小便器に署名をしただけの作品。アンディ・ウォーホールや最果タヒを題材に、現代アートの難解なイメージを払拭する入門書

『現代アートはすごい デュシャンから最果タヒまで(ポプラ新書)』(布施英利/ポプラ社)

 現代アートにつきまとう難解なイメージを払拭すること。そのうえでどう作品に向きあうかを模索し続けること。布施英利氏の『現代アートはすごい デュシャンから最果タヒまで(ポプラ新書)』(ポプラ社)は、そうした試みに満ちた入門書である。現代アートは「研究」するものではなく「鑑賞」するものであり、作品の意図や狙いが分からなくても一向に構わない。筆者は普段からそう思って美術館に足を運んでいるが、そうした志向は本書にもそのまま当てはまる。

 著者が現代アートの筆頭と位置付けるのが、マルセル・デュシャンの『泉』。1917年に発表された同作は、既製品の小便器に署名をしただけの作品である。当時、同作は美術展への受け入れを拒否されたそうだが、それは『泉』がいかに先鋭的な作品だったかを物語っている。

 デュシャンには、ポストカードに印刷されたモナリザに髭を加えた『L.H.O.O.Q』という作品もある。同作にはあるメッセージが隠れているのだが、それが分からなくてもまったく問題ないだろう。学校の教科書に出てくる歴史的な人物に、いたずら書きをしたことのある人は多いと思うが、『L.H.O.O.Q』の出発点はそれと同種に見えるからだ。

 筆者が斬新な発想を提示した美術家として挙げたいのが、ジャクソン・ポロックとアンディ・ウォーホール。ポロックの絵は、床に置いたキャンバスに缶からペンキをぶちまけたり、筆からしずくを垂らしたりして作られる。それは一見デタラメだが、実は絵の濃さ、薄さ、硬さなど、使っているペンキの粘度などは周到に計算されている。そう著者は指摘する。

 重要なのは、彼以外の人がポロック風に描いてみても、同じようなものは絶対に作れないところ。ダイナミックで躍動感に溢れたポロックの作品は、本書に登場するアーティストの中では、もっとも存在感が強い。筆者はポロックの作品を間近で観て、その野趣に富む作風に圧倒された。

 ポップ・アートの旗手と言われるアンディ・ウォーホールは、マリリン・モンローやエルヴィス・プレスリーといった著名人や、コカ・コーラの瓶などの日用品も作品にしてみせた。ウォーホールの手法は、他人が撮った雑誌やブロマイドに手を加えるというもの。発表当初は賛否両論を巻き起こしたのも納得できる作品だ。

 適当に写真を切り貼りしたような彼の作品は、著者曰く、構図のセンスが抜群で色彩のバランスも完璧なのだそうだ。大量消費社会に対する皮肉や風刺、と言われることの多いウォーホールの作品だが、そうした背景や文脈を知らずとも、楽しむことは十分可能だろう。リヒターにしてもウォーホールにしても、虚心に作品を「鑑賞」すると、なんらかの感興を覚えるはずなのだから。

 河原温がカレンダーの日付だけを描いた「Today Series」も衝撃的だ。黒い画面に白い文字で日付が描かれている、それだけの作品といえばそうである。だが著者によると、同作はその日付と同じ日時に作り終えるというルールを課して作られたという。言い換えると、河原は日付を24時間以内に書き終わらなければならなかったのだ。

 リヒターにしてもウォーホールにしても、裏側にあるコンセプトを共有していなくてもまったく構わない、と著者は言う。鑑賞者には何かしらのイメージが湧きあがることこそが肝要なのだから、と。作者の意図を汲み取るかどうかはその人次第だと言う。構えすぎずに心を解き放って、美術館に足を踏み入れて欲しい、ということだろう。

 棹尾に置かれた詩人・最果タヒ氏に関する考察も興味深い。彼女の詩集は、縦書きと横書きが交錯し、紙面を斜線が横切る特異なデザインが特徴、著者も〈詩集というより抽象絵画の画集を見ているようだ〉と言う。

 文字で描く絵画という意味では、最果氏は、ピカソの友人だった美術批評家で詩人のギョーム・アポリネールの後継者かもしれない。そう著者は述べている。実際、彼女はパルコギャラリーや横浜美術館で詩の展示を行ったが、それはアートに精通していない人にも訴求力を持ったものだった。

 話が冒頭に戻るが、デュシャンは「アートとは鑑賞者が思考を巡らせることで完成する」という言葉を残している。要するに、作品を受け取った側の心の動きこそがアートを完成させる。鑑賞者と美術家が共犯関係を結ぶことで、作品を作品たらしめている、というわけだ。「現代アートはすごい」と著者に言わしめたのは、このデュシャン以降に続く自由な実践のうちにあるに違いない。

文=土佐有明

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