「アフリカの実情を伝える、むきだしの喜怒哀楽」三浦英之×須賀川拓『沸騰大陸』
今最も注目されているルポライターの一人、朝日新聞記者の三浦英之さんが、新刊『沸騰大陸』を上梓します。アフリカ特派員時代の未発表メモをもとにした、短編ルポ・エッセイ集です。
アフリカの実情を伝える、むきだしの喜怒哀楽
今最も注目されているルポライターの一人、朝日新聞記者の三浦英之さんが、新刊『沸騰大陸』を上梓します。アフリカ特派員時代の未発表メモをもとにした、短編ルポ・エッセイ集です。
アフリカを舞台とした作品に定評のある三浦さんが、次なるテーマに選んだのは、テロや紛争と背中あわせで生きる、市井の人々の「日常」。苛酷な運命に翻弄されつつも、逞しく生きる人々の笑顔、壮大な自然の美しさなど、バラエティに富んだ三四編が収録されています。
今回、三浦さんと対談したのは、TBSの「戦場記者」として知られる須賀川 拓 さん。中東やウクライナなど紛争地の様子を、テレビや映画でリアルに伝えてきました。
日本を代表するジャーナリストのお二人に、「現場」で取材するからこそ得られる喜怒哀楽や葛藤について、じっくり語っていただきました。
構成=坂田拓也/撮影=松田嵩範
ヘッドラインにならない
日常を描く
須賀川 三浦さんの新作、息継ぐ間もなく夢中で読み終えました。三四編の一つひとつが、短いのにとても濃厚でした。これまでの三浦さんのアフリカ取材作とは趣向が違いましたが、本当にすごくよかったです。
三浦 ありがとうございます。僕はアフリカについては、これまでに三つの大きなテーマを本にしました。象牙の密猟を追った『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』、自衛隊の南スーダン派遣の闇に迫った『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』、日本企業がコンゴに子どもたちを置き去りにした事件を掘り起こした『太陽の子 日本がアフリカに置き去りにした秘密』。そうした大きな事件や政変に目を奪われる一方で、アフリカの日常に得難いものを感じていたんです。その国の息吹や実情を真に表しているのは、一人ひとりの営み、小さな物語なのではないかと。それをずっと書きたいと思っていました。
須賀川 それはすごく伝わりました。一つひとつの話に、登場人物の表情とか心情が入り、息遣いが感じられました。僕も現場で取材をする中で、テロなどの大きな事件自体を報道するのは大事ですが、そこにいる人の表情や小さなエピソードを積み重ねて初めて伝えることができることもあるのでは、と感じています。
三浦 今回、僕が須賀川さんに対談をお願いしたいと思ったのは、まさにそこなんです。二本の映画作品(『戦場記者』『BORDER 戦場記者×イスラム国』)を観ると、須賀川さんは紛争地に入り込んだその奥で、子どもたちや市井の人々にそっとマイクを向けている。普段の営みを通じて現場を伝えようとしていて、すごくいいな、と。
須賀川 テロや空爆はテレビニュースのヘッドライン(見出し)になりますが、人々の日常は採用されづらい傾向があります。しかしパレスチナのガザ地区へ行くと、ガレキの山の脇のケバブ屋の店主が「あそこで四六人死んだんだ」と大らかに言いながらケバブをバンバン売っている。「生きていくしかないから食っていけ」と言わんばかりに。それこそが、ヘッドラインにはならないがとても大事な現実じゃないかと。
三浦 本書にも収録した話ですが、僕も同じことを、ナイジェリア北部でイスラム過激派「ボコ・ハラム」を取材した時に感じました。彼らは誘拐した少女に爆弾付きのベストを着せ、市場などの人混みの中に誘導して遠隔操作で爆破する。そんな非道なことは許されないと現地に入ったんですが、驚くことに、地元の多くの人がボコ・ハラムを支持している。なぜかと聞くと、政府の汚職の方がはるかに酷いと言うんです。ボコ・ハラムは何千人も殺しているけど、政府も同じ数の若者を虐殺していると。こうした現実をどう受け止めるか。
須賀川 難しい。本当に難しいですね。
