コロナ禍で「自粛警察」をあそこまで突き動かした動機はなんだったのか? 『ドラえもん』のエピソードを例に不平等の是正を求める人の心の真理を考察する

インスタ、X、フェイスブックでドヤっても「あなたの欲望には決して真の満足が訪れない」人が絶えず誇示へと駆り立てられるメカニズムとは?〉から続く

コロナ禍では、営業自粛をしていない店舗に対して誹謗中傷する「自粛警察」が相次いだ。だが、はたしてその動機は、真に正義感にもとづいたものと言えるのだろうか? 書籍『嫉妬論 民主社会に渦巻く情念を解剖する』より一部抜粋・再構成し、『ドラえもん』で描かれた「ビョードーばくだん」を例に不平等の是正を求める人の心の真理を考察する。

ビョードーばくだん

国民的マンガ『ドラえもん』に「ビョードーばくだん」というエピソードがある。物語は、勉強も野球もうまくいかないのび太がドラえもんに次のように愚痴ることから始まる。

やる気しないよ。勉強したってどうせわからないし、野球はへたくそで、ジャイアンになぐられるし、ぼくがなにかすると、きっとずっこけるんだ。不公平なんだよ。生まれつき頭がよかったり悪かったり、力が強かったり弱かったり、こんなのひどいと思わないか!?(藤子・F・不二雄『ドラえもん26』小学館、1982年、65頁)

そこでドラえもんがしぶしぶ取り出したひみつ道具が「ビョードーばくだん」である。これは、標準にしたい人(ここではのび太である)の爪の垢を煎じた汁を爆弾につめ、打ち上げて爆発させる。その灰をかぶった人は標準の人物と同じになるという道具である。

さっそくのび太がこの爆弾を打ち上げ、街中のみんなが灰をかぶった結果、学校の先生を含む全員が遅刻したり、宿題を忘れるようになってしまう。みんな算数の問題も解けなくなり、かけっこも苦手になる。「みんな同じ速さってのは、公平でいいねえ」(69頁)。

のび太がそう思ったのも束の間、全員が怠け者になってしまったおかげで社会全体が機能不全に陥ってしまう、といった内容である。

このエピソードにおいて、「ビョードーばくだん」が実現するのは、文字通り一種の平等の状態である。それは人々の状態をのび太のところまで引き下げることで実現される。ここでのび太を突き動かしているのは、劣等感や嫉妬心であろう。できる人とできない人がいる世の中は不公平でおかしい。そうした正義への訴えがここには確かにある。

こうした無邪気な発想は漫画だけのものだろうか。もしかすると不平等の是正を求める正義の要求には、のび太が感じたのと同じ嫉妬心が多かれ少なかれ含まれていないだろうか。本章で扱いたいのは、正義と嫉妬のいくぶん不穏な関係である。

正義の仮面をつけた嫉妬心

これまでの議論で明らかになったことを思い起こしておこう。嫉妬はきわめて恥ずべき感情であることから、他人に知られたくないし、さらには自分でそれを認めることさえ苦痛である。したがって、嫉妬はしばしば自らを偽装する。

嫉妬はジェラシーや義憤などに身分を偽り、ときに無害を装ってその願望を密かに満たす。だからこそ、この感情は主流の社会科学ではとても扱いづらい。

こうした偽装のなかでも最もタチの悪いのが、嫉妬が正義の要求として現れるときである。人々が正義感から世直しを求めて立ち上がるとき、あるいは社会の不公正や不平等の是正を訴えるとき、そのほとんどは純粋な動機、つまりは正義感や道義心からのものであろうと思う。

他方で、そうした正義の訴えのなかに、富者や自分の気に入らない相手への私情が紛れることがあるのも事実である。成功者への嫉妬感情が経済格差への批判として現れる、そうしたことが絶対にないと言い切れるだろうか。そんな光景はすでにSNSではありふれたものではないだろうか*。

