〈没後22年〉政治家・石井紘基は誰に殺されたのか? 彼が知った「日本がひっくり返るくらい重大なこと」とは?

『わが恩師 石井紘基が見破った 官僚国家 日本の闇』(泉房穂著・集英社新書)の出版を記念して、2024年10月1日、新宿のロフトプラスワンで、トークイベント”泉房穂出版記念 恩師・石井紘基元衆議院議員を語り尽くす夜”が開催された。

【写真】石井紘基氏の娘、石井ターニャ氏

元明石市長で衆議院議員も務めた泉氏の恩師にあたる、石井紘基の死から22年。石井氏と生前交流のあったジャーナリストの今西憲之氏を司会に、今回の本で泉氏と対談を行なった、石井紘基をよく知る3名もゲストとして登壇。

石井氏の長女である石井ターニャ氏、石井氏と共にカルト被害者救済に尽力してきた弁護士の紀藤正樹氏、そしてzoom出演で、石井氏を財政学者として再評価している経済学者の安冨歩氏が、「今を生きる石井紘基」をテーマに、日本のこれからを泉房穂と語った。
*本稿はイベントの談話を記事用に編集したものです。

石井紘基が今に投げかける「問い」とは?

〈石井さんの訃報を聞いたのは、明石で弁護士をしているときでした。忘れもしない2002年10月25日。旧民主党の衆議院議員・石井紘基は、朝、国会に向かうところを、世田谷の自宅駐車場で、右翼団体代表を名乗る男に刺殺されたのです。

私はテレビのニュースで事件を知り、「えっ、石井さんが!?」とただ驚くばかりでした。すぐに家を出て、東京へ向かいました。

石井さんとは、そのすこし前に電話で話したばかり。突然の死の報せには、驚きしかありませんでした。でも、心のどこかで、石井さんはいつか殺されるかもしれない、そんな予感があったのも事実です。 『わが恩師 石井紘基が見破った官僚国家 日本の闇』より〉

イベントの冒頭、泉氏が音頭を取り、石井紘基氏に献杯。亡き恩師への思いと、今回の著書を出すに至った経緯を語った。

 わが恩師、本当に恩師です。石井さんの存在なくして私は弁護士になっていませんし、国会議員にもなっていない。石井さんの背中を追う形で生きてきた者として、石井さんの享年である61歳、私も今年の8月で同じ61になり、まだまだ石井さんのやりかけたことをやり切れていないという強い思いもあったものですから、あれから22年が経ちましたけど、石井紘基さんが投げかけた「問い」というものは、現在進行形で今の私に刺さっている。そう思っています。

今回の本にも書きましたけど、石井さんは「正義の政治家」と言っていい方だと思います。「困っている人を救う」という被害者救済、そして、「不正はどんな相手でも許さない」という信念で戦っておられた政治家でした。石井さんがやりかけていたことを改めて、今の私たちが、現在進行形で態勢を整えてやるべきであり、その必要性も、今回の本には書いてあります。

具体的な言葉でいうと、「私たちの税金がどこに消えているんだ?」と。「こんなに一生懸命働いて負担もしているのに、どうして私たちの生活は楽にならないのか?」というあたりも含めて、20数年前の過去の問題ではなく、「今の問題」として投げかけたい思いで、私一人で本を出すのではなくて、ぜひ御一緒にと思って、ご家族の、そして石井さんの秘書でもありましたターニャさんの視点や、同志として戦っていた紀藤弁護士。

紀藤弁護士は本当に同志でしたから、石井紘基さんを最もよく知る方であり、石井さんが亡くなってからは、その死の真相究明に取り組んでこられた方でもあります。そして安冨先生は、石井さんが亡くなった後に、石井さんのやってきたことを高く評価していただいている方でありますので、そのあたりの話を今日はぜひお聞きいただきたいと思います。

真実はいつか伝わると信じていた

父親を事件で亡くすという、苛烈な体験をした石井ターニャ氏。表舞台から遠ざかり、長く沈黙を守ってきたが、今回の本の対談では事件前後の状況や、20年来秘めてきた思いを打ち明けている。父の名を冠した本の出版にあたり、どのような思いで、泉氏との対談に応じたのか。