三浦 須賀川さんは、映画の中でイスラム国の旧支配地のキャンプに入り、今もイスラム国の存在を信じている女性たちにインタビューをしていますよね。その映像を観てすごいなと思ったのが、ナレーションで余計な意味づけをしないところです。観る側に解釈を委ねている。
須賀川 自分なりに意味づけはしていますが、それを視聴者へ押しつけたくはないんです。テレビの現場を知ると驚くでしょうけど、先に結論があり、段取りをし、ナレーションで意味づけする人もたまにいるんです。これが本当に必要なのか、結論に沿って取材するのではなく、もっと自由に現場の出来事を重視すべきじゃないかと。三浦さんはきっとそういう現場重視の取材をされているんだなと感じました。
三浦 新聞記者の場合、「台本」がそもそも存在しないので、その場で感じたことを書くしかありません。だから、僕は次に出す本は、アフリカで五感を使って取材した「喜び」や「怒り」、「哀しさ」や「楽しさ」を多面的に伝えられる本にしたいと思ったんです。アフリカで触れた人々の、むきだしの喜怒哀楽は、ものすごく熱く、濃く、ヒリヒリとしたものだったから。
須賀川 「怒り」または「哀しさ」かもしれませんが、ルワンダ大虐殺の話が収録されていました。多数派のフツ族が少数派のツチ族を虐殺したという事件から長い年月が過ぎ、ルワンダは経済成長して成功モデルになっていますが、自分の両親ときょうだい全員を殺した犯人が今も近隣に住んでいるという現実があるなんて。被害者の葛藤は想像できるものではありません。「人を殺してはダメ」「戦争はダメ」と叫ぶのは簡単ですが、一方で和平というのは、誰かが凄まじい痛みを何とか耐えてようやくなし得るものだということをガツンと思い知らされます。
三浦 ルワンダの教会へ行くと、レンガの壁がわずかにへこんでいるんですよ。日曜教室の先生が少数派ツチ族の子どもを捕まえ、足を持ってバーン、バーンと子どもの頭を壁に打ちつけた跡なんです。
大虐殺が起きたきっかけは、「ゴキブリを殺せ」とラジオが扇動したこと。今、世界各地で繰り広げられている、心ないヘイトスピーチのその先で、一体何が起きたのか。一人でも多くの人に、現実を知ってほしいと思って書きました。
カメラマン
または現地助手の存在
三浦 実は僕はテレビを持っていないんです。須賀川さんの存在は、最初はSNSで知りました。テレビが主戦場だと思いますが、現場の状況をSNSでも事細かく発信されて、注目されていますよね。
須賀川 実は社内では「戦場記者」ではなく「炎上記者」と揶揄 されています(笑)。テレビのニュースは時間が短いので、ディテールは省略せざるを得ないんですね。SNSでは、映像を観ただけでは伝わらないディテールを発信しています。するとそれを熱心に観てくれる人がいて、信頼にもつながりますし、逆にアンチも増える。いずれにしてもSNSでは「背景を知らない」「対象について詳しくない」ということはすぐにバレてしまいますね。
三浦 聞きかじりで、それっぽく政治や社会問題を語ろうとすると、結局、誰かの受け売りになってしまう。僕もアフリカに赴任した直後は、怖くて何も書けませんでした。だからこそ現場へ行って、自分が見たり聞いたりしたことを、そのまま正直に書こうと思ったんです。
須賀川 見たままと言えば、赤土を混ぜた顔料を全身に塗ったヒンバ族の女王を取材した話も興味深かったです。女王のショッピングセンターでの買い物に同行し、村へ招かれるという。三浦さん本人の好奇心や驚き、戸惑いがダイレクトに伝わってきました。これに理屈をつければ、つまらなくなってしまいます。
三浦 須賀川さんの映画の中では、特に須賀川さんの表情が「雄弁」なんですよね。危ない時は〝ヤバい〟という顔をしている。アフガニスタンで、麻薬中毒者がたむろしていて、悪臭が漂う橋の下へ入った時とか、まさにそう。危険な現場では、表情を作ったり演じたりできないですものね。同行しているカメラマンも怖いはずなのに、すごい映像を撮っている。
須賀川 カメラマンにはいつも感謝しているんですよ。テレビの世界では本来は影の存在ですが、僕は撮影中にカメラマンに平気で話しかけたりするし、カメラマンからの指示もそのまま作中で使ったりしています。これまでなかった形ですが、どんな人が映像を撮っているのかも観る人に情報として伝えたいんですよ。本書でも「助手」がよく登場しますね。
