宮崎勤によって人生を狂わされた人々の“その後”。「あの事件以来、家族関係がゴタゴタして…。こうなったのは誰のせいですか?」#3
昭和から平成にかけて日本中を震撼させた「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」の発生から35年が経った。4人の幼い少女の命を奪い、“日本犯罪史上最悪の殺人鬼”とも言われた宮崎勤・元死刑囚とは何者だったのか? 本稿では、公判での宮崎勤の言動、死刑執行までの被害者家族の苦悩などを、写真週刊誌記者として事件を追い続けた小林俊之氏が振り返る。
昭和・平成 闇の事件簿1〜東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件発生から35年~
初公判で繰り返した不可解な言動
1990年3月30日、東京地裁で初公判が開かれた。注目の裁判は毎回、一般傍聴席を求めて長蛇の列となる。わたしは親交のある週刊誌や地方紙の記者から余った券を譲り受け、宮崎勤の公判を何度か傍聴した。
勤は初公判で捜査段階での供述を一転させ、不可解な言動を繰り返した。
「覚めない夢の中にいた気がする」
「ネズミ人間が現れて何がなんだかわからなくなり、気がついたらマネキンのようなものが落ちていた」
小太りの青年は突然、「ネズミ人間」の出現を語った。わたしの頭は混乱した。公判中、勤は鉛筆をくるくる回し、時には居眠りをしているようにも見えた。
――遺体にシーツを掛けた理由は。
「おじいさんの復活の儀式をやった。周りをゆっくり歩いて、じいさんを蘇らせたかった」
――現場で遺骨を舐めたか。
「ええ」
――添い寝したか。
「はい」
――どのように。
「脇に仰向けになった」
――時間は。
「3分」
――なぜしたのか。
「わからない」
小声のロボットと対話をしているような単調な繰り返しで、リアリティが欠落していた。
「『お父さん、私の絵を描いて』と夢の中で懇願されました」
公判は2度目の精神鑑定のため中断されたが、1995年2月2日、1年11か月ぶりに再開された。
その頃、被害女児Aちゃんの父親が心中をわたしに語ってくれた。
父親は若い頃は銀座で油絵の個展を開くほどの才能の持ち主だったが、プロにはならずに設計士の道を歩んだ。その彼を十数年ぶりにキャンバスへと向かわせたのは、夢の中のAちゃんだった。
「平成元年1989年の暮れ、Aの誕生日前後に『お父さん、私の絵を描いて』と夢の中で懇願されました。初めは4歳当時の肖像でしたが、その後、絵を描くたびに娘はどんどん成長していくのです。叶うなら、亡くなった4人の子供たちの写真を借りて、『四姉妹』というタイトルで大きなキャンバスに絵を描いてみたい」
それまで淡々と心情を吐露していた父親は、荒ぶる心を抑えきれなくなったのか、語気を強めた。
「宮崎は逃げていると思う。あれだけの文章が書けるんですよ、1から10まで狂っているということはない。原因はやはり家庭なのです。当時は死刑を願っていたが、今はなんとも言えない。もちろん宮崎を許すわけではないし、対面したら私はどうなるかわかりません。しかし、私も歳をとって白髪頭になってしまいました」
1997年4月14日、東京地裁は第一審で死刑判決を言い渡した。勤は月刊誌に心情を綴った手紙を送った。
「(死刑は)何かの間違い。(4人の幼女は)今でも夢に出てきて『ありがとう』と言って喜んでいる」
死刑判決が出た後、わたしは事件関係者を訪ね、彼らの“その後”を取材した。被害女児Bちゃんの父親が心境を語ってくれた。