石井 あの日から、今年の10月で22年が経ちます。今日、紀藤先生が持ってきてくださった『石井紘基その遺志を継ぐ』(明石書店、2003年)という本。これは父が亡くなったときに、関係者の文集みたいな形で出されたものですけれども、、この文集を除けば多分、「石井紘基」という名前のついた本は、父亡き後、今回の本が最初です。

そういった本が出るということは本当に……、実は今、母(ナターシャさん)が病を患ってしまいまして、今年の3月頃、もう駄目かなという場面があったんですけれども、そこから今、なんとか持ち直しています。母がまだ元気というか、会話できるうちに、この本も見せてあげれたらということで、いろんな意味で思いが詰まっている本です。

先ほど泉先生が、61歳で、父が亡くなった年になったとおっしゃって、私も、父が政治の世界にチャレンジした頃の年齢になりまして、物の見かたが年齢とともに変わってきたということ。そして今回の本でもいろいろ質問がありましたが、政治との関わりとか、父の残したものをどうやって皆さんに継いでいったらいいのかなとか、いろんな葛藤や悩みがありました。

父が亡くなってすぐの時は、偏向報道というか、事実が正しく伝えられていなくて、人知れず悲しんだり苦しんだりしてきたんですけど、それでも私は信じていたんです。心の中で、「真実は必ず明らかになるんだ」と。父の仕事に誇りを持っていました。

父も生前「死んでから自分の仕事を理解してもらいたい」と言っていたので、父が国民のために心血注いで命をかけた仕事には、必ず光がさすとの信念がありました。それが今、泉先生のたいへんな御活躍の中で、こういった本を出していただいて、実を結ぶ時がきたのだと。

1冊の本を頼りに石井さんを信じた

泉房穂が石井紘基と出会ったのは、20代の頃。当時、テレビ朝日の契約スタッフとして、「朝まで生テレビ!」などの制作に参加していた泉は、1冊の本に感動する。タイトルは、『つながればパワー 政治改革への私の直言』(創樹社、1988年)。

1960年代に社会主義国家のソ連に留学し、帰国後に社会民主連合で事務局長を務めていた無名の新人、石井紘基の著書だった。

 当時は知名度もなかった石井さんが、大きな組織に依拠せず、「市民と市民がつながったらパワーになる、社会を変えられる」という思いで、国会議員立候補を決意して書いた本なんです。

この本を私はたまたま、25歳の時でしたけど、高田馬場の芳林堂書店で、背表紙を見て立ち読みして、感動して、引き込まれる本を買って、知りもしない著者である石井さんに手紙を書いたわけです。

「あなたのような方にこそ、ぜひ政治をやってほしい!」と。この人は本物だと私は思いました。その後、二人で選挙運動をして、私が応援した1990年の衆議院議員総選挙では当選できなかったけれど、次の1993年に石井さんは衆議院議員になり、「官僚国家 日本」の闇に迫る活躍をなさいました。

私は1冊の本を頼りに石井さんを信じ、石井さんの背中を追いかけ、そして「まずは弁護士になりなさい。弱い人の味方になりなさい」といった石井さんの言葉を信じて生きてきました。

その立場から、安冨教授の話もそうですし、紀藤先生の話を聞いていても、「石井さんは本物だったな」と改めて思っていて、ターニャさんのような実の娘ではありませんけど、私も息子のような思いで、石井さんが今評価されていることをうれしく思っています。

石井 父の死後、国会で数多くの法案をつくったのは、泉先生ですから。2003年に衆議院議員に当選なさって、2年間で膨大な法律の原案を一人でつくって。形式上は先輩議員の名前を載せて提出しないといけなかったけれど、私の秘書時代の仲間で、議員となった友人達から、「当時の議員立法は全部泉さんがつくった」と聞いていました。

そして泉先生の最初の国会質問「総合法律支援法案に関する国会質問」は、魂の叫びでした。今回の本にも再録されていますが、本当に鳥肌が立つような、涙が出るようなすごい質問だったと、同期の議員の間でも語り草になっていました。父の魂も残っていると思ったと。

 2002年に石井さんが亡くなられて、翌年に私が遺志を継ぐ形で国会に議席を得て、石井さんのやりかけであった「被害者救済」に着手しました。紀藤さんと一緒にオウム真理教事件の被害者も含めて、犯罪被害者を救うと。