*同じような論点を扱ったものとして、スラヴォイ・ジジェク『ジジェク自身によるジジェク』(清水知子訳、河出書房新社、2005年)102ー103頁を参照。

卑近な例を挙げるとすると、筆者はかつて喫煙者であった。あるときを境にやめることにしたのだが、それ以来、他人の煙草のにおいにとても敏感になった。

かつては自分も深々と吸い込んでいたそれが空中をふわりと漂ってきて鼻腔をくすぐると、とても強い不快感を抱くようになったのだ。そういうとき、決まって私は「ここは喫煙所ではないのに……」であるとか、「近くに小さいお子さんもいるのに……」などと、常識的な正義感にもとづいて憤っているつもりであった。

不思議なことに、その不快感は、煙草を吸ったことのない人が抱くよりもはるかに強いものであった。最近でこそあまり感じなくなったものの、振り返ればこの不快感には喫煙者への嫉妬が確かに含まれていたように思う。

もしかすると近年の過度な禁煙運動もまた、受動喫煙を回避するなどと訴えつつ、同じようなマインドによって動かされている部分もあるのではないだろうか。

あるいはCOVID・19のパンデミックが始まった頃、「自粛警察」と呼ばれる人々がしばし話題になった。彼らは、政府が自粛を求めているのに、それにしたがわず営業を続けている店舗や外食を楽しんでいる人々に苛立ち、それを熱心に妨害した。

そうした嫌がらせ行為はおせっかいが行き過ぎたものがほとんどだろうが、彼らのそうした行為は嫉妬心に由来したもので、それを正義感によって糊塗したものではなかっただろうか──「みんな我慢しているのに、自分たちだけ楽しんでいるのは許せない!」

正義と嫉妬

ところで、「正義とは何か」というテーマは、政治思想や政治哲学でとても活発に議論されてきたトピックである。そこでは、様々な境遇にある人々や多様な価値観がひしめく現代にあって、どのような社会が公正かつ望ましいのか、より具体的には財をどのように分配するのか、税は誰がどの程度負担すべきかなど、概して正義にかなった社会についての規範的な議論が展開されてきた。

だが、正義や平等は嫉妬心の隠れ蓑でしかないのではないかという上記の疑念は、そうした論争に冷や水を浴びせるものだろう。こうした不穏さのために、嫉妬感情は多くの社会科学や政治哲学で抑圧されなければならなかったのではないか、そのようにすら思える。

しかし、この沈黙には例外がある。アメリカの政治哲学者であり、正義論の大家でもあるジョン・ロールズは、嫉妬が持つ威力に鋭く気づいており、この感情について議論を割いている。それでは、正義論は嫉妬をどのように扱うことができるのか。

このことを考えるために、本章ではロールズの嫉妬論を検討する。結論を先取りして言えば、私たちが見るのは、この感情を無害化し、それをアク抜きしようとするロールズの姿である。

ロールズの『正義論』

ジョン・ロールズ(1921・2002)は、アメリカのハーバード大学で長く教鞭をとった政治哲学者である。1971年に刊行された『正義論』は、それまでの政治哲学のあり方を刷新するほどの影響力を持ち、50年以上経ったいまなお同書をめぐって様々な議論が活発になされている。

ロールズについてあまりに多くの論考が書かれたことから、その趨勢はしばしば「ロールズ産業」と揶揄されることもあるほどだ。大学の政治学の授業では、『正義論』が引き起こしたインパクトとその余波をめぐっては必ず言及があるはずである。

ロールズの『正義論』と言えば、やはり「原初状態」や「無知のヴェール」、あるいは「格差原理」といった言葉がよく知られるだろう。確かにこれらはいずれもロールズが公正な社会を論理的に導出するために不可欠な考え方であり、多くの議論を呼んだことは事実である。

