叫ぶ裸の女を見て大爆笑。「伊豆の踊子」にはアンジャッシュの勘違いコントに通じる笑いがある!?/斉藤紳士のガチ文学レビュー⑰

日本人初のノーベル文学賞受賞者である川端康成は日本を代表する小説家である。
その川端康成の代表作といえば「雪国」と「伊豆の踊子」である。
特に「伊豆の踊子」は掌編でありながら、何度となく映像化された名作である。
そんな日本を代表するような名作でありながら、裏のテーマとしてあるのは「勘違い」から発生したズレの面白さである。

道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追ってきた。

この秀逸な書き出しから小説は始まる。
流麗な描写、テンポ、リズム、語感、どれをとっても完成度の高い文章は見事のひと言である。
主人公の「私」は二十歳、高等学校の制帽、紺飛白の着物に袴をはき、学生カバンを肩にかけて伊豆に一人旅に出ていた。
どんな格好で旅に出とんねん! 登下校中やないか! と言いたくなるが、この時代はどこに行くのも学生はこのような服装で出かけていくのがいわばトレンドだったのだ。
主人公が旅に出た理由は自分の性質が孤児根性で歪んでいると反省し、その息苦しい憂鬱に堪えきれなくなったからである。
その道中で旅芸人の一行と出会う。旅芸人とはその名の通り旅をしながら予祝芸をもって生計を立てる芸人のことである。しかし、芸人と言っても現在のそれとはまるで違い、身分は低く、身売り同然で一座に入る者もいた。
主人公はその中にいた踊子に惹かれ、また旅芸人たちも彼の人柄に好感を持ち、下田までの旅路を共にすることになる。
主人公は踊子の瑞々しいまでの聖性や無邪気さに魅了され、別れの日には船の中で涙をこぼす、というお話である。

踊子は十七くらいに見えた。私には分らない古風の不思議な形に大きく髪を結っていた。それが卵形の凛々しい顔を非常に小さく見せながらも、美しく調和していた。

主人公は踊子に恋愛感情に似た気持ちを抱いていた。
ここに文学的な意味もあるのだろうが、笑いのポイントも隠されている。
つまり、「勘違い」によるズレの笑いが隠されているのだ。

仄暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出して来たかと思うと、脱衣場の突鼻に川岸へ飛び下りそうな恰好で立ち、両手一ぱいに伸して何か叫んでいる。手拭いもない真裸だ。それが踊子だった。

十七八だと思い込んでいた踊子が、実はまだ子供だったのだとわかり、主人公は朗らかな喜びでことことと笑い続ける。
ここでネタバラシされることにより、それまで踊子を大人の女性として意識して「向かい合って気まずくなり照れ隠しに煙草を吸って」みたり「宴席の太鼓の音が止むと踊子の今夜が汚されるのではないか」と悩んでいたことが実に滑稽に見えてくる。

「勘違い」は笑いをつくる上で欠かせない要素で、例えばそれは観客(第三者)に「勘違いさせる」場合もあれば、演者同士の「勘違い」の違和感を観客(第三者)に見せて笑いに変える手法もある。
後者の代表格はアンジャッシュだろう。
彼らの「すれ違い」コントはまさにその「勘違い」一本でストーリーが進む。
例えばとあるホテルで小学校の先生たちの会合と小児科医師会の会合が行われていて、そのホテルの待合室のようなところで二人は互いに同じ会合の参加者だと思い込み、会話をする。
だが、実際は小学校の先生とお医者さんの会話なのである。
その勘違いの相違点や偶然の合致が笑いを誘う。
「こういう先生たちの集まりって大変ですよねぇ」
「本当ですよね、まあでも子供相手の仕事ってなかなか大変ですよね。この間もおたふく風邪流行ったでしょ。あの時は大変だったんじゃないですか?」
「大変でしたよ、うちなんか慌てて休みにしましたから」
「休みにしちゃダメでしょ! 一番頑張らないといけない時に!」
という感じで会話は続く。
学校ならおたふく風邪の流行で学級閉鎖になるが、小児科は大忙しになる。
その相違点を第三者にだけ開示して笑いをとっていくのである。

「伊豆の踊子」は主人公の一人称で書かれている。
したがって主人公の勘違いはそのまま読み手にとっての勘違いに繋がる。前半は読者も踊子を大人の女性だと思い込み、淡い恋の物語だと思わされる。
だが、それがミスリードであり、主人公の勘違いであったことを知った後で読み返すとアンジャッシュのコントを見ている時のような「ズレ」の笑いを味わう読み方ができる。
文学的にも高水準の作品であるが、隠された笑いのエッセンスも洗練された見事な掌編だと感心させられる。

ジャンルで探す