石井さんは、国の不透明なカネの流れを追う不正追及のみならず、そこに被害者がいれば全ての被害者を救い切るという弱者救済に、「それは政治家の責任だ」という思いで取りかかっていた。なので、私は少なくとも「弱者救済」は引き継ぎたいと思って、石井さんの後を継いで、その後、「犯罪被害者基本法」の制定などに、議員立法で関わらせていただいたわけです。

ですから弱者救済については、「石井さんのやりかけていたことを果たしたい」という思いは、ありました。ただ、石井さんのもうひとつの正義であった「国家の不正追及」については、私は研究していなくて……。

石井 泉さんの専攻は教育哲学でジャンルも違います。父は法哲学科の出身で、どちらも哲学というのが根底にあるように思います。

父にとっては、学生運動の時に体をはって学生を守った社会党委員長の江田三郎さんのイメージが大きかった。その時の国民を守る姿が、いつも父の脳裏にあり活動の原動力となっていたのではないかと思います。泉さんと父では、世代の違いや取り組む課題も、それぞれ違うのは良いと思います。

父は、坂本龍馬が好きでした。坂本龍馬がいいかどうかは別として、龍馬のように「自分は太く短く生きるんだ」みたいな決意がどこかにあったのではないかと思います。

父は60年安保の世代で、学生運動のリーダーだったんですよね。デモ隊が国会の門に押し寄せて、国会議員はみんな安全なところに隠れているわけです。そして警察が暴力的にデモ隊を鎮圧しようとする中、ただ一人、老境の江田三郎さんが警官の前に立ちはだかり、ホースの放水を浴びていた。

国会議員という立場にも関わらず、権力側ではなく、学生の側に立っていた。父はその姿を見て、感動したという話なんです。

だから多分、父は江田三郎さんを常に意識していて、「政治家の姿」を貫こうとしていたという気がするんです。

そして、もう一つの原動力は、父が亡くなった後、地元の支援者の方々と会うたびに、「ああ、父はこの方たちの顔をいつも思い浮かべていたから頑張れたんだな」という気持ちが自分の中に湧いてきたんです。だから、きっと父は、自分を支えてくれている人たちを、いつも脳裏に浮かべながら頑張っていたのだと思います。

でも一方で、テレビのドキュメンタリー番組(「『日本病』の正体~政治家 石井紘基の見た風景」フジテレビ、2003年)でも公開されたように、父が友人に宛てた最後の手紙には、「こんな国のために命を懸ける必要があるのか、自問自答している」みたいな葛藤もありました。それは多分、この国の腐敗した仕組みや、権力にぶらさがる勢力のことを言っていたのだと思います。

そんな中で、父は絶対に脅しにも屈しなかった。安冨先生も、「脅しに屈しないというのは、石井紘基の原動力が知的好奇心だったからだ」とおっしゃっていましたが(第2回に掲載)、同時に、江田三郎さんの姿を思い浮かべて、「危険にも恐れず立ち向かう」ようなところが父にはあったのではないかと推察しています。

「つながればパワー」という信念

今西  『つながればパワー』。この本が出た1988年当時は、せいぜい携帯電話があったぐらいで、今みたいにSNSでつながるとかメールでつながるということができなかったわけですよね。このときつながろうと思ったら、泉さんみたいに手紙を書くか、電話するしかなかった。その頃から「つながればパワー」という先見の明がすごかったなと思うんですけど、どうですかね。

 先見の明もすごいけど、40過ぎの当時の人が、「つながればパワー」で政府に勝てると思うのがすごいよね。逆に私はこれに感動して、大きな組織、団体ではなくて市民を信じて、市民の力と力が重なり合えば力になって勝利できるんだと、社会は変えられるんだと。その信念を私はこのタイトルからも一貫して、石井さんに学びました。

どっちを見て政治をするか。それは国やお偉いさんではなくて、庶民の方を向いて仕事するのだと。信じるのは庶民だと。一番すごいのは、本当に感動するのは、石井さんは庶民の力を信じていたということ。

たとえば、民間の機関で国の会計をチェックする「国民会計検査院」をつくるという構想。普通思わないですよ。選挙に何の得もないですよ。「国民会計検査院で私たちの払ったお金の流れを、税金の使い道を透明化していこう」ということを、早い段階で言っておられた。

