「半沢直樹」シリーズ 池井戸潤が「箱根駅伝」を描いたら?選手たちと、中継担当のテレビマンの苦闘と挑戦の物語

『俺たちの箱根駅伝 上』(池井戸潤/文藝春秋)

 選手たちの魂の走り、矜持、あふれる涙——お正月から学生たちの戦いに、熱い思いに浸れるのは、それを視聴者へ送り届けようとする全身全霊の仕事があるからだ。『俺たちの箱根駅伝 上・下』(池井戸潤/文藝春秋)は、卒業を控えた陸上部主将と、箱根駅伝の中継を担当するテレビマンたちの挑戦の物語。「半沢直樹」シリーズなどの経済小説のほか、『ノーサイド・ゲーム』や『陸王』など、企業スポーツを題材とした作品でも知られる池井戸潤が、「箱根駅伝」の舞台裏を描き出す。

 明誠学院大学陸上競技部主将・青葉隼斗は、箱根に向けて練習に励んでいる。一度は敗れ、本選出場を諦めていた隼斗は、最後に巡ってきたチャンスをどうしてもものにしたいのだ。だが、チームは一枚岩ではない。意識のズレ、熱量の違いから、不協和音が広がっていく中で、隼斗はどうチームをまとめていくのだろうか。

 そんな若き選手の戦いと同時に、「箱根駅伝」中継を担う大日テレビのテレビマンたちの苦闘を描くのが、これまで多くの作品で、サラリーマンたちの葛藤を描き出してきた池井戸潤ならではだ。サラリーマンの日常は、思うにまかせないことばかり。たとえば、大日テレビ・スポーツ局では、プロデューサーの徳重が頭を抱えている。バラエティ畑出身の編成局長の黒石は、「箱根駅伝」を「地味」で「退屈」と言い捨て、その構成を大きく変えろという。「箱根駅伝」は、放送開始当初からその構成を変えたことはない。単なるスポーツ中継ならば、構成を変えるのは容易かもしれない。だが、「箱根駅伝」は、そうではないのだ。

 そもそも、池井戸が「箱根駅伝」を小説にしようと思ったのも、この番組が、「ただのスポーツ中継ではない」ということを知ったからなのだという。「箱根駅伝」が初めて生中継されたのは1987年のこと。それまで、「箱根駅伝」というコンテンツにNHKをはじめ、テレビのキー局が二の足を踏んでいたのは、当時の放送技術では、その中継は不可能と思われていたためなのだそうだ。平坦な四区までならともかく、山々に囲まれた五区は、当時の中継技術では、電波が届かず、VTRでしか届けることができない。だが、「箱根駅伝」初代プロデューサーの坂田信久は、なんとかこのレースを「生」で届けたいと執念を燃やし、テクニカル・ディレクターの大西一孝とともにそれを実現させた。箱根路を障害物なく見渡すことのできる久野林道の山頂に、中継施設を設置するという大西の大胆な発想をもとに、坂田は、他のスタッフとともに、歩きでしか到達できない山頂に、中継施設を設置したのだという。お正月に当たり前に見てきた「箱根駅伝」の中継にそんな歴史が隠されていたとは。そこまでして坂田が目指した「箱根駅伝」とはどういう番組なのか。知られざる歴史を知ればそこに込められた情熱に、何だか背筋が伸びるような気持ちにさせられる。そして、先人たちの思いを大切に受け継ごうという中で、簡単に「構成を変えろ」という黒石の提案の浅はかさに気付かされるのだ。

「箱根駅伝」中継の歴史をぶち壊しにしようとする黒石に、徳重はどう立ち向かっていくのか。その他にも、長年番組を仕切ってきたセンター・アナウンサーに悪性腫瘍が見つかったり、いつも固定カメラを設置していたマンションから「今年は協力できない」との連絡が入ったりと、問題は山積み。箱根を走る者たちが全力を尽くすのだから、放送する側だって、その中継には、持てる限り、全ての力を尽くさねばならない。社内をどうにか調整し、なんとか苦境を乗り越えていく。そんなテレビマンたちの姿はなんとも痛快だ。

 そして、迎えた箱根駅伝本選。選手たちの力強い走り、目の前で繰り広げられるレースに手に汗握らされる。と同時に、それを中継するテレビマンたちの思いにも心動かされてしまう。そうか、箱根駅伝はレースだけでなく、中継する側にもこんなにもドラマが隠されていたのか。「ああ、箱根での戦いは、やっぱり特別だ」と、実感せずにはいられなくなる。

 人の力を信じること、仲間を信じること。確かに受け継がれていくタスキの重み。若き選手とテレビマンたちの戦いを見ていると、胸の内に、熱く心地よい風が駆け抜けていく。目標に向かって懸命にひた走る人間たちはなんて美しいのだろう。大手町のフィニッシュ地点、そこに辿り着いた時、きっとあなたの胸にも熱いものがこみあげてくるに違いない。

文=アサトーミナミ

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