「死刑の判決は出たが、まだ調べることがあると聞いていたので、長くなるのは覚悟している。世間は事件を忘れているかもしれないが、当事者にとっては(宮崎勤が)死ぬまで終わらないのです。来年は娘の十三回忌。生きていれば成人式を迎える歳になるのです。
あの事件以来、家族関係がゴタゴタして3年前から女房とは別居しています。こうなったのは誰のせいですか。家庭が壊れても誰も補償してくれないでしょう。あれ以来、新聞(購読)もやめて事件を忘れようとしているのです」
もうそっとしておいてほしい――。父親の心の叫びだった。
周囲の人間が語る“その後”の宮崎家
勤が住んでいた西多摩郡五日市町は事件後、あきる野市に名称が変わったが、勤の実家の裏を流れる秋川は変わらず清く澄んでいた。近所の主婦の話。
「(宮崎勤の)お母さんは事件後、2、3年はここに来て、『迷惑をかけた』と近所を一軒ずつ回っていました。いつだったか、(宮崎勤の)お父さんが家に来て、いきなり玄関のたたきに土下座して、『申し訳ない』と泣いていました」
宮崎家と親しかったという男性が取材に応じてくれた。
「宮崎さんの噂はここ数年まったく聞かないね。事件から2年が経った頃に老人ホームに入っていたおばあさんが亡くなったし、お父さんは自殺。その弟(宮崎勤の叔父)も五日市町で印刷業を営んでいて、事件後に勤の家族を支えていたが、数年後に亡くなった」
勤の父親は1994年11月、地上32メートルの青梅市の橋から多摩川に身を投げて自殺した。享年65歳。働き者と評判だった母親は病気で倒れ、体が不自由になったが、勤に面会するため東京拘置所に通っていたという。
2000年から翌年3月まで東京拘置所で雑役係をしていた上地勝彦さん(仮名)が塀の中の勤を語ってくれた。
「私の仕事は食事の配膳や掃除が主ですが、頼まれた本なども運んでいました。宮崎はロリコン雑誌が多かった。舎房で読める本は何冊か決まりがあるが、宮崎は優遇されていたと思う」
勤はぶくぶく太り、頭は禿げ上がって、残っていた髪もボサボサだったという。
「メガネをかけていて、いつもトレーナーを着ていました。毎日牛乳が差し入れされていたから、週に一度はお母さんが面会に来ていたと思います」
死刑確定から2年4か月が経った2008年6月17日、刑が執行された。
精神鑑定で多重人格と判断された勤の言動を“詐病”だという識者もいる。勤は逮捕後、2冊の本を上梓しているが、それらは責任逃れの遁辞かもしれない。
しかし、その言葉は犯罪解明の第一級の資料ではなかったか。“宮崎勤事件”以後に起きた神戸連続児童殺傷事件、京都小学生殺害事件、秋葉原通り魔事件など、“理解困難な殺人”を解明するための原資――勤が次に語る言葉を抹殺する死刑執行は、少し早すぎたのではとわたしは思う。
2023年8月、わたしは10年ぶりに旧・五日市町を訪ねた。勤の実家の跡地は、以前は川遊びに来る人たちの車の駐車場として1日1000円で近所の住民が管理していた。現在、駐車場はきれいに整地され、「和み広場」の看板が立てられていた。近所の住民に話を聞いた。
「3、4年前に勤のお母さんが税金を払えなくなって、あきる野市に物納したんだ。今は老人のゲートボール場だよ。墓も荒れ放題で、いずれは墓じまいになるのでは。勤の遺骨をお母さんが引き取ったという話は聞いたことがない」
勤の逮捕直後、母屋での囲み取材に対応したのは父親で、母親は下を向いたまま何も語らなかった。最後に消え入るような声でぽつりとつぶやいた母親の言葉が、今も忘れられない。
「早く結婚してほしかった」
終わり
取材・文・撮影/小林俊之
『前略、殺人者たち 週刊誌事件記者の取材ノート』(小林俊之、ミリオン出版)
小林俊之
2015/11/9
1,650円
191ページ
ISBN:978-4813022640
09/18 18:01
集英社オンライン