石井さんの『つながればパワー』の帯文って「私は政治をこう変えたい」、副題は「政治改革への私の直言」ですよ。政治改革が必要だということを1988年に叫んでおられて、国会議員の国政調査権を使って、お金の透明化もはかろうと動かれたわけですよ。

それはまさに、今の問題ですよ。裏金問題もそうだし、私たちのお金はどうなっているかも、当時から今に全部つながっている話で、石井さんは30数年前にそれを見通し、庶民、国民の力を信じていた。

今振り返ってみますと、私は石井さんに対して思うのは、やっぱり「自分の中に今も生きている」のはほんまにそうで、明石市長の時も、しんどい時もありましたけど、その時も石井さんの思いというものを自分も受けながら、「信じるべきは市民なんだ」と。最後は市民が立ち上がってくれて、きっと市民が一緒になってやってくれるという思いは、ずっと根っこにありました。

石井さんなくして明石市長としても頑張れなかったし、そういう意味では、私の中では石井さんは生き続けているし、私がまだ果たしていないもう一つの正義である「お金の闇」。

今回の本では、私が衆議院議員時代に見た、財務省と厚労省の抗争の歴史や、国交官僚の無駄遣い競争についても書きました。これからは、明石市長時代にはできなかった、国家の不正の研究も、しっかりやっていきたいと思っています。

生きてやり抜け、無駄死にするな

日本が、崩壊寸前のソ連と同様の「官僚社会主義国家」であることを見抜き、国家予算でブラックボックス化していた特別会計を調査していた石井紘基。

「日本がひっくり返るくらい重大なこと」を知り、その資料を国会提出する2002年10月25日、何者かにより、自宅駐車場で刺殺された。翌日、犯人を名乗る男が警察に出頭し、逮捕されるが、その後も石井氏の関係者が襲われたり、脅されることがあったと、この日のイベントでターニャ氏は明かした。

石井 こういう場で言うのは初めてですけど、実はある組織の方から、父のことを「2回警告したけど聞かなかったから……」と言われたんです。ですから、あの事件の背景には想像よりもずっと大きな組織があったようなんですよ。私も父が亡くなる前後は政治を離れていたこともあって、父を取り巻いていた状況を理解するために、ずっと沈黙して観察していたんですよね。

そうしたら「ああ、この人がこういう動きをしていたのか」というふうに、政治の世界の裏というか、野党もこういう裏があるのかといった構図が見えてきて。

「なんで私はこれを見せられているのかな?」ということも思うんですけど、結局でも今この時代、我々が「洗脳されてる」と言ったら変ですけど、「思い込まされている」ことというのは非常に多くて。父が調査していた、この国の構造もそうですけど、表面的に見えている世界と、実際とは違いますから。

 生々しい話ですけど、2002年に石井さんが殺されて、その翌年の2003年には私は国会議員になってるわけですね。その時に私も周りの国会議員から、「やめておけ」と随分言われて。そのネタは触らない方がいいと言われ、さらにその前の石井さんが殺された段階でも、国会議員のチームで、真相解明に向けて動いたことはあったんです。

でもそれも、批判する気はありませんけど、皆さんビビってしまって。やっぱりもう、ああいう殺され方をしてしまうと、みんな本音としては「もう触らないでおこう」ということになってしまい、有志でチームを組んでいた動きが、完全に止まってしまった。

私自身も国会議員になった時、改めてその方々に「やりましょう」と声をかけたんですけど、「泉くん、無理しない方がいいよ」と言われたので、あの時点で、本当はもっと真相を究明する動きを作っていれば違ったかなと。これは自分の反省も含めてですけど。

石井 いろんな思惑があります。だから選挙の中での思惑とか、政治の中でも裏社会的な組織みたいなものもあったし。あまり知られていないんですけど、事件直後に、父と活動していたある国会議員が演説中に切りつけられているんですよ。

近年、国会Gメンの資料を見ていたら、ほとんどその議員が請求した資料でした。でも、その人を含めて皆さん、事件後は口を閉じてしまって。ある同僚議員を除いては、みんな何か知っていても「知らない」みたいな感じで。

他にも、事件の1週間後に起きていたある脅迫を、つい数か月前に私が知ったというようなこともあります。犯人としてすでに拘置所に入っている人がいたのに、では誰がやっているのですか?と。

その件も周りの人が私に気を遣って、知らせなかったようです。

 2002年って実はもう一つ事件があって、違うようで私の中では共通するんですけど、三井環事件というのがありました。検察庁の現職の幹部が、「実は検察も裏金を作っている」ということを告発しようとして、テレビ局の取材に応じ、その収録に行く途中に微罪で逮捕された。本当に単なる微罪なのに、結局裁判で実刑を受けて、完全に口封じをされたという事件です。

当時の大阪地検特捜部が、身内の裏金を揉み消すために国策捜査をして、内部告発者を逮捕したのが2002年。あの頃の空気感というのはやはり、「物言えば唇寒し」の感があり、その空気感の中で石井さんの事件が起きました。

だから石井さんの周りの皆さんも、自分が可愛いというか、怖いという気持ちもあったので、事件の真相究明よりも、「触らぬ神に祟りなし」となってしまった。でも敢えて言うなら、紀藤さんは石井さんのために事件直後から立ち上がって、ホームページ(「故・衆議院議員石井こうき事件の真相究明プロジェクト」)を立ち上げ、真相究明を呼びかけていました。

紀藤さんは体を張って、今日まで不正と戦ってこられた方だし、石井さんの件も最初から一貫して筋を通しておられる。でもその紀藤さんをしても、未だに真相がわからない状況ですからね。

紀藤 これは国会議員になって、国政調査権を使って調べないとかなり厳しい。弁護士の力では無理です。より強い権限を持った調査をしないといけない。やっぱり国会議員がビビっちゃったら、もう難しいですよね。ビビらない国会議員をつくるしかないです。

今西 それはもう、ピンクのシャツのこの方しかいらっしゃらないかなと思うんです。

 そこは結構本音で、申し訳ない気持ちがあるんですよ。石井さんが殺された翌年に、「恩師の遺志を継ぐ」と言って、国会議員になったにもかかわらず、事件の真相究明や不正の追及は手付かずの状況で。国家の闇が不問に付されたことから、今の日本になってしまっている部分があるので、私としても責任を感じている。そういう気持ちはありますね。

石井 でも私は心配していたんです。父の1周忌の時に、泉先生は石井紘基を熱く語られて、あの時も父を罠に陥れたと噂されたような人たちがいっぱい来ていたんですよ。それで私は「泉さん、目つけられちゃうな」と思って心配をしていたんですよね。

私はやっぱり、生きてなきゃ何もできないと思うし、潰されたら何もできないんですよ。それには、機が熟すタイミングというものがあると思います。私が今までずっと自問自答しながら考えてきたのは、父があの世でもし私に望んでいることがあるならば何かということです。

きっと、絶対「生きろ、生きてやり抜け」と思っていると思うんですね。無駄死にするなって。そのために俺がこういう目に遭って、身を以て訴えたんじゃないかって。

また、事件そのものを解明することについても「父が亡くなった不幸な日を追い続けることに、どれだけの意味があるのか?」と。

私は、父の没後10年頃からは、偏向報道で書かれたことではなく、父が信念を通して命を賭したこと、この事件は何かおかしいんだということが多くの方々に分かってもらえればいいと思うようになりました。それよりも、父の生きた時間、父の功績を知ってもらうことの方が娘として親孝行出来るのではないかと。

なぜなら仮に、実行犯や指示を出した人を見つけ、その間に入っているブローカーを見つけ、さらにその大元のどこか、日本なのか、もっと上のどこかの大きな力なのか。もし仮にそこにたどりつけたとして、じゃあ何ができるのか?と。

亡くなった父の命も戻ってはきません。

これは石井紘基だけじゃないんですよ。もしかしたら時の総理も、何か大きな力で脅されていたかもしれません。じゃあ、一体それ誰がやっているんですか? 

私たちは、まずその構造を理解することの方が、意味があるのではないかと思うんですよ。

押さえつけられてもゴマをすって生きていかなくてはならない今のこの世界。みんなうすうす嫌だと思っているはずだし、本当のことを言ったら、叩かれる。潰される。みんな自分の生活があるから、何も言えない。それは仕方ないです。だけど、真実に気づくこと。この一歩からだと思うんです。

だから、「つながればパワー」じゃないけど、一人ひとりが無力じゃない、この国で起きていることは決して他人事でもない。無関心ではなく本当のことを知ること、つながっていくことからだと思うんですよね。(つづく)

構成/高山リョウ 写真提供/石井ターニャ 撮影/内藤サトル

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