海線」とは
晴海線は、東京都港湾局が敷設した臨港鉄道のひとつで、国鉄越中島駅(現在のJR越中島貨物駅)から伸びる深川線より分岐し、晴海埠頭まで達していた。開通したのは昭和32年(1957年)、日本が高度成長期を迎え、東京の臨海工業地帯への貨物輸送が大幅に増えた頃である。
東京都港湾局専用線には、ほかに豊洲方面に向かう豊洲物揚場線と豊洲石炭埠頭線があったが、トラックの利用が増えたことや工場の移転などによって貨物量が減り、それぞれ昭和60年(1985年)、61年(1986年)に廃止となっている。最後に残った晴海線が廃止されたのは、平成元年(1989年)のことだった。
目指すは“奇跡の橋”
JR京葉線の潮見駅で降り、晴海埠頭を目指して歩く。再開発が進み、線路の跡はほとんどわからなくなっているが、この先には、鉄道ファンにはよく知られた“奇跡の橋”が残っているのだ。
資料で何度も目にしたことのあるこの橋との出会いを楽しみにしつつ、まずは豊洲運河を渡る。ここには現在架かっている朝凪橋と並行して、かつて晴海線の鉄道橋が架かっていた。いまはコンクリートの橋台だけが残っている。
朝凪橋を渡って豊洲地区に入ると、それまでの下町らしい風景が一変して、高層ビルやマンション、巨大なショッピングセンターが建ち並ぶ、超近代的な人工都市空間となる。洒落たカフェやレストランもあり、犬を連れて散歩する人の姿も多い。
豊洲運河沿いは遊歩道になっていて、イーゼルを立てて絵を描いている人が何人もいた。みな運河の上流、隅田川の方を向いている。広々とした運河の先に、隅田川の川岸に立つ高層マンション群を望むここからの景色は、なるほど絵になる。東京を代表する新しい景観といえるかもしれない。
運河の水面から顔を出した橋台にカメラを向けていると、絵を描いていた銀髪の婦人に「何を撮っているんですか」と声をかけられた。昔ここを鉄道が通っていた話をすると、まったく知らなかったとのこと。3年前、新宿区にあった自宅を売って、豊洲に移り住んできたそうだ。
一角に残るレールの跡
ビルの谷間を抜けてさらに進む。昔、晴海線が横切っていた敷地には、いま巨大なビルが建っている。ここで働いている人たちも、自分たちのオフィスがかつての線路の上にあるとは思いもしないだろう。
交差点を渡ると、いよいよ晴海線最大の遺構との対面である。潮風に赤く錆びた鉄骨が、力強くも優雅な曲線を描く鉄道橋、晴海橋梁。真新しいビル群に囲まれて、往時の姿のまま残っている。レールも枕木もそのままだ。
渡ることはできないが、すぐ横にかかる春海橋(こちらは「春」の字を使っている)から間近に眺めることができる。東京湾岸の環境が激変する中、変わらない姿をとどめているのはまさに奇跡的。周囲の景色とのミスマッチがまたいい。
春海橋を渡った先が晴海埠頭だ。アスファルト舗装された倉庫街の一角に、撤去されたレールの跡がかすかに残っていた。(2011年9月取材)
@東京都
[廃止区間]
深川線分岐―晴海埠頭
[廃止時期]
平成元年(1989年)2月9日
[路線距離]
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横浜臨港線・山下臨港線(@神奈川県)
JR根岸線の桜木町駅で電車を降り、ロータリーを越えて東方向に歩き出すと、5分もしないうちに海が見えてきた。ランドマークタワーや、ヨットの帆のかたちをした高層ホテル、大観覧車など、いかにも横浜らしい港の景色が次々と現れる。観光やショッピングを楽しむ人たちで賑わう、みなとみらい地区だ。
ここから山下公園の手前まで廃線跡が残っていることを知ったのは最近のことだ。こんな都会の真ん中で廃線歩きができるとは、神奈川県在住のテツ友に教えられるまで知らなかった。しかも、海風に吹かれながら、明治~大正期に造られた美しいトラス橋を4つも渡ることのできる黄金ルートである。
かつてあった「東横浜駅」
桜木町駅のすぐ東側、いまはロータリーになっているあたりに、かつて東横浜という駅があった。東海道本線の貨物支線の一部で、横浜臨港線とよばれた路線の駅である。
横浜臨港線は大正9年(1920年)までに全線が開通、高島駅―東横浜駅―横浜港駅の4・3キロを走っていた。昭和40年(1965年)にはさらに横浜港駅―山下埠頭駅の2・0キロが開通、こちらは山下臨港線とよばれたが、扱い貨物の減少により両線とも昭和61年に貨物営業を終了している。
横浜臨港線の廃線跡は「汽車道」として整備されていた。ありがたいことにレールは残してある。
ふだんの廃線歩きで出会う人といえば、農作業をしている人や、自転車通学の中高生くらいだが、さすがは横浜、犬を連れて散歩するお洒落な女性や、若いカップル、スーツ姿のビジネスマンまで、多くの人が行き交っている。
このルートには、「港一~三号橋梁」とよばれる3つの鉄道橋が残っていて、それぞれ横浜市認定歴史的建造物となっている。一号、二号橋梁は明治40年代に架設されたアメリカ製の複線トラス橋で、白く塗られた優美な姿をしている。三号橋梁は北海道の夕張川橋梁を転用したもので、こちらはイギリス製である。
3つの橋を渡り終えると、新港地区とよばれるエリアに入る。赤レンガ倉庫の間に引込線が残っており、横浜港駅のホームが復元されている。ここからは山下臨港線の廃線跡になる。
「鉄道橋ってこんなにきれいなんですね」
歩き出してまもなく、4つ目のトラス橋があった。大正元年(1912年)製造の「新港橋梁」だ。橋の全景を撮ろうと土手に回ると、カメラを手にした先客がいた。港一号、二号橋梁のところでも見かけた青年だ。
同好の士に違いないと思って声をかけたが、鉄道ファンというわけではなく、この橋がもともと鉄道橋だったことも知らなかったという。お節介とは思いつつ、かつてここを列車が走っていたことを説明した。「鉄道橋ってこんなにきれいなんですね」と言われ、自分がほめられたような気分になった。
橋を渡った先から山下埠頭駅まで、現役時代の線路は高架上を走っていた。現在は「山下臨港線プロムナード」となり、山下公園の入り口まで、港を見下ろしながら線路跡を歩くことができる。汽笛が聞こえ、船の出入りが見える、最高の散歩道だ。
レールは残っていないので、歩いている人のほとんどは、ここが線路だったとは気づいていない。手すりにもたれて港を眺めるカップルに教えてやりたい衝動にかられたが、ぐっと抑えて思いとどまった。(2012年9月取材)
@神奈川県
[廃止区間]
a:高島駅―横浜港駅
b:横浜港駅―山下埠頭駅
[廃止時期]
a;昭和62年(1987年)3月31日
b:昭和61年(1986年)11月1日
[路線距離]
a:4.3km
b:2.0km
地図作成=読売新聞社
(梯 久美子)
01/11 06:10
文春オンライン