三浦 アフリカに駐在していた時、サブサハラ(サハラ砂漠以南)の四九カ国を担当していたんです。大統領の名前すらすべて覚えきれないのに、広大な大陸を記者一人で取材なんてとてもできません。現地のフィクサー(取材助手)に下調べをお願いして、彼らのネットワークを使って取材するのが普通です。かつての日本の国際報道だと「記者が一人で取材した」という体裁が多かったのですが、実際は違う。そうした事情は新聞では行数の都合で書けないけど、本の中では正直に書くようにしています。須賀川さんも映画のエンディングでフィクサーを次々紹介していて、素晴らしいと思いました。
須賀川 本当に、いい助手がいるかどうかが大事ですよね。僕は紛争地へ行く時、安全確保も兼ねて退役軍人などミリタリー・コーディネーターにも同行してもらっています。
三浦 アフリカにも危険な場所は多いですが、日本人に対しては、歴史的にも対立する理由がなく、むしろ友好的ですよね。須賀川さんが現場で一番怖かったのはどこでしたか?
須賀川 アフガニスタンです。タリバンの中に、超強硬派のハッカーニ・ネットワークという、アメリカを後ろ盾とした政府軍と最も激しく闘った集団がいるんです。首都カブール近郊に拠点の村があるんですが、タリバン政権になる前は、村へ至る道のあちこちに爆弾が仕掛けられていたんですよ。地元の人も近づかず、取材を希望すると「死にたいのか?」と。ところがタリバンが政権を奪取した後は、少し安全になり、フィクサーの尽力もあって行けることになったんです。実は、今進めている取材の一環で詳しくは言えませんが、現地に行く道中も行ってからも緊張の連続で。取材を終えて村長に挨拶した後、フィクサーとドライバーは村長たちの姿が見えなくなるのを待って、車の下を覗き込みました。爆弾が仕掛けられているか確認するためです。本当にヤバいところへ来たと冷や汗が出ました。
「想定内」ではない
子どもたちのこと
須賀川 三浦さんはご自身で撮影もされますね。カバーを始め、本書にも多くの目を見張る写真が収録されています。取材先での撮影の際、思い通りの絵を撮ることは難しくありませんか? 特に子どもたちはカメラを構えるとすぐに寄ってきますよね。
三浦 僕が行ったウガンダの難民キャンプには、八〇〇〇人の子どもがいたんです。全員が孤児で、目の前で両親を虐殺されたり、家族をレイプされたりした子どもばかりです。新聞記者としては、涙を流して悲しむ彼らを撮りに行くのですが、カメラを向けるとみんな、めっちゃ笑顔(笑)。アフリカでは、口に出すのもはばかられるような、むごい話も多いのに、「私の話も聞いて」「僕の話も聞いて」と、にこにこしながら寄ってくる。
須賀川 難民キャンプの子どもでも美味しいものを食べれば笑うし、楽しいことがあれば喜びます。まして外国人が行けば子どもたちは好奇心から寄ってきますね。これまでメディアは難民の悲しむ顔だけを切り取ってきましたが、SNSが発達した今は、それが欺瞞 であることはバレてしまっている。今の時代のメディアの役割は、ありのままをちゃんと伝えることなんじゃないかと思います。
三浦 映画の中で、須賀川さんはイスラム国戦闘員の妻と子どもが収容されているキャンプを訪ねていますよね。しかし、そこでは子どもたちは(須賀川さんから)遠くへと離れていき、子どもの一人が、須賀川さんに「お前の首を斬って殺してやる」と言い放つ。その時カメラは、その子どもの顔を真正面からとらえている。そんな現実を、僕は見たことがなかった。全然「想定内」じゃない。心がザラつきました。
須賀川 この子どもたちに未来はあるのかな、と感じてしまいます。
三浦 僕は、本の中でも書きましたが、生 け贄 として生き埋めにされそうになり、直前で救出された子どもたちを保護しているシェルターに行ったんですよ。その時、シェルターのスタッフは、わざわざ子どもたちにプールで水遊びをさせて、そこに僕たちを呼んだ。
須賀川 なんでプールだったんですか?