他方で、これらと比べるとあまり人目を惹かないものの、ロールズの『正義論』には嫉妬について二つのセクションが割かれている。第80節「嫉みの問題」および第81節「嫉みと平等」のことである。なぜ嫉妬なのか? じつはロールズは、社会における人々の嫉妬感情が、彼の正義の構想を台無しにしかねないことを恐れている。

そこで、この感情について検討し、その懸念を払拭しようというわけだ。だが、これから見るように、その目論見はあまりうまく達成されていない。それどころか、嫉妬の問題は依然としてロールズの議論の急所になっているように思われるのだ。

それでは、ロールズの公正な社会において嫉妬感情はどのように位置付けられているだろうか。そして正義の構想は、この破滅的な感情をうまくコントロールできるのだろうか。

「原初状態」とは何か

すでに述べたように、ロールズは公正な社会の正義原理を探究するために、「原初状態」というアイデアを採用している。それによると、原初状態において、人びとは「無知のヴェール」を被る。このヴェールのもとでは、人々は社会の一般的事実(たとえば、お金は少ないよりできるだけ多くあったほうがよく、人生で多様な選択肢が可能になるといった一般的なこと)については知っているが、社会における自分の立場を知らないものとされる。

そのため、人々は何が自分にとって有利/不利であるかを知らず、したがって諸個人は、社会的基本財が公正に配分されるような原理を選択するだろう、ロールズはそう推論する。

これだけではあまりに抽象的であるため、イメージが難しいかもしれない。具体的に考えてみよう。ロールズのねらいは、どのような状況であれば、当事者たちは正義の諸原理に合意できるのかを特定することだ。

かりに裕福な家庭に生まれた健康な人と、社会的なマイノリティ集団に属し、健康にリスクを抱えている人では、当然どのような社会が望ましいかにかんして、双方が納得できるような結論は得られそうにない。

前者にとっては、社会保険料を抑え、なるべく税金の負担の少ない社会が好ましいであろうし、後者にとっては社会保障が充実した福祉に手厚い社会が望ましいだろう。あるいは子育て真っ最中の人と、すでに子育てを終えた人(もしくは子どもを持たない人)とのあいだにも、国の子育て支援のあり方をめぐっては著しい見解の相違があるに違いない。

人々が有限な資源をどのように分配するのが望ましいと考えるかは、その人が置かれた状況に大きく左右される。

こうした状況を踏まえて、ロールズの無知のヴェールをめぐる議論は、個人の境遇についての知識をいったん括弧に入れた状態で、人々がどのような社会の原理を選択するかについての思考実験である。

そして彼の考えでは、人々は「マキシミン原理」(最悪の状況のときに得られる利益が最大になるような選択肢を選ぶ)にしたがい、正義の原理を選択するとされる。

ざっくり言ってしまえば、人々は、たとえ社会的に不利な立場に陥ったとしても、ほどほどの生活水準が保障されるような社会が望ましいと考えるはずだ、ということである(ここではこれ以上、原初状態にかんする議論に立ち入るつもりはない。詳しくは齋藤純一・田中将人『ジョン・ロールズ』〈中公新書、2021年〉を参照されたい)。


写真/shutterstock

嫉妬論 民主社会に渦巻く情念を解剖する(光文社新書)

山本圭

嫉妬論 民主社会に渦巻く情念を解剖する(光文社新書)

2024/2/15
946円(税込)
256ページ
ISBN: 978-4334102241
嫉妬感情にまつわる物語には事欠かない。古典から現代劇まで、あるいは子どものおとぎ話から落語まで、この感情は人間のおろかさと不合理を演出し、物語に一筋縄ではいかない深みを与えることで、登場人物にとっても思わぬ方向へと彼らを誘う。それにしても、私たちはなぜこうも嫉妬に狂うのだろう。この情念は嫉妬の相手のみならず、嫉妬者自身をも破滅させるというのに――。(「プロローグ」より)政治思想の観点から考察。

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