三浦 頭や背中を鉈 で斬られた子どももいたし、足のない子どももいました。裸になっているので、傷痕が見える。シェルターとしては、日本のメディアに問題を取り上げてほしいし、実際、僕も写真を撮りました。しかし、僕も裸になってプールに入って一緒に遊んだ時、実は苦しくて仕方がなかった。こうして一緒に遊んでみたところで、何かの罪滅ぼしになるわけじゃない。自分が正しいことをしているか、問われているような気がして、いたたまれなくなりました。
銃弾一発ですべてが変わる
三浦 僕は本書でアフリカにおける無数の「生」と「死」を取り上げましたが、それは命には限りがあることを伝えたかったからです。紛争や病気、事故などで、命はある日、突然消えてしまう。僕がこれまで取材した現場で、満足して死んだ人は一人もいません。皆、悔いを残して死んでいく。「死」に向き合うことで、人は初めて「生」について考えられる。様々な死に触れ、僕自身は一生懸命生きて、一つでも多くの良い記事や良い作品を世の中に送り出したい。そして、自分が関わる人には、できる限り優しくありたい。
須賀川 本を読んでいて、三浦さんの優しさを随所に感じました。怒りとか絶望がありますが、その根底に優しさがある。
三浦さんが重度障害のある双生児の写真を撮ろうとした話がありました。その時、お金を要求されて、その取材を打ち切りますよね。これは一つの優しさだと感じました。僕も、お金を要求されることは少なくありませんが、僕は違った判断をしたかもしれません。
三浦 そこには答えがありませんよね。
須賀川 本書の後半で、PKO(国連平和維持活動)で自衛隊が南スーダンに派遣された時の話も書かれています。
三浦 あの時、僕は「大スクープ」をものにしました。現地が危険な状況になる中、隊長の判断で、隊員に射撃許可が出されていた。隊長は隊員を守るために、この件を僕に話してくれたのだと思います。でも日本政府は、これを契機に海外での武器使用を条件付きで認める安保法制を通そうとした。僕の記事は、結果的にその流れを後押しすることにつながった。「事実」は常に、政治に利用される危険性を内包しているのです。
須賀川 その時の三浦さんの葛藤は想像に余りあります。
三浦 とはいえ、僕は事実を隠すことを良しとしませんでした。書かないという選択肢は僕にはなかった。それから数年後に自衛隊は撤退しましたが、派遣が続けば、隊員が殺されていたかもしれないし、逆に誰かを撃っていたかもしれない。
須賀川 一発撃てば終わり。すべてが変わります。
三浦 そうです。一発撃てば、これまで戦後の日本が築いてきたすべてが崩れる。アフリカに行くと、皆、日本に対しては好意的です。その背景には、日本は戦争をしないと決めた特殊な憲法を持つ「平和国家」としてのイメージが強くある。
須賀川 中東でも同じです。それは現場に行かなければ分かりませんね。憲法九条があるからかもしれないし、外交が積み上げてきたものかもしれないし、トヨタやソニーの製品のおかげかもしれない。複合的に要因が重なってはいますが、日本は戦後八〇年、事実として海外で弾を撃っていません。とはいえこれは、一発の銃弾が放たれただけで変わってしまう。
三浦 「戦争をしない国」というイメージに対する信頼感が凄まじく厚いということを、我々のような記者は海外取材で身に染みていますね。
須賀川 現場にいる人間にしか分からないこうした実感を伝えていかなければならないと感じます。
三浦 今日はアフリカの話をたくさんしましたが、実際に取材してみると、日本とアフリカは随分違うようでいて、それほど違わないのかもしれないと感じることが多いのです。一人ひとりの人間として、深く通じ合うところがある。本書に描いた、遠くて近い「アフリカ」を通して、「生」とは何か、「死」とは何か、その上で、我々が絶えず追い求めている、人生における「豊かさ」とは一体何なのかについて、考えるきっかけにしてもらえたら嬉しいですね。
11/10 12:00
集英